第13話 おじさん、異世界で料理教室を始める
三枝宗一郎が食堂を開いてから十日あまり。
その日の朝、宗一郎は自分の店の前に集まっている人々を見て、静かに扉を閉めた。
「三枝さん?」
厨房からニーナの声がした。
「どうしました?」
「ちょっと確認したいんだけど、今日って普通の営業日だよね?」
「はい。昼からいつもどおり開店する予定です」
「だよなあ……」
宗一郎はもう一度、ほんの少しだけ扉を開けた。
隙間から外を見る。
人がいる。
しかも、かなりいる。
前掛けをつけた中年女性、籠を抱えた若い娘、騎士らしい体格の男が二人、八百屋の主人、顔見知りのパン屋、その隣にはなぜか昨日まで店へ来たことのない老人まで立っていた。
ざっと十五人。
全員、宗一郎の店を見ている。
宗一郎はそっと扉を閉めた。
「……借金取りじゃないよな?」
「三枝さん、こちらの世界へ来てから借金しましたか?」
「してない」
「でしたら違うと思います」
「なら何なんだ、あれ」
ニーナも窓から外を覗き、すぐに「ああ」と納得したような声を出した。
「料理を習いに来たのでは?」
「誰に?」
「三枝さんに」
「どうして?」
「料理を教えていらっしゃるからです」
「誰に?」
「レティシア様とミレイユ様に」
「その二人だけだよ!」
宗一郎は思わず頭を抱えた。
昨日の朝、公爵レティシアと宮廷魔術師ミレイユに目玉焼きを教えた。
ただ、それだけである。
料理教室を始めたつもりなど一度もない。
ところが世間というものは、本人の知らないところで話を大きくするのが得意らしい。
「どんな噂になってるんだ?」
「ええと……」
ニーナが少し言いにくそうにする。
「遠慮しないで言って」
「『異世界から来た料理の師匠が、銀狼公に秘伝の料理術を伝授している』と」
「目玉焼きだよ!」
宗一郎の声が店中に響いた。
「卵を割って焼いただけ! 秘伝の要素、どこにあるんだよ!」
「でもレティシア様が初めて料理を成功させたという話は、昨日だけでかなり広まったようです」
「成功って言っても目玉焼き一個だからね?」
「公爵様が料理をなさったこと自体が事件なのだと思います」
宗一郎には分からなくもなかった。
あのレティシアが厨房で前掛けをつけ、卵を握り潰し、それでも最後には目玉焼きを完成させた。
城の人間にとっては、それだけでもかなり珍しい出来事なのだろう。
問題は、なぜそこから一般人まで料理を習いに来るのかということだ。
答えは、扉を開けた瞬間に分かった。
「三枝さん!」
真っ先に声をかけてきたのは、開店初日に持ち帰りの煮込みを買ってくれた縫い物屋の女性だった。
「おはようございます。あの、今日はまだ開店前なんですけど」
「分かってるよ。飯を食いに来たんじゃないんだ」
「ですよね」
「料理を教えてほしくてね」
やっぱりだった。
「どこでその話を?」
「騎士さんから」
宗一郎は集団の中にいる若い騎士を見る。
騎士が目を逸らした。
「あなた?」
「私は直接広めてはいません」
「直接?」
「同僚に話しただけです」
「その同僚が?」
「妻に」
「その奥さんが?」
「近所に」
「それを世間では広めたって言うんですよ!」
若い騎士は申し訳なさそうに頭を下げた。
宗一郎は額を揉んだ。
「それで皆さん、何を習いたいんです?」
縫い物屋の女性は少し照れたように笑った。
「うちの亭主がね、最近あんたの店で昼飯を食べるんだよ」
「ありがとうございます」
「それで家に帰ると、『三枝さんの肉は柔らかい』だの、『野菜にちゃんと味がある』だの言うようになってね」
「ああ……」
「腹が立つだろう?」
「俺に聞かれても」
「二十年以上飯を作ってきた女に、急に亭主が料理評論家みたいな顔をするんだよ。だったら一度くらい、私だって同じものを作ってやろうじゃないかと思ってさ」
理由が実に人間臭かった。
「それ、旦那さんに美味しいって言わせたいんです?」
「違うよ」
女性は即答した。
「一度黙らせたいんだ」
「目的が怖いなあ」
周囲から笑いが起きた。
次に八百屋の主人が手を上げる。
「俺は野菜だ」
「野菜を売ってる本人が?」
「そうなんだよ。売るのは分かるが、食うとなると焼くか煮るかしか知らん。お前さんの店で出す葉っぱの料理、嫁が気に入ってな」
「それなら簡単ですよ。果実酢と油と塩があれば」
「ほら、そういうのを知りたいんだ」
今度は若い娘が遠慮がちに口を開いた。
「私は来月、結婚するんです」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。それで、相手の家に入るんですけど、料理があまり得意ではなくて……」
「なるほど」
「義母が料理上手な人なので、少し怖いんです」
「それは緊張しますね」
「何か一つでも、自分でちゃんと作れる料理があればと思って」
先ほどまで半分は断ろうと思っていた宗一郎だったが、こうして理由を一人ずつ聞いてしまうと弱い。
会社員時代からそうだった。
単に「やってください」と言われれば断れることでも、事情を聞くとつい何とかしてしまう。
「……分かりました」
宗一郎が言うと、集まった人々の顔が明るくなった。
「ただし条件があります」
宗一郎は指を一本立てた。
「俺は料理人として修行した人間じゃありません。俺が教えられるのは、日本……俺の故郷で普通に家庭で作っていたような料理だけです。それでもいいなら」
「十分だよ!」
「それが知りたいんだ!」
「あと、一度に十五人は無理です。店もありますから」
「では何人なら?」
「……五人くらいかな」
宗一郎は店内を振り返った。
厨房は広くない。
安全を考えても、その程度が限界だろう。
「週に一度、店の休みの日に五人。食材代だけ負担してもらいます。あと、包丁を振り回さない人」
「そんな奴いるのか?」
八百屋が笑った。
宗一郎は遠い目になった。
「この前、長剣で野菜を切ろうとした人がいたんですよ」
全員が黙った。
「……まさか」
「誰とは言いません」
そのとき背後から声がした。
「誰の話だ、宗一郎」
聞き慣れた声だった。
宗一郎はゆっくり振り返った。
レティシアが立っている。
今日は簡素なシャツとズボン姿だが、後ろにはガレスがいるため、誰が見ても正体は分かる。
「おはようございます、公爵様」
「質問に答えろ」
「誰とは言ってませんよ」
「私以外に長剣で野菜を切ろうとする女がいるのか」
「自白しましたね」
集まった人々の間から笑いが漏れた。
レティシアがそちらを睨みそうになり、途中で思い直したらしい。
以前ならそれだけで全員が黙っただろうが、この食堂の周りでは彼女自身も少しずつ「笑われること」に慣れてきている。
「それより、何の集まりだ」
「料理を習いたいそうです」
「誰に?」
「俺に」
「なぜだ」
「公爵様に料理を教えた話が広まったからですよ」
レティシアは集まった人々を見る。
少し考えた後、当然のように言った。
「なら私も参加する」
「何で?」
「私は先に習っている」
「だから?」
「先輩だ」
宗一郎は言葉を失った。
「目玉焼き一回で先輩面しないでください」
「成功した」
「卵一個で卒業した気になってるじゃないですか」
そこへ、さらに別の声が割って入った。
「私も参加するわ」
紫色の髪を揺らしながら、ミレイユが通りの向こうから歩いてくる。
宗一郎は嫌な予感しかしなかった。
「ミレイユさん、調査は?」
「してるわよ」
「今?」
「異世界料理の地域社会への波及について」
「昨日までは俺の魔力調査だったでしょう」
「研究というものは、興味深い事象があれば広がるものよ」
「趣味を研究に言い換えないでください」
ミレイユはレティシアの隣に立った。
「それに、私の方が先輩でしょ?」
「なぜだ」
「私は卵を二回焼いたわ」
「二回目も形が崩れていただろう」
「食べられたわ」
「私の方が美しかった」
「料理を見た目で競うならあなたの最初の卵は手の中で死んだでしょう」
「言うな!」
宗一郎は頭を抱えた。
縫い物屋の女性が楽しそうに二人を見る。
「先生、あのお二人も生徒なのかい?」
「先生はやめてください」
「では師匠?」
「もっと嫌です」
「おじさん先生」
「それも何か微妙だなあ」
結局、第一回の料理教室は予定を前倒しし、その日の朝に試験的に行うことになった。
開店まで時間があるため、簡単なものなら教えられる。
生徒は一般参加の五人。
そして頼んでもいないのにレティシアとミレイユ。
合計七人である。
「まず手を洗ってください」
宗一郎が言う。
全員が水場へ向かう。
「爪の間もちゃんと。指輪をしている人は外してください。生肉を触った後はもう一度洗います」
縫い物屋の女性が首を傾げた。
「そこまでやるのかい?」
「はい。料理で一番大事なのは、食べた人を腹痛にしないことです」
「味じゃなく?」
「味が良くても三日寝込んだら二度と来てもらえません」
「そりゃそうだ」
「あと、肉を切った台でそのまま生野菜を切らない。包丁もできれば分ける。できない場合は、しっかり洗ってから使う」
宗一郎が説明していると、ミレイユが興味深そうに聞いた。
「例の細菌というものね?」
「そうです」
「まだ私は半信半疑だけれど」
「信じなくても、手を洗うだけなら損はないでしょう」
「合理的ね」
「でしょう?」
レティシアまで得意そうに頷いた。
「私はもう知っている」
「公爵様が広めたわけじゃないでしょう」
「先に習った」
「今日は本当に先輩面するなあ」
最初に作るのは、野菜と鶏肉の簡単な煮込みにした。
「料理って、難しいものを作る必要はないんです。特に毎日の飯は、続けられることが大事です」
宗一郎は根菜を持ち上げる。
「これなら皮をむいて同じくらいの大きさに切る。大きさを揃えると、火の通りも揃います」
若い娘が慎重に包丁を動かす。
「これくらいですか?」
「うん。十分ですよ。少し不揃いでも食べられますから、指を切らない方が大事」
「はい」
八百屋の主人は慣れているらしく、野菜を切るのが速い。
一方、問題児はすぐに分かった。
「レティシア様」
「何だ」
「包丁で根菜を叩き割らない」
「切れたぞ」
「割れたんです」
「結果は同じだろう」
「料理では違います」
その隣ではミレイユが包丁の背に指を添え、不自然なくらい真剣に構えている。
「ミレイユさん」
「話しかけないで。今、集中しているの」
「そこまで緊張しなくても」
「私は魔術式の刻印なら髪の毛ほどの線でも正確に引けるのよ。野菜に負けるわけにはいかない」
「野菜と戦うのやめましょう」
数分後。
ミレイユの切った根菜は、恐ろしく正確な立方体になっていた。
「……何で料理でそこまでやるんです?」
「勝った」
「誰に?」
「レティシアに」
レティシアの眉が動いた。
「私もできる」
「張り合わない!」
一般参加の五人が声を上げて笑った。
宗一郎も、もう止める気が半分なくなっている。
これで楽しく料理を覚えられるなら、それはそれで悪くない。
食材を鍋へ入れ、弱火で煮込む。
この世界では火を強くすれば早く料理ができると思っている者が意外と多いらしく、宗一郎は改めて説明した。
「肉を柔らかくしたいときは、強火で殴るみたいに加熱するより、ゆっくり煮た方がいいことがあります」
「火で殴る?」
八百屋が笑う。
「俺の周りには、そういう料理をする人が多いんですよ」
宗一郎は二人の女性を見る。
「誰のことかしら」
「分からんな」
「あなたたちですよ」
やがて鍋から湯気が立ち始めた。
鶏肉の脂と根菜の甘い香りが混ざり、厨房いっぱいに広がっていく。
縫い物屋の女性が嬉しそうに鍋を覗いた。
「うちで作る煮込みより、匂いが違うね」
「今日は肉を先に少し焼いたでしょう。それで香ばしさが出てます。それと塩を最初から全部入れないで、最後に味を見ながら足す」
「私はいつも最初に適当に入れてたよ」
「俺も昔はそうでしたよ」
「先生でも?」
「だから先生じゃありませんって。俺だって失敗しながら覚えたんです」
宗一郎は笑った。
「料理って、失敗しても次に少し直せばいいんですよ。家の飯なら特に。毎日百点を取る必要はないです」
その言葉に、結婚を控えた娘が少しだけ顔を緩めた。
「私、料理が苦手だから、嫁いだら迷惑をかけるんじゃないかと思っていました」
「最初から上手な人なんて少ないですよ」
「でも、相手のお母様は何でもできます」
「その人だって最初からできたわけじゃないでしょう」
「そうでしょうか」
「たぶん。もし生まれた瞬間から煮込みが作れたなら、その人はちょっと怖いです」
娘が吹き出した。
周囲も笑う。
「分からないことは聞けばいいし、一緒に作ったっていい。結婚したら女性だけが全部料理しなきゃいけない決まりがあるわけでもないでしょう?」
宗一郎が何気なく言うと、何人かが驚いた顔をした。
この世界では、家庭の料理は女性が担うことが多いらしい。
宗一郎はそれ以上、自分の国の常識を押しつけるつもりはなかった。
「まあ、俺は二十年以上一人で作ってましたからね。腹が減れば男でも覚えますよ」
「宗一郎」
レティシアが呼んだ。
「はい?」
「では、結婚しても料理をするのか?」
なぜか厨房が少し静かになった。
「そりゃ、相手が嫌じゃなければしますよ」
「毎日?」
「仕事の都合とかあるでしょうけど、できる方がやればいいんじゃないですか」
「妻が料理を苦手でも?」
「別に。得意不得意なんて人それぞれでしょう」
レティシアは妙に真剣な顔で考えている。
「どうしました?」
「いや……」
彼女は手元の不格好な根菜を見る。
「何でもない」
ミレイユが横で、ものすごく面白そうな顔をしている。
「ミレイユさん」
「何?」
「何で笑ってるんです?」
「あなた、本当に気づかないのね」
「何に?」
「何でもないわ」
「最近それ言う人多いなあ」
料理が出来上がるころには、参加者同士もかなり打ち解けていた。
皆で少しずつ味見をする。
「うまい!」
八百屋が声を上げる。
縫い物屋の女性も頷いた。
「これなら、うちの亭主も文句言えないね」
「そこで旦那さんに勝とうとしないでください」
「いや、一度くらい勝たせてもらうよ」
「夫婦って大変だなあ」
「独身のあんたには分からないよ」
「四十二歳の傷口をさらっと刺しますね」
また笑いが起きた。
若い娘は、自分で作った煮込みを少しずつ食べていた。
「美味しい……」
「自分で作るとちょっと嬉しいでしょう?」
「はい」
「家でも同じようにやってみてください。分からなかったらまた聞きに来ればいいですから」
「ありがとうございます」
宗一郎は、そこでふと思った。
日本にいたころ、誰かに料理を教えた経験などほとんどない。
自分の料理は、自分が生きるためのものだった。
それが異世界では、誰かの新婚生活を少し楽にしたり、夫婦喧嘩の種を減らしたり、家族の食事を少し美味しくするかもしれない。
悪くない。
そう思った。
問題は、料理教室が終わった直後だった。
「次回は肉料理だな」
レティシアが当然のように言った。
「何で公爵様が予定を決めるんです?」
「私は生徒だから希望を述べた」
「それなら希望として聞くだけです」
「私は魚がいいわ」
ミレイユまで口を挟む。
「宮廷魔術師さん、王都へ帰らなくていいんです?」
「調査が終わっていないもの」
「どの調査?」
「料理」
「ついに隠さなくなった!」
八百屋が宗一郎の肩を叩いた。
「三枝さん、来週も頼むよ」
「え、あなたも?」
「当たり前だ。嫁に今日の料理を食わせたら、次は俺が作れって言われる」
「夫婦仲良さそうで何よりです」
縫い物屋の女性も手を上げる。
「私は次は亭主を連れてくるよ」
「旦那さんも?」
「自分で文句言うなら、自分でも作れるようになってもらう」
「完全に俺の料理教室が夫婦更生施設になってる……」
こうして、宗一郎が予定していなかった「異世界料理教室」は、正式に週一回開かれることになった。
料金は食材代だけ。
定員五人。
ただし、レティシアとミレイユは本人たちの強い主張によって、なぜか定員外という扱いになった。
「ずるくないですか?」
宗一郎が言うと、レティシアは平然と答えた。
「私は最初の生徒だ」
ミレイユも負けない。
「私は研究協力者よ」
「二人とも肩書きを悪用してません?」
その日の昼。
いつものように食堂を開けると、午前中の料理教室に参加した人々が知人へ話したらしく、客がいつもより多かった。
しかも、妙な注文が増えている。
「店主! 公爵様が作った料理はどれだ!」
「ありません!」
「宮廷魔術師の焦げた卵は?」
「もっとありません!」
「一度見てみたい!」
「食べ物を見世物にしないでください!」
厨房の奥で、レティシアがむっとする。
「次は私が店の一品を作る」
「まだ早いです」
「今日の煮込みはできたぞ」
「七人で一つの鍋を作ったでしょう」
「私も切った」
「根菜を二個」
「十分だ」
「全然です」
ミレイユが笑う。
「じゃあ先に私が店へ出すわ」
「お前の料理を客に出すのは危険だ」
「何ですって?」
「事実だ」
「二人とも厨房で喧嘩しない!」
宗一郎の声が響く。
客たちはまた笑った。
最近、店で一番人気なのは宗一郎の料理ではなく、公爵と宮廷魔術師の言い争いではないかという疑惑まで出てきている。
夕方。
最後の客を見送った後、宗一郎が鍋を洗っていると、レティシアが珍しく一人で近づいてきた。
「宗一郎」
「どうしました?」
「今日の話だが」
「料理教室?」
「違う」
レティシアは少し言いにくそうに間を置いた。
「妻が料理を苦手でも構わないと言っていただろう」
「言いましたね」
「それは本気か?」
「本気ですよ。料理なんて、できる人がやればいいでしょう」
「そうか」
「何でそんなこと気にしてるんです?」
「別に」
「公爵様、結婚する予定でもあるんです?」
宗一郎としては何気ない質問だった。
ところがレティシアの動きが止まった。
「……今のところはない」
「そうなんですか。公爵なら縁談とか多そうですけど」
「多い」
「やっぱり」
「全部断っている」
「もったいないですね。公爵様、美人なのに」
宗一郎は洗った皿を棚へ置いた。
そのため、後ろでレティシアが固まっていることに気づかなかった。
「……宗一郎」
「はい?」
「今、何と言った」
「縁談がもったいないって」
「その後だ」
「美人なのに?」
レティシアの耳が少し赤くなった。
「そういうことを簡単に言うな」
「何でです?」
「知らん!」
「自分で聞いたでしょう!」
レティシアはそのまま店を出ていった。
宗一郎は布巾を持ったまま、しばらく扉を見つめた。
「……何だったんだ?」
入れ替わるようにミレイユが厨房へ顔を出した。
「レティシア、すごい顔で帰っていったけれど、何を言ったの?」
「美人だって言っただけです」
ミレイユは数秒黙った。
それから額を押さえた。
「あなたねえ……」
「何です?」
「その調子で四十二年生きてきたの?」
「急に人生全部を否定しないでくださいよ」
「否定したくもなるわ」
「だから何が?」
「自分で考えなさい」
「またそれ!」
宗一郎には本当に分からなかった。
ただ翌日から、レティシアが食堂へ来るたび、以前より少しだけ宗一郎の顔を見てから席へ座るようになった。
そして宗一郎が他の女性客と楽しそうに話していると、なぜか野菜を噛む音が少しだけ強くなるようになったことにも、まだ気づいていなかった。




