第12話 宮廷魔術師、卵すらまともに焼けない
翌朝、三枝宗一郎は食堂の厨房に立ち、二人の女を前にして、早くも昨日の自分を叱りたくなっていた。
「いいですか。今日は料理教室です。魔術の研究でも剣術の稽古でもありません。まずは、それを頭に入れてください」
「分かっているわ」
宮廷魔術師ミレイユ・エルノアは、いつもの黒と青の長衣ではなく、ニーナから借りた白い前掛けをつけていた。ただし腰には魔術用の小さな杖が差してあり、それだけで宗一郎の不安はかなり大きい。
「私も分かっている」
もう一人の生徒であるレティシアも、普段の軍装ではなく簡素なシャツに袖を通し、その上から前掛けをつけている。
こちらは剣を持ってきていない。
そこだけは評価したい。
「じゃあ最初に確認します。厨房で剣を抜かない」
「今日は持っていない」
「魔法で大火力を出さない」
「大火力というのは、どの程度?」
「聞き方が怖いんですよ」
「料理に必要な火力を知りたいだけよ」
「俺が『もう少し火を強く』と言っても、昨日みたいにパンを黒い板にしない程度です」
ミレイユの眉がぴくりと動いた。
「あれは失敗ではないわ」
「じゃあ何だったんです?」
「……火力の検証」
「料理の途中で実験しないでください」
レティシアが鼻で笑った。
「最初から私の方が有利だな」
「どうしてです?」
「私は魔法を使わない」
「この前、山羊肉を石みたいに焼いた人が言う台詞じゃありませんよ」
「それは火加減を少し誤っただけだ」
「肉が武器になる程度を『少し』で済ませないでください」
厨房の入口に立っていたニーナが、朝からすでに肩を震わせている。
宗一郎は二人の前に大きな森鶏の卵を二つずつ置いた。
「今日の課題は簡単です。卵を焼きます」
「それだけ?」
ミレイユが拍子抜けしたように言う。
「それだけです」
「私を誰だと思っているの。王宮魔術院でも上位の火属性術式を扱えるのよ」
「だから心配なんです」
「失礼ね」
「魔法が強いことと、卵を美味しく焼けることは別問題です」
レティシアが卵を持ち上げる。
「これは割ればよいのか」
「はい。まず器の縁に軽く当てて、殻にひびを入れます。力を入れすぎないでください」
「加減くらいできる」
「その台詞、昨日も聞いた気がするなあ」
宗一郎は二人へ手本を見せた。
卵を器の縁へ軽く当てる。
小さなひびが入る。
両手で殻を開き、中身を器へ落とす。
「ほら、こんな感じです」
「簡単ね」
ミレイユが卵を手に取った。
宗一郎が止めるより先に、器へ打ちつける。
ぱきん、と乾いた音がした。
次の瞬間、卵の中身と一緒に細かな殻が大量に器へ落ちた。
「……」
「……」
宗一郎とレティシアが黙った。
ミレイユは器の中を見る。
「少し殻が入ったわ」
「少し?」
「取ればいいでしょう」
「取るのは正しいです。でも、何でそんな勢いで叩いたんです?」
「魔力触媒の結晶を砕くときは、これくらいよ」
「卵は魔力触媒じゃないんです」
レティシアが得意そうに卵を持った。
「見ていろ、ミレイユ。こういうものは繊細さだ」
「あなたに言われたくないわね」
「私は剣士だ。刃先の加減には慣れている」
「じゃあやってみてください」
レティシアは器の縁へ卵を軽く当てた。
一度。
割れない。
二度。
まだ割れない。
「もっと強くても大丈夫ですよ」
「分かっている」
三度目。
レティシアの指に少し力が入った。
卵は器の中ではなく、彼女の手の中で潰れた。
黄身と白身が指の間から流れ落ちる。
レティシアは動かなかった。
宗一郎は黙って布巾を差し出した。
「……笑え」
「いや、我慢してます」
「笑っている顔だ」
「口には出してません」
「それを笑っていると言う!」
ニーナが厨房の入口から逃げるように離れた。
明らかに声を出して笑う前に退避したのだろう。
ミレイユは遠慮なく笑っている。
「繊細さ、だったかしら?」
「黙れ」
「刃先の加減には慣れているのよね?」
「卵は剣を受けてこないから勝手が違う!」
「卵に反撃を求めないでください」
宗一郎は潰れた卵を片づけ、新しいものを一つ渡した。
「もう一回です。力を入れすぎない。料理は相手を倒すものじゃないんですから」
「分かった」
「本当に?」
「分かったと言っている」
今度は無事に割れた。
殻がほんの少し落ちたが、宗一郎は何も言わず取り除いた。
「よし。二人とも中身は用意できましたね。次は焼きます」
鉄製の平鍋を二つ並べる。
宗一郎は少量の油を引き、竈の火を調整した。
「大事なのは、強すぎない火で焼くことです。卵はすぐ固まりますから」
「弱火でいいのね」
「最初はそれで。ミレイユさんは今日は魔法を使わないでください」
「なぜ?」
「昨日の実績です」
「まだ引きずるの?」
「店を燃やされたら引きずるどころじゃありません」
「燃えてないでしょう」
「パンは燃えかけました」
ミレイユは渋々、竈の火を使うことにした。
しかし今度は別の問題が発生した。
「宗一郎さん」
「はい?」
「火が弱い」
「ちょうどいいです」
「待っている時間が無駄だわ」
「料理は待つ時間も大事です」
「魔法なら一瞬で加熱できるのに」
「一瞬で炭にもできますよね」
「それは術者の腕次第よ」
「昨日その術者がパンを焦がしたんですが」
「あなた、案外しつこいわね」
「厨房の安全に関してはしつこくなります」
隣ではレティシアが真剣な顔で鍋を見ている。
戦場でもこれくらい集中するのだろうかと宗一郎は思った。
「公爵様、まだ卵入れなくていいですよ」
「分かっている」
「鍋を睨んでも早く温まりません」
「睨んでいない」
「戦う顔になってます」
「料理も真剣勝負だろう」
「そこから離れてください」
しばらくして鍋が温まる。
「では卵を入れてください」
二人が同時に器を傾けた。
じゅう、と心地よい音がした。
「おお」
レティシアが小さく声を漏らす。
「卵が広がったぞ」
「そういう料理です」
「面白いな」
「そこは素直なんですね」
一方のミレイユは、卵の縁が白く固まり始める様子をじっと見ている。
「宗一郎さん、もう触っていい?」
「まだです」
「いつ?」
「もう少し」
「どれくらい?」
「白身のこの辺が固まるまで」
「時間で言って」
「火加減や鍋で変わります」
「曖昧ね」
「料理ってそういうものです」
「術式なら条件を数値化するわ」
「じゃあ将来、料理魔法でも研究してください」
「それ、悪くないわね」
「今考えないでください」
数分後、宗一郎は木べらを渡した。
「今日は目玉焼きなので、ひっくり返さなくて大丈夫です。少し水を入れて蓋をすると黄身まで火が通りやすいんですが、半熟が好きならこのままでも」
「私は半熟だ」
レティシアが即答した。
「食べたことあるんです?」
「今決めた」
「好みの決め方が雑だなあ」
「宗一郎は?」
「俺は半熟ですね」
「では私もだ」
宗一郎は一瞬、レティシアを見た。
「自分の好みで決めてくださいよ」
「今、自分で決めた」
「俺の答えを聞いた後でしょう」
「偶然だ」
「そういうことにしておきます」
ミレイユが横から笑う。
「分かりやすいわね、あなた」
「何がだ」
「別に」
「言いたいことがあるなら言え」
「料理に集中しなさいよ。焦げるわよ」
その一言で、レティシアが慌てて鍋へ顔を戻した。
宗一郎は少しだけ口元を緩めた。
料理そのものより、この二人の扱い方の方が難しい。
やがて完成した。
レティシアの目玉焼きは、形こそ少しいびつだが、白身はきちんと固まり、黄身も程よく柔らかい。
「できた」
レティシアが皿を持ち上げる。
声にわずかな誇らしさがある。
「ちゃんとできましたね」
「当然だ」
「さっき卵握り潰した人とは思えません」
「余計なことを言うな」
「でも初めてなら十分ですよ」
「……そうか」
宗一郎が素直に褒めると、レティシアは少しだけ嬉しそうに皿を見た。
一方、ミレイユの鍋からは妙な匂いがしていた。
「ミレイユさん」
「何?」
「何したんです?」
「少しだけ魔法を使った」
「使うなって言いましたよね?」
「火の通りが遅かったから補助しただけよ」
宗一郎は鍋を覗いた。
白身の縁が黒くなり、黄身の表面にはなぜか小さなひびが入っている。
「これ、卵ですか?」
「卵よ」
「焼いたというより攻撃された跡に見えるんですけど」
「大げさね」
「食べてみてください」
ミレイユは自信満々で皿へ移し、一口食べた。
表情が止まる。
「どうです?」
「……固い」
「でしょうね」
「黄身が粉っぽい」
「でしょうね」
「白身の端が苦い」
「でしょうね」
「あなた、最初から分かってたでしょう!」
「見れば分かりますよ!」
レティシアが勝ち誇った顔で、自分の目玉焼きを一口食べる。
「美味い」
「初めて自分で作ったから余計に美味しいんですよ」
「宗一郎、お前も食べるか」
「いいんです?」
「味見だ」
レティシアは自分の皿を宗一郎の方へ少し押した。
宗一郎は木べらで小さく切り、一口食べる。
「うん。ちょっと油が多いけど、ちゃんと美味しいですよ」
「そうか」
レティシアの顔が明らかに緩んだ。
「では明日は肉を焼く」
「一段ずつ行きましょう」
「もう卵はできる」
「一回成功しただけで卒業しないでください」
ミレイユが悔しそうに二人を見る。
「私ももう一度やる」
「今?」
「今よ」
「材料にも限りがあるんですが」
「代金は払う」
「そういう問題じゃないです」
「では三回」
「増えた!」
宗一郎が止める間もなく、ミレイユは新しい卵を手に取った。
今度は慎重だった。
殻を割る。
油を引く。
竈の火だけを使う。
「魔法使わないでくださいね」
「分かってるわよ」
「杖に手を伸ばさない」
「癖なの!」
「料理中の危ない癖ですね」
二度目の卵は、先ほどよりかなりまともに焼けた。
形は崩れていたが、食べられる。
「どう?」
ミレイユが宗一郎へ尋ねる。
「十分です。最初より全然いい」
「もっと褒めて」
「急に素直ですね」
「成長したのよ?」
「そこを言われると褒めないわけにいかないなあ。ちゃんと火を我慢できたのは良かったですよ」
「子供を褒めるみたいに言わないで」
「だってさっきまで火力で解決しようとしてたでしょう」
レティシアが横から言う。
「私の方が上手いがな」
「一回勝っただけで偉そうね」
「勝ちは勝ちだ」
「料理は勝負じゃないって昨日言われたでしょう!」
「お前に言われたくない」
二人が言い合いを始めた。
宗一郎は片づけをしながら放っておいた。
止めてもすぐ再開する。
これも、この二人なりの距離感なのだろう。
ただ、少し前までの宗一郎なら、公爵と宮廷魔術師が自分の厨房で卵焼きの出来を競っている光景など想像もできなかった。
異世界に来てから、驚く基準が随分おかしくなっている。
「そろそろ開店準備しますよ」
宗一郎が声をかける。
「二人とも厨房から出てください」
「私は手伝う」
レティシアが言う。
「仕事は?」
「今日は少し遅くてもいい」
「駄目です」
「なぜだ」
「公爵が食堂の手伝いで公務に遅れるのは駄目でしょう」
「では皿だけ並べる」
「帰ってください」
「冷たいな」
「そこはちゃんと仕事してください」
ミレイユも前掛けを外さない。
「私は調査があるから残るわ」
「何の調査です?」
「異世界人が食堂をどう運営しているか」
「昨日までは魔力調査でしたよね?」
「調査項目を増やしたの」
「便利だなあ、その肩書き」
結局、ミレイユは店に残り、レティシアはガレスに連れ戻されることになった。
店を出る直前、レティシアが振り返った。
「宗一郎」
「はい」
「昼には来る」
「分かりました」
「今日の私の卵は」
「ちゃんと美味しかったですよ」
レティシアは一瞬だけ黙った。
それから満足そうに頷いた。
「ならよい」
外へ出ていく。
宗一郎は、その背中を見ながら少し笑った。
「本当に料理が嬉しかったんですね」
ミレイユが横から言う。
「初めて自分で作ったものですからね」
「そうじゃないと思うけど」
「え?」
「何でもない」
ミレイユは宗一郎を見て、何かを諦めたように肩をすくめた。
昼の営業は、いつも以上に忙しくなった。
騎士団の者たちが「閣下が朝から食堂で卵を焼いていたらしい」と聞きつけ、真偽を確かめに来たからである。
「三枝さん、本当ですか!」
「何が?」
「閣下が料理をしたというのは!」
「しましたよ」
「怪我人は?」
「出てません」
「奇跡だ……」
「公爵様を何だと思ってるんです?」
「戦場では頼もしいお方です」
「厨房では?」
「……」
「そこで黙るな」
さらに、誰が言い出したのか「女公爵手作りの卵料理」という話まで広がり、食堂の前にはいつも以上の人が集まった。
「公爵様の料理は売りませんよ!」
宗一郎が何度説明しても、客は面白がる。
「一度食べてみたい!」
「命の保証は?」
「何で食事に命の保証が必要なんですか!」
昼過ぎにレティシア本人が来たころには、話がかなり大きくなっていた。
「閣下! 卵料理を作れるようになったと聞きました!」
騎士の一人が言う。
「うむ」
「ぜひ我々にも!」
レティシアが胸を張る。
「よかろう」
「よくないです」
宗一郎が即座に止めた。
「なぜだ」
「今日は営業中です。厨房は俺が使います」
「なら夜に」
「公爵様、完全に料理に目覚めてません?」
「悪いか」
「悪くないですけど、本業忘れないでくださいよ」
レティシアは少し考え、それから真面目な顔で言った。
「では、週に一度だけ教えろ」
「週一?」
「ああ。それなら仕事にも支障は出ない」
宗一郎は断る理由を探した。
だが、昨日まで料理を「腹に入れば同じ」と言っていた女が、自分から覚えたいと言っている。
それを無下にするのも違う気がした。
「……分かりました。週一回だけですよ」
「約束だな」
「ただし、基本からです」
「よい」
「野菜を切る練習もします」
「剣は?」
「使いません」
「包丁は?」
「もちろん」
「分かった」
レティシアは思ったより素直に頷いた。
その横からミレイユが口を挟む。
「私も週一?」
「あなたは数日で王都へ帰るんじゃないんですか?」
「調査が長引く可能性が出てきたわ」
「何でです?」
「異世界人の生活環境の継続観察」
「絶対料理が理由ですよね?」
「半分くらい」
「認めるんだ……」
レティシアがミレイユを睨む。
「お前は帰れ」
「嫌よ」
「王都に仕事があるだろう」
「あなたこそ城に仕事があるでしょう」
「私は領主だ」
「私は宮廷魔術師よ」
「どちらもちゃんと働いてください!」
宗一郎の声が店中に響いた。
客たちが一斉に笑う。
四十二歳まで会社の総務で、上司と部下の間に挟まれてきた。
異世界へ来れば、そんな苦労から解放されるかもしれないと、ほんの少しだけ思ったこともある。
実際は、公爵と宮廷魔術師の間に挟まれている。
「役職が豪華になっただけじゃないか……」
宗一郎がぼそりと呟くと、近くにいたガレスが肩を叩いた。
「ご苦労、よく分かります」
「副団長」
「何でしょう」
「あなた、今日から同志です」
「喜ぶべきでしょうか」
「たぶん違います」
二人でため息をついた。
その夜、宗一郎は売上を数えながら、朝の料理教室で余った卵を見つめていた。
店は少しずつ軌道に乗っている。
文字も少しずつ覚えている。
レティシアとの距離も、最初に街道で会ったころより確実に近くなった。
それが良いことなのかどうかは、まだ分からない。
ただ、彼女が自分で焼いた目玉焼きを嬉しそうに見ていた顔は、妙に印象に残っていた。
「……今度はもっと簡単な料理からにするか」
宗一郎が一人で献立を考えていると、表の扉が叩かれた。
もう店は閉めている。
「誰だろう」
扉を開けると、ガレスが立っていた。
いつもの気楽な顔ではない。
「三枝さん、少しよろしいですか」
「何かありました?」
「領都の南にある村から、急ぎの報告が入りました」
「村?」
「数日前から、子供を中心に腹を壊す者が増えているそうです。今朝になって大人にも広がり始めた、と」
宗一郎の表情が変わった。
厨房で衛生管理の話をしたばかりだった。
「原因は?」
「まだ分かっておりません。ただ、井戸水か食べ物ではないかと」
「医者は?」
「すでに向かっています」
ガレスは少し言いにくそうに続けた。
「それと、閣下が現地へ行くとおっしゃっています」
宗一郎は目を閉じた。
「怪我が治ったばかりですよね」
「私も止めました」
「止まりました?」
「止まる閣下なら、私はこんな時間にここへ来ておりません」
「ですよねえ……」
宗一郎は頭を抱えた。
朝は卵を焼けたことで喜んでいた女公爵が、夜には疫病かもしれない村へ自ら向かおうとしている。
その落差が、あまりにもレティシアらしい。
「出発は?」
「明朝です」
「……分かりました。俺も準備します」
ガレスが驚いた。
「三枝さんも?」
「戦うことはできません。でも、食べ物や水が原因なら、多少は役に立てるかもしれない」
「危険かもしれませんぞ」
「分かってます」
宗一郎は少し考えてから、苦笑した。
「ただ、公爵様だけ行かせたら、たぶん現地でもちゃんと飯を食べないでしょう」
ガレスも苦笑した。
「それは否定できませんな」
異世界へ来てから、まだ十日ほど。
宗一郎はようやく食堂の生活に慣れ始めたところだった。
しかし、異世界という場所は、どうやらのんびり店だけを続けさせてくれるほど甘くはないらしい。
翌朝、宗一郎は初めて自分の食堂を臨時休業にし、レティシアたちとともに領都の外へ向かうことになる。




