迷惑な客
春の夕暮れがマンションの窓を淡いオレンジ色に染めている。リビングのキッチンでは、奈々穂が鍋の蓋を開けては、ふつふつと煮えるおでんの具を確認していた。大根、こんにゃく、卵、はんぺん、ちくわ。どれもたっぷりと出汁を吸って、いい色に仕上がっている。
「しょうちゃん、そろそろ美玲ちゃん来る頃よ」
奈々穂がリビングのソファでスマホをいじっている翔太に声をかける。翔太はちらりと時計を見て、面倒くさそうに「別に」とだけ返した。
インターホンが鳴ったのは、それから間もなくのことだった。
「はーい」
奈々穂がエプロンで手を拭きながら玄関へ向かう。翔太は動かない。ソファの上で、スマホをいじるふりをしながらも、視線だけは玄関の方へ向いていた。
「お邪魔しまーす!」
弾むような声が家中に響く。ぱたぱたとスリッパの音が近づいてきて、オレンジ色の短髪がリビングの入口に現れた。
「翔太! 来たよ!」
美玲は学校帰りのジャージ姿のまま、肩にかけたスポーツバッグを下ろすと、まるで自分の家のようにリビングへ上がり込んでくる。その後ろでは、赤みの混じった尻尾が嬉しそうに揺れていた。
「来たよ、じゃねえよ。騒ぐな」
翔太は顔も上げずにそう言った。だが美玲は気にした様子もなく、翔太の隣にどかっと座り込む。
「えー、久しぶりに翔太の家来た気がする! 奈々穂さん、今日は本当にありがとうございます! おでん楽しみです!」
「ふふ、いいのよ。美玲ちゃん、部活終わりでお腹すいてるでしょ? もう少し煮込んだら食べられるから、それまで翔太と遊んでてね」
奈々穂は台所から微笑みながら言う。その手にはおたまが握られており、鍋の周りには出汁の湯気がふわりと立ち上っていた。
「翔太と遊ぶ!」
美玲は振り返って翔太にぐっと顔を近づける。翔太は眉をひそめて体を反らした。
「近い。汗くさい」
「えっ、そんなことないでしょ!? 部活終わりだけど制汗スプレーしてきたもん!」
「してても近い」
「むー、せっかく来たのに冷たい。奈々穂さん、翔太がいじめますー!」
美玲がわざとらしく台所に向かって叫ぶ。奈々穂はくすくすと笑いながら、おでんの具を静かにかき混ぜた。
「翔太、お客様に冷たくしちゃだめよ」
「客じゃない。勝手に来ただけだ」
「酷くない!? 奈々穂さんに呼ばれたから来たのに!」
「じゃあ帰れ」
「やだ! おでん食べるまで帰らない!」
美玲はむうっと頬を膨らませ、翔太の腕にしがみつくようにしてくる。オレンジの髪からは、汗と混じった制汗スプレーの柑橘系の香りがした。翔太は鬱陶しそうに腕を振りほどこうとするが、美玲はなかなか離れない。
「離れろって」
「やーだ」
「ガキか」
「ガキじゃないもん。翔太と同い年だもん」
「同い年でもガキはガキだろ」
二人のやり取りを背中で聞きながら、奈々穂は静かに微笑む。大根が崩れないように、そっとおたまで出汁を回しかける。春の夜はまだ少し冷えるから、おでんの温かさが余計にありがたく感じられる。
「はい、もう食べられるわよ。しょうちゃん、お皿出してくれる?」
奈々穂が声をかけると、翔太はようやく美玲から離れて立ち上がった。
「わかった」
「私も手伝う!」
美玲も勢いよく立ち上がり、翔太の後を追いかける。台所でお皿を取り出そうとする翔太の背中に、またぴったりとくっついてきた。
「翔太、お皿、私が持つ!」
「あっち行ってろ」
「手伝いたいの!」
「邪魔」
「ひどっ!」
奈々穂は笑いながら、おでんを盛り付ける準備を始めた。リビングのテーブルの上に、湯気の立つおでんの器が並んでいく。大根、卵、こんにゃく、はんぺん。春の宵の、なんでもない食卓。
「わあ……! すっごく美味しそう! 奈々穂さん、これ全部手作りですか!?」
「ええ、朝からコトコト煮込んだのよ。美玲ちゃん、たくさん食べてね」
「もちろんです! いただきます!」
「いただきます」
三人分の箸が揃い、おでんの湯気が天井へと昇っていく。窓の外では、春の夜風が街路樹をそっと揺らしていた。




