熱々おでん
春の夜はまだ肌寒く、マンションの窓にはうっすらと結露が浮かんでいた。リビングのこたつはとっくに片付けられているが、代わりに奈々穂が用意したひざ掛けがソファの隅にたたんである。
テーブルの中央では、土鍋に入ったおでんが湯気を立てていた。大根、卵、こんにゃく、はんぺん、そして奈々穂お手製の肉団子。出汁の香りが部屋中に広がっている。
「はあ……染みる……」
美玲は大根を一口かじると、うっとりとため息をついた。オレンジの瞳がとろけるように細められ、尻尾がこたつ代わりのひざ掛けの下でゆらゆらと揺れている。
「奈々穂さんの大根、ほんとに最高です! 中までちゃんと味が染みてて、なのに崩れなくて……」
「ふふ、ありがとう。圧力鍋で下茹でしてから出汁に一晩つけておいたのよ」
奈々穂は嬉しそうに微笑みながら、自分の器にこんにゃくをよそった。彼女はいつものメイドドレス姿だが、今日は肩にカーディガンを羽織っている。春とはいえ夜はまだ冷えるのだ。
「ちゃんもほら、ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
翔太はぶっきらぼうに返事をしながら、黙々とはんぺんを箸でつついている。その隣では、美玲がいつの間にかぴったりと体を寄せてきていた。
「翔太のそれ、はんぺん? 一口ちょうだい」
「自分で取れよ。鍋にあるだろ」
「翔太のがいいの」
美玲はにこにこと笑いながら、さらに体を押し付けてくる。ジャージ越しに伝わる体温と、柑橘系の制汗スプレーの香り。翔太は眉をひそめて、肩で彼女を押し返した。
「暑い。離れろ」
「やだー。外寒かったから温まりたい」
「ストーブの前にでも行け」
「翔太があったかいんだもん」
美玲は翔太の腕にぎゅっとしがみつく。翔太はうんざりした顔で腕を振りほどこうとするが、ドラゴン娘な上に陸上部で鍛えた彼女の握力は意外に強く、なかなか離れない。
「しつこい」
「しつこくないもん。翔太が冷たいだけ」
「当たり前だ」
二人のやり取りを見ながら、奈々穂は湯飲みを手に取ってほうじ茶を一口すすった。青い瞳が柔らかく細められ、尻尾が機嫌良さそうにパタパタとソファを叩いている。
「美玲ちゃん、しょうちゃんにべったりねえ」
「だって翔太、学校だと私のこと無視するんだもん。今のうちにいっぱい構ってもらわないと」
「無視なんてしてないだろ」
「してる! 今日だって廊下ですれ違ったのに、私が手振ったらそっぽ向いた!」
「……気づかなかった」
「嘘つき! 目が合ったのに!」
美玲は翔太の腕をつつきながら抗議する。翔太はため息をついて、諦めたように箸を置いた。
「わかったわかった。うるさいから少しだけなら構ってやる」
「ほんと!?」
「ただしおでん食い終わったら帰れ」
「ケチ!」
美玲は口をとがらせたが、それでも翔太が少し折れてくれたことが嬉しいのか、尻尾がぶんぶんと激しく揺れている。奈々穂はそれを見て声を出さずに笑った。
「でも、本当に仲がいいのね。小さい頃からずっと一緒に遊んでたものね」
「はいっ! でも...私、あんまり小さい頃のこと覚えてなくて」
美玲が肩を落とすと。奈々穂は懐かしそうに目を細め、鍋のおでんをそっとかき混ぜた。
「しょうちゃんがまだ小学校に上がる前、よく公園で一緒に遊んでたのよ。美玲ちゃんはいつも翔太の後ろをちょこちょこ追いかけてて」
「やめてくれ」
翔太が顔を赤くして遮る。しかし美玲は目を輝かせて奈々穂に身を乗り出した。
「えっ何それ! 私、翔太のこと追いかけてたんですか?」
「ええ、それはもう一生懸命に。しょうちゃんが逃げても逃げても、『しょうちゃん待ってー!』って」
「ちょっと、母さん!」
翔太が珍しく大きな声を出す。その顔は耳まで真っ赤だ。美玲は一瞬きょとんとした後、腹を抱えて笑い出した。
「しょうちゃん! しょうちゃんだって!よく考えたら 奈々穂さん、今も翔太のことそう呼んでるんですか!?」
「ええ、家ではいつも」
「やめろって言ってるだろ!」
「だってしょうちゃんなんだもん」
奈々穂はいたずらっぽく笑う。美玲はひとしきり笑った後、涙を拭いながら翔太の顔を覗き込んだ。
「しょうちゃんかあ……私も呼んでいい?」
「絶対だめだ」
翔太は美玲の顔を手のひらで押しのけながら低い声で言った。だが美玲はめげずに翔太の手を掴みながら笑っている。
「じゃあ家の中だけで!」
「お前はどこでもだめだ!」
「ケチ! ケチケチしょうちゃん!」
「しょうちゃんって呼ぶな!」
二人がじゃれ合うたびに、こたつの代わりのひざ掛けがずり落ちていく。奈々穂はそれを拾い上げながら、静かに微笑んだ。春の夜風が窓をかすかに揺らし、どこか遠くで夜桜見物の喧騒が微かに聞こえる。
鍋の中では、おでんがまだ優しく湯気を立てていた。
「美玲ちゃん、おかわりはどう?」
奈々穂の声に、美玲は翔太からパッと手を離して振り返る。
「食べます! 今度は卵と肉団子ください! あと...大根も!」
「はい、どうぞ。しょうちゃんは?」
「……大根」
翔太はまだ少し赤い顔のまま、自分の器を差し出した。奈々穂はその器を受け取りながら、心の中でそっと思う。こんな穏やかな夜が、ずっと続けばいいのにと。




