新人戦
十月十九日、日曜日。
朝から雲ひとつない秋晴れだった。空は高く澄み渡り遠くの山々は赤やオレンジの紅葉で燃えるように彩られている。市営陸上競技場の周囲に植えられた銀杏並木は黄金色に輝き、時折吹く秋風にはらはらと葉を散らしていた。観客席には色とりどりの紅葉した桜や楓が植えられ競技場全体が秋の装いに包まれている。
新人戦の会場は、朝早くから熱気に包まれていた。市内の高校から選抜された精鋭たちが集まりウォーミングアップを始めている。放送席からは軽快な音楽が流れ、売店からは焼きそばやたこ焼きの匂いが漂ってくる。
「いい天気でよかったね!」
美鈴が大きく伸びをしながら言った。オレンジ色の髪を今日は小さくポニーテールにまとめている。ノーメイクのすっぴんでもその笑顔は競技場の誰よりも輝いていた。ユニフォームは学校指定の白と紺のシンプルなもの。胸元には桜満高校の校章が刺繍されている。
「雨だったら走りにくかったもんね」
「私は雨でも関係ないけど」
隣でミギーが白い髪をかきあげながら涼しい顔で言った。彼女も同じユニフォーム姿だが、その立ち姿はまるでモデルのように様になっている。純血ドラゴンの気品はユニフォーム姿でも隠せない。銀杏の葉が一枚彼女の白い髪にふわりと舞い降りた。
「美鈴さん、今日こそ決着をつけましょう」
「うん、私もミギーには負けないから」
二人の視線がぶつかり合いその間に見えない火花が散る。特訓を重ねるうちに友情は芽生えたが、走ることに関しては今でも立派なライバル同士だ。むしろ一緒に特訓したからこそ負けたくないという気持ちは強くなっていた。
「二人とも、ウォーミングアップは終わったのか」
翔太がやってきた。今日は選手ではなく観客だ。紺色のパーカーにジーンズというラフな格好で手には買ったばかりの缶コーヒーを持っている。観客席の一角、銀杏の木の近くのベンチが彼の定位置らしい。
「翔太! 応援に来てくれたんだ!」
美鈴の尻尾が嬉しそうにぱたぱたと揺れた。
「母さんに弁当持たされてな。お前らにも差し入れだ」
翔太は手提げ袋を差し出した。中には奈々穂特製のスポーツドリンクと栄養補給用の手作りおにぎりが入っている。
「奈々穂さんの! やったあ!」
「試合が終わってから食べなさいよ、美鈴さん」
「わ、わかってるよ!」
三人の周りを他の選手たちが通り過ぎていく。美鈴とミギーを見て、「今年の新人戦はあの二人で決まりだな」「レベルが違いすぎる」とひそひそ話す声が聞こえた。実際、他の選手たちは記録が八秒台から九秒台。美鈴とミギーのレベルアップした走りにはとてもついていけないだろう。
「選手集合!」
係員の声が競技場に響いた。
「行ってくるね、翔太!」
「私も行くわ。翔太、見ていて」
二人は走り出し、それから同時に振り返った。
「「応援よろしく!」」
声がぴったり重なって、二人は顔を見合わせて笑った。それから走り去っていく。オレンジ色の尻尾と白い髪が秋の日差しを浴びてきらきらと輝いていた。
翔太はベンチに座り缶コーヒーを開けた。十月の風が銀杏の葉を運んでくる。
(どっちが勝っても悔いはない、か)
特訓を始めた頃の美鈴はミギーに勝つことだけを考えていた。でも今は違う。ミギーというライバルがいて、互いに高め合えることの喜びを知っている。あの三週間で美鈴は走りだけでなく心も成長していた。
予選はあっさりと終わった。美鈴もミギーも他の選手を寄せ付けず決勝に進出する。むしろ他の選手たちが「あの2人がいるなら決勝は辞退したい」と言い出すほどで、審判団が慌ててなだめる一幕もあった。
そして決勝の時が来た。
スタートラインに立つ美鈴とミギー。二人以外の選手たちも立ってはいるが、誰もがこの勝負は二人の一騎打ちだと理解している。
「美鈴さん」
「なに、ミギー」
「今日こそ負けないから」
青い瞳がまっすぐに美鈴を見つめる。その声には純血ドラゴンとしての誇りと、ライバルへの敬意が込められていた。
「私もミギーには負けない」
美鈴も負けじと言い返す。オレンジの瞳が強い意志を宿して輝いている。小さな角が今日はなぜか誇らしく感じられた。この角があっても、私は速く走れる。それを証明するためのレースだ。
観客席の片隅で、翔太が腕を組んで二人を見つめていた。缶コーヒーはもう空になっている。
(二人とも、全力で行け)
「位置について」
スターターの声が静まり返った競技場に響いた。
美鈴とミギーが同時にクラウチングスタートの姿勢をとる。紅葉した桜の葉が一枚、走路に舞い降りた。
「よーい……」
秋風が競技場を吹き抜ける。銀杏の葉がはらはらと舞い、どこかで小鳥がさえずった。すべての音が遠くに感じられるほどの緊張感。
「ドン!」
二人は同時に飛び出した。
序盤からトップスピードに乗るミギー。純血ドラゴンの爆発力は圧倒的で、スタート直後はわずかにリードした。白い髪が風を切って一直線に伸びる。
しかし美鈴も負けていない。特訓で磨き上げた加速力で、三十メートル地点でミギーに追いついた。オレンジのポニーテールが風に揺れる。
五十メートル。二人は完全に横並びになる。他の選手たちはすでに数メートル後方だ。もはやこのレースは二人だけのものになっていた。
(速い……!)
美鈴は歯を食いしばった。レベルアップしたミギーの走りは三週間前とは比べものにならない。でも自分だって負けていない。
(私はもっと速くなれる! 翔太と特訓したんだ!)
美鈴がさらに加速する。七十メートル地点で一度は美鈴がわずかにリードした。
「まだよ!」
ミギーが叫んだ。彼女もまた最後の力を振り絞って加速する。純血ドラゴンの意地と、翔太への想いが彼女の背中を押していた。
八十メートル。再び並ぶ。
九十メートル。互いに譲らない。
ゴール!
二人はほとんど同時にゴールラインを駆け抜けた。
「はあっ……はあっ……」
美鈴は膝に手をついて肩で息をした。汗が額から滴り落ち、ユニフォームが汗で肌に張り付いている。オレンジ色の尻尾も疲れ切ってだらりと垂れていた。
「はあ……はあ……」
隣ではミギーも同じように息を切らせている。白い髪は乱れ、純血ドラゴンの気品はどこへやらただ全力を出し切った一人の少女の姿があった。
電光掲示板にタイムが表示される。
美鈴 5.3秒
ミギー 5.2秒
「コンマ一秒……差…」
美鈴が呟いた。
「私の勝ち……ね」
ミギーが息を整えながら言った。その声に以前のような高慢さはない。ただ、全力を出し切った達成感とライバルへの敬意が込められていた。
一瞬の沈黙。それから、美鈴は顔を上げた。汗だくの顔に浮かんだのは悔しさではない。爽やかな笑顔だった。
「次は勝つから」
ミギーも笑顔になった。その青い瞳が秋の日差しを受けてきらめいている。
「次も負けないわ」
美鈴が右手を差し出す。ミギーもその手を握り返した。汗で濡れた手と手がしっかりと握り合わされる。オレンジの尻尾と白い尻尾が、互いを認め合うように揺れていた。
観客席から大きな拍手が沸き起こる。六秒台すら珍しい女子高校生の百メートル走で、五秒台が二つも飛び出したのだ。競技場は興奮のるつぼと化した。
「5.3秒と5.2秒……だと……」
「信じられん……高校生の記録じゃない……」
「しかもあの二人、まだ一年生だぞ……」
どよめく観客たち。紅葉した山々がその喧騒を静かに見下ろしていた。
ベンチに座る翔太は、空になった缶コーヒーをくずかごに投げ入れながら立ち上がった。その口元がほんの少しだけ緩んでいる。
「よくやったな、二人とも」
彼はそう呟くと、奈々穂特製のおにぎりが入った袋を手に二人のもとへ歩き出した。
銀杏の葉が一枚ひらりと彼の肩に舞い降りた。十月の空はどこまでも高く澄み渡り、秋の新人戦は最高の形で幕を閉じようとしていた。




