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奪われたマウンドを、もう一度  作者: ちょこまろ


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5/5

最終話 もう一度、私のマウンドへ

ついに迎えた決勝戦。


相手は県内屈指の強豪校。

そして、そのチームの背後には、かつて里帆とバッテリーを組んでいた神崎美羽の存在がありました。


奪われた背番号。

壊された夢。

言えなかった痛み。


過去と現在が交差するグラウンドで、里帆はもう一度、自分の人生に向き合います。


これは、奪われたマウンドの先で、彼女が新しい居場所を見つける最終話です。

 決勝前、ベンチ裏で美羽が待っていた。


 まるでドラマの一場面のように、きれいな姿で。


「里帆」


 美羽は微笑んだ。


「すごいね。決勝まで来るなんて」


「ありがとう」


 里帆は短く答えた。


 美羽は少し意外そうな顔をした。


 昔の里帆なら、黙り込んでいたからだろう。


「SNS、大変だったね」


「そうだね」


「私もびっくりした。誰が書いたんだろうね」


 里帆は美羽を見た。


 美羽の表情は完璧だった。


 同情と心配を混ぜた、優しい顔。


「美羽」


「何?」


「私、ずっと考えてた」


 里帆は静かに言った。


「あの日、どうして止めてくれなかったんだろうって。どうして監督に言ってくれなかったんだろうって。どうして、私の球がおかしいって分かってたのに、黙ってたんだろうって」


 美羽の笑顔が少し薄くなった。


「急に何を」


「でも、もういい」


 里帆は続けた。


「あなたがどうして黙ってたのか、もう知りたいと思わない」


「里帆」


「私は、あなたに謝ってほしかったんじゃない。私の夢を返してほしかったんでもない」


 本当は、ずっと返してほしかった。


 あのマウンドを。あの背番号を。代表に届くかもしれなかった未来を。


 でも、もう分かった。


 返してもらうものではなかった。


「私は、あなたの物語の脇役じゃない」


 美羽の目が揺れた。


「あなたが夢を語るための、失敗した元チームメイトじゃない。あなたが輝くために、消えた選手じゃない」


 里帆は息を吸った。


「私は、私の人生に戻る」


 美羽はしばらく黙っていた。


 やがて、口元だけで笑った。


「……変わったね」


「うん」


「昔は、もっと素直だった」


「昔は、あなたを信じてたから」


 美羽の表情から、初めて余裕が消えた。


 その顔には、勝者の余裕ではなく、長い間見ないふりをしてきたものを突きつけられた人の怯えがあった。


 里帆はそれ以上何も言わなかった。


 復讐の言葉は、いらなかった。


 決勝戦が始まった。


 相手は強かった。


 打球の速さが違う。走塁の判断が早い。守備に隙がない。


 初回、芽衣は二点を取られた。


 ベンチに重い空気が落ちる。


 でも、誰も下を向かなかった。


「二点なら返せる」


 キャプテンが言った。


「一個ずつアウト取ろう」


 捕手が芽衣に声をかけた。


 芽衣は頷いた。


 里帆はその姿を見て、胸が熱くなった。


 このチームは、もう弱くない。


 点差ではなく、心が。


 三回、こちらは一点を返した。


 五回、相手のエラーに乗じて同点。


 相手は、勝ち慣れていた。


 だからこそ、予定外に粘られることに慣れていなかった。


 強豪校の内野に、わずかな焦りが見え始める。


 スタンドがざわつく。


 美羽はバックネット裏で見ていた。


 きっと、ここまで食い下がるとは思っていなかったのだろう。


 最終回。


 同点のまま、相手の攻撃。


 ツーアウト満塁。


 打席には、相手の四番。


 芽衣の額から汗が落ちていた。


 里帆はタイムを取った。


 マウンドに向かう。


 白い円の中に入った瞬間、足元から記憶が湧き上がった。


 かつて自分が立っていた場所。


 奪われたと思っていた場所。


 でも今、このマウンドに立っているのは芽衣だ。


 里帆は彼女の横に立った。


「怖い?」


 芽衣は頷いた。


「怖いです」


「逃げたい?」


「少し」


「それでいい」


 芽衣が驚いた顔をする。


「怖くない投手なんていない。逃げたいと思わない人もいない。大事なのは、怖いまま投げること」


 里帆はミットを構える捕手を見た。


「あなたの球は、ちゃんと届く」


 芽衣の目に涙が浮かんだ。


 でも、こぼれなかった。


「瀬名さん」


「何?」


「私、打たれても謝りません」


 里帆は笑った。


「うん。謝らなくていい」


 ベンチに戻る途中、里帆は空を見た。


 長かった。


 本当に長かった。


 壊れたあの日から、ずっと夜の中にいるようだった。


 どこへ行けば朝になるのか分からなかった。


 でも今、グラウンドの真ん中に、光がある。


 芽衣が振りかぶる。


 一球目。


 外角低め。ストライク。


 二球目。


 相手が強振する。ファウル。


 追い込んだ。


 スタンドの声が大きくなる。


 三球目。


 里帆はサインを出した。


 逃げる球ではない。


 内角へ。


 芽衣は頷いた。


 腕が振られる。


 ボールは、打者の胸元をえぐるように入った。


 バットが空を切る。


 ミットに収まる音。


 審判の右手が上がった。


「ストライク! バッターアウト!」


 球場が揺れた。


 芽衣はマウンドで一瞬固まり、それから叫んだ。


 部員たちが駆け寄る。


 里帆はベンチの前で、動けなかった。


 まだ試合は終わっていない。同点のまま、こちらの攻撃が残っている。


 けれど、その三振だけで十分だった。


 芽衣は、逃げなかった。


 そしてその裏。


 二アウト三塁。


 打席にはキャプテン。


 相手投手も疲れていた。


 里帆はサインを出す。


 初球から行け。


 キャプテンは頷いた。


 白球が来る。


 バットが振り抜かれる。


 打球は三塁線を破った。


 三塁走者がホームへ走る。


 送球は間に合わない。


 サヨナラ。


 勝った。


 誰かが泣いた。


 誰かが叫んだ。


 芽衣が里帆に抱きついてきた。


「勝ちました!」


「うん」


「勝ちました、瀬名さん!」


「見てた」


 里帆の声は震えていた。


 涙が頬を伝った。


 悔しい涙ではなかった。


 うれしい時にしか泣きたくない。


 そう願っていた自分に、ようやく約束を守れた気がした。


 表彰式の後、美羽が里帆の前に来た。


 今度は、笑っていなかった。


「おめでとう」


「ありがとう」


「……里帆」


 美羽は何かを言いかけた。


 謝罪だったのかもしれない。言い訳だったのかもしれない。あるいは、昔のように笑ってごまかすつもりだったのかもしれない。


 でも里帆は、それを待たなかった。


「美羽」


「何?」


「私、もう大丈夫」


 美羽の目が揺れる。


「あなたに勝ったからじゃない。あの頃の私に戻れたからでもない」


 里帆は、遠くで笑う芽衣たちを見た。


「私は、あの頃の私じゃなくても、もう一度ソフトを好きでいられるって分かったから」


 それだけ言って、里帆は歩き出した。


 背中に美羽の視線を感じた。


 でも、振り返らなかった。


 その夜、里帆は店の倉庫で、古い段ボールを開けた。


 中には、ずっと捨てられなかったものが入っていた。


 色褪せたスコアブック。高校時代の写真。実業団の入団時にもらったタオル。そして、背番号1のユニフォーム。


 長い間、見ることもできなかった。


 里帆はユニフォームを広げた。


 胸の奥が痛んだ。


 でも、その痛みは、もう自分を壊すものではなかった。


 あの日の自分は、確かにここにいた。


 夢を見ていた。


 代表に届くかもしれないと信じていた。


 それは奪われたかもしれない。


 でも、夢を見た時間そのものまで、誰かに渡す必要はなかった。


「瀬名」


 倉庫の入口に蒼真が立っていた。


「店長が、裏開いてるって言ってた」


「勝手に入ってこないでください」


「声はかけた」


「聞こえてません」


「泣いてたからな」


 里帆は慌てて目元を拭いた。


「泣いてません」


「そうか」


「そうです」


 蒼真は近づいてきて、里帆の手元のユニフォームを見た。


「背番号1か」


「昔のです」


「似合いそうだな」


「もう着ませんよ」


「着なくてもいい」


 蒼真は静かに言った。


「でも、捨てなくてもいい」


 里帆はユニフォームを見つめた。


「ずっと、これを見ると負けた気がしてました」


「誰に」


「美羽に。チームに。昔の自分に」


「今は?」


 里帆は少し考えた。


 そして、小さく笑った。


「頑張ってたなって思います」


 蒼真も、わずかに笑った。


「それで十分だろ」


 しばらく沈黙があった。


 夜の店は静かだった。外では車が通り過ぎる音がする。遠くで海風が看板を揺らしている。


「黒瀬さん」


「何だ」


「私、コーチの資格、取ろうかな」


 言ってから、自分で驚いた。


 でも、その言葉は不思議なくらい自然だった。


 蒼真は少しだけ目を見開き、それから言った。


「いいんじゃないか」


「向いてますかね」


「優しくはないな」


「あなたに言われたくないです」


「でも、見る目はある」


 里帆は笑った。


 久しぶりに、心から笑えた。


「それ、褒めてます?」


「かなり」


「分かりにくいです」


「よく言われる」


 蒼真はユニフォームから里帆へ視線を移した。


「初めて店で見た時から思ってた」


「何をですか」


「お前、道具を触ってる時だけ、少し息ができてる顔をしてた」


 里帆は言葉を失った。


 そんなところを見られていたのかと思うと、恥ずかしかった。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


「だから、ソフトが嫌いになったわけじゃないんだろうなって思ってた」


「……勝手ですね」


「そうだな」


「でも、当たってます」


 蒼真は少しだけ笑った。


「俺は、お前がもう一度投げるところを見たいんじゃない」


 里帆の胸が、静かに鳴った。


「お前が、もう一度笑うところを見たかった」


 その言葉は、告白よりも静かで、告白よりも深いところに届いた。


 里帆は何か返そうとした。


 でも、うまく言葉にならなかった。


 蒼真は照れたように帽子のつばを触った。


「まあ、今日見たけどな」


「……ずるいですね」


「何が」


「そういうこと、急に言うところ」


「急じゃない。ずっと思ってた」


 里帆は顔が熱くなるのを感じた。


 恋と呼ぶには、まだ早いのかもしれない。


 でも、傷を見せても壊れない関係があることを、里帆は初めて知った気がした。


 誰かに救われたのではない。


 自分で立ち上がった。


 けれど、その途中で隣にいてくれた人がいる。


 それは、思っていたよりずっと心強かった。


 翌週、商店街の掲示板から神崎美羽の講演会ポスターが外された。


 代わりに貼られたのは、地区大会優勝を知らせる高校ソフトボール部の写真だった。


 中央には、笑顔の芽衣たち。


 端の方に、里帆も小さく写っている。


 ジャージ姿で、少し照れくさそうに笑っている。


 店の前を通った小学生の女の子が、その写真を見上げて言った。


「この人たち、かっこいい」


 里帆は店の中からそれを聞いて、少しだけ笑った。


 かっこいい。


 その言葉が、芽衣たちに向けられたものだとしても、なぜか自分まで救われる気がした。


 夕方、練習に向かうため、里帆は店のシャッターを半分下ろした。


 バッグには、古いグローブと、新しく買ったホイッスル。


 そして、背番号1のユニフォームは、もう段ボールの中ではなく、部屋のクローゼットにかけてある。


 着るためではない。


 隠さないために。


 グラウンドへ向かう白い砂利道を歩く。


 海からの風が頬を撫でた。


 遠くから、部員たちの声が聞こえる。


 芽衣の投げる球が、ミットに収まる音も。


 里帆は足を速めた。


 昔のままではいられない。


 でも、昔の自分を捨てなくてもいい。


 奪われたマウンドを、取り返したわけじゃない。


 もっと大事なものを、見つけたのだ。


 誰かが逃げずに立てる場所を、今度は自分が作っていく。


 それが、里帆にとっての新しいマウンドだった。


 グラウンドの入口で、蒼真が待っていた。


「遅い」


「時間通りです」


「俺より遅い」


「基準がおかしいです」


 蒼真は笑い、里帆にボールを一つ投げた。


 里帆は左手で受け取った。


 それでも、投げる動作を思い出した右肩が、少しだけ疼いた。


 けれどもう、その痛みは怖くなかった。


 里帆はボールを握り、芽衣たちのいるマウンドを見た。


 夕陽がグラウンドを染めている。


 あの日と同じ色。


 でも、もう同じ夜ではない。


「始めようか」


 里帆が言うと、芽衣たちが一斉に返事をした。


 その声は、長い夜を抜けた朝のように、海風の向こうへまっすぐ響いた。


― 完 ―

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。


『奪われたマウンドを、もう一度』は、夢を失った元投手・瀬名里帆が、弱小女子ソフトボール部の少女たちと出会い、もう一度ソフトボールを好きになっていく物語でした。


里帆が取り戻したのは、昔と同じマウンドではありません。


けれど、芽衣たちの背中を押し、逃げずに立てる場所を作っていくこと。

それが、今の里帆にとっての新しいマウンドになりました。


悔しい涙ではなく、うれしい涙を流せる場所へ。


里帆と芽衣たちの物語を最後まで見届けてくださった方に、心から感謝します。


少しでも胸に残るものがありましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。

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