再戦
十月五日、日曜日。
秋晴れの空がどこまでも高く澄み渡る朝だった。校庭の片隅にある百メートル走路には朝露に濡れた落ち葉が数枚はりついている。空気はひんやりと冷たく、吐く息がほんのり白い。校舎の壁を這う蔦は赤く色づき遠くの山々は紅葉でまだらに染まっていた。
今日は休日だというのに、校庭には十数人の生徒たちが集まっていた。美鈴とミギーの再戦の噂を聞きつけた野次馬たちだ。中にはスマートフォンを構えている者もいる。
翔太は走路の脇銀杏の木の下に立っていた。黄金色に染まった葉が朝日を受けてきらきらと輝いている。腕を組み、じっと走路を見つめるその表情は真剣そのものだ。
「また負けにきたのかしら?」
ミギーが白い髪をかきあげながら、挑発的な笑みを浮かべた。純血ドラゴン特有の透き通るような白い肌に青い瞳が冷たく光る。頭には立派な角が二本、天に向かって伸びていた。純血の証である大きな角は朝日に照らされて真珠のように輝いている。
「ううん、もう負けない」
美鈴は静かに言った。オレンジ色の髪を今日は後ろで小さくまとめている。ノーメイクのすっぴんでも引き締まった表情がかえって彼女の美しさを際立たせていた。短めの髪からちらりとのぞく黒い小さな角。それは確かにミギーの角と比べればずいぶん小さい。でも、美鈴の目に昔のようなコンプレックスはもうなかった。
(角の大きさなんて関係ない)
(私は私の走りで勝つ)
美鈴はスタート地点に立った。隣にはミギー。白い髪を風になびかせ余裕の笑みを浮かべている。三週間前はこの笑顔に心が折れた。でも今日は違う。
翔太と目が合った。銀杏の木の下で、翔太はただ黙って立っている。でもその目ははっきりと言っていた。
(行け、美鈴)
(お前なら勝てる)
美鈴は小さくうなずくと前を向いた。走路の先には紅葉した桜の木が並んでいる。夏の間は青々としていた葉も今はすっかり赤やオレンジに色づき秋の風にそよいでいた。
「位置について」
野次馬の一人が声をかける。美鈴とミギーは同時にクラウチングスタートの姿勢をとった。心臓がドクドクと高鳴る。でも怖くない。三週間の特訓で培ったすべてが今、美鈴の体に宿っている。
「よーい……」
秋風が校庭を吹き抜け、銀杏の葉がはらはらと舞い落ちた。
「ドン!」
美鈴は地面を蹴った。九月の初めにミギーと走った時とは、踏み込みの力がまったく違う。スタートの加速だけで半歩リードした。
「なっ……!」
隣でミギーが小さく声を上げる。その驚きの表情が一瞬だけ見えた。でも美鈴はもう前だけを見ている。
(速い)
(私、速くなってる!)
足が地面を蹴るたびに、体が前に前に進む。尻尾が完璧なバランスを取り風の抵抗を最小限に抑える。オレンジの髪が風を切って一直線に伸びた。
五十メートルを過ぎたあたりで、美鈴はミギーを一歩引き離した。
「そんな……ありえない!」
ミギーが追いすがろうと加速する。純血ドラゴンの脚力は伊達じゃない。白い髪が風に乱れ必死の形相で追いかけてくる。
(でも負けない!)
美鈴はさらに加速した。三週間翔太と一緒に異世界で走り続けた。魔物と戦いレベルアップして、何度も何度も限界を超えた。そのすべてが今この瞬間のためにある。
ゴールまであと十メートル。
(翔太、見てて!)
美鈴は最後の力を振り絞って飛び込んだ。
ゴールラインを切った瞬間秋の空気が美鈴の全身を包んだ。一歩遅れてミギーがゴールする。校庭に、一瞬の静寂が訪れた。
「勝った……」
美鈴は肩で息をしながら、空を見上げた。十月の青空がどこまでも広がっている。
「私……勝ったんだ……!」
タイムを計っていた野次馬が、信じられないものを見たような顔でストップウォッチを見つめている。
「は、5・5秒……切ってる……だと……?」
美鈴の記録は七
6秒台だった。高校生としてはもちろん、純潔種としても驚異的なタイムだ。翔太の声援バフがなくてもこれだけの記録を出せるまでに成長していた。
ミギーはゴールラインの向こうで茫然と立ち尽くしていた。白い髪が乱れ、息が荒い。純血ドラゴンである自分が混血種に負けるなんて。
「……認めない」
ミギーが絞り出すような声で呟いた。
「こんなの……認めないんだから……!」
でも、美鈴はもうミギーの言葉に動じなかった。振り返り銀杏の木の下に立つ翔太を見つめる。
翔太は、小さくうなずいた。その口元がほんの少しだけ緩んでいる。それが何よりの褒め言葉だった。
(翔太……私、勝ったよ)
美鈴の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。それは三週間前の悔し涙とは違う。翔太と一緒に乗り越えてきた日々のすべてが報われた、嬉し涙だった。
校庭に集まっていた生徒たちから、まばらな拍手が起こる。十月の風が美鈴の汗で濡れた髪を優しく撫でていった。紅葉した桜の葉がひらひらと舞い落ち、まるで祝福の紙吹雪のようだ。
翔太がゆっくりと歩いてくる。落ち葉を踏みしめるカサカサという音が、静かな校庭に響いた。
「やったな」
「うん!」
美鈴は涙をぬぐい、精一杯の笑顔を作った。尻尾が嬉しそうにぱたぱたと揺れている。
「翔太のおかげだよ。翔太が特訓してくれなかったら、絶対に勝てなかった」
「俺は何もしてねえよ。走ったのはお前だ」
翔太はいつもの素っ気ない口調で言いながら、美鈴の頭にぽんと手を置いた。その手のぬくもりが十月の冷たい空気の中でやけに温かく感じられた。
「よく頑張ったな」
「……ありがとう」
二人の背後でミギーが唇を噛みしめながら立ち去っていく。白い髪が秋風に乱れて、その背中はどこか小さく見えた。
でも美鈴はもう、ミギーを怖いとは思わなかった。むしろ同じドラゴン族として、いつかわかりあえる日が来るかもしれないとそんなことさえ考えていた。
十月の空は高く澄んでいて紅葉した山々が朝日に照らされて黄金色に輝いている。校庭の銀杏の木からは、ひらひらと黄色い葉が舞い続けていた。
「翔太、お腹すいた」
「そりゃ走ったからな」
「帰りに何か食べて行かない? 私、おごるよ。特訓で稼いだお金まだたくさんあるし」
「ラーメンでいいなら」
「うん!」
二人は並んで校庭を後にした。十月の日曜日街は休日の穏やかな空気に包まれている。どこかから金木犀の香りが漂ってきて、美鈴は大きく深呼吸した。
(勝てた。私、ちゃんと勝てたんだ)
その実感がじわじわと胸に広がっていく。隣を歩く翔太の横顔をちらりと見上げると、いつもの無愛想な顔の中にほんの少しだけ柔らかな光が宿っている気がした。
(翔太本当にありがとう)
(私、もっともっと強くなるからね)
美鈴は心の中でそう誓いながら、秋色に染まった通学路を翔太と一緒に歩いていった。




