バレた
九月二十六日、金曜日。
一週間の特訓が終わり美鈴と別れて家路についた翔太は、マンションのエントランスをくぐったところで妙な胸騒ぎを覚えた。特に理由はない。でもなんとなく今日はまっすぐ家に帰らない方がいい気がする。いや、帰らなければならないのはわかっている。ただなにかが待っている気がするのだ。
エレベーターのボタンを押す指が、一瞬ためらった。
自宅のドアの前。鍵を差し込むと、かちゃりという音がやけに大きく響いた。
「ただいま」
「おかえりなさい、しょうちゃん」
リビングから聞こえてきた声に翔太の足が止まった。いつもの優しい声だ。でも、その響きには何かが潛んでいる。甘やかなのにどこか有無を言わせない圧のようなもの。
恐る恐るリビングをのぞくと奈々穂はソファに座ってにっこりと微笑んでいた。青い髪が室内の照明に照らされて深海のようにきらめき、頭の立派なドラゴンの角が影を落としている。いつものクラシックなメイド服姿だ。今日はお金持ちの家のメイド業は休みだったはずで一日中部屋にいたのだろう。
その笑顔が、怖かった。
「座りなさい」
奈々穂は自分の向かいのソファを青い尻尾でとんとんと叩いた。翔太は観念して靴を脱ぎ、リビングに入る。ソファに座ると奈々穂はティーカップを差し出した。ダージリンのいい香りが立ちのぼる。
「今日のお仕事はどうだった?」
「別に。普通」
「そう。美鈴ちゃんとは仲良くしてる?」
「まあ、それなりに」
奈々穂は自分のカップを口に運びながら、ゆったりとした仕草で翔太を観察している。青い瞳は穏やかで怒っているようには見えない。でもそれがかえって怖い。翔太は奈々穂が本当に怒っているときほど静かになることをよく知っていた。
「ねえ、しょうちゃん」
カップがソーサーに置かれる、かちりという小さな音。
「最近、帰りが遅いわね。学校が終わってからどこに行ってるの?」
来た。
翔太は一瞬息を詰めた。嘘をつくという選択肢はない。奈々穂には嘘が通じない。なにせ彼女は翔太が赤ん坊の頃から育ててきた母親も同然の存在だ。ちょっとした仕草や目線の動きで、すべてを見抜かれてしまう。
「異世界ゲートだ」
翔太は正直に答えた。
「美鈴を連れて、特訓してる」
奈々穂の笑顔が消えた。初めて見る、凍りついたような表情だった。
「特訓?」
「美鈴がミギーってやつに勝負を挑まれて負けたんだ。だから次の勝負までに強くしてやってる。ゲートの中で魔物を倒せば経験値が入ってレベルアップできる。それで美鈴の能力を底上げしてる」
「どのくらいの期間、やってるの?」
「一週間だ」
「どんな魔物と戦ったの?」
「【森の守護竜】に【毒竜】に【大蜘蛛】。あとは雑魚のゴブリンとか」
奈々穂はゆっくりと目を閉じた。長いまつげが頬に影を落とす。その姿はまるで祈りを捧げる女神のようにも見えた。しばらくの沈黙。壁掛け時計の秒針だけが、かちかちと規則正しく時を刻んでいる。
「しょうちゃん」
目を開けた奈々穂の青い瞳は、今にも泣き出しそうに潤んでいた。
「私はね、あなたにゲート攻略をしてほしくないの」
「母さん……」
「あなたが赤ん坊の頃、ゲートの中で捨てられていたのを私が拾ったのは知ってるわね」
「ああ」
「あのときね、しょうちゃんは本当に小さくて弱々しくて、今にも消えてしまいそうだった。私はその小さな命を抱きしめてこの子だけは絶対に守ろうって誓ったの」
奈々穂の声は震えていた。ドラゴンの尻尾が、不安そうにソファの上で丸まっている。
「ゲートの中は危険よ。いくらレベルが上がっても、一瞬の油断で命を落とすことがある。ドラゴンである私でさえ何度も死にかけた。あなたがそんな場所に行っているなんて……」
「でも俺は今までだってゲートに入ってた」
「知ってるわ。でもそれは一人で、それも安全なエリアだけだった。今は美鈴ちゃんも連れて行ってる。それに戦っているのは小型とはいえドラゴン種なんでしょ?」
「美鈴を強くするためには、強い魔物と戦わないと意味がない」
翔太の声は静かだった。でも、その目はまっすぐに奈々穂を見つめている。
「俺は美鈴に言ったんだ。お前を強くしてやるって。ミギーに勝たせてやるって」
「しょうちゃん……」
「一度口にした約束は守る。母さんが教えてくれたことだ」
奈々穂ははっとしたように目を見開いた。そうだ。翔太が小さい頃、何度も言い聞かせてきたことだ。「約束は守るものよ」「一度口にしたことは最後まで責任を持ちなさい」と。
「美鈴は今すごく弱ってる。自分の角が小さいことにコンプレックスを持ってて、純血種のミギーに負けて自分なんて価値がないと思い込んでる。でも俺はあいつが本気を出せばミギーに勝てると思ってる」
翔太は拳を握りしめた。
「俺はあいつを強くしてやるって言った。だったら、そこまでの責任は取る。危険だってわかってる。でも俺があいつの隣に立って守りながら戦えば、大丈夫だ」
リビングに沈黙が降りた。窓の外では、秋の夜風がカーテンを揺らしている。遠くで救急車のサイレンが聞こえそれが通り過ぎるまでの長い時間、二人はただ見つめ合っていた。
やがて、奈々穂が小さくため息をついた。
「しょうちゃんは、頑固ね」
「母さんに似たんだ」
「あら、私はこんなに素直で可愛い娘ですけど?」
「母さんはドラゴンで、しかも俺のママだろ。それにもう娘って年齢じゃねえ」
奈々穂はくすりと笑った。その笑顔に、さっきまでの凍りついたような緊張はもうない。かわりに浮かんでいるのは諦めと、それから少しの誇らしさだった。
「わかったわ」
奈々穂は立ち上がると、翔太の隣に腰を下ろした。そっと手を伸ばして翔太の頭を胸に抱き寄せる。Eカップの柔らかな感触と、奈々穂の体温が伝わってくる。
「ちょ、母さん!」
「いいのよ、ちょっとくらい甘えなさい」
奈々穂は翔太の髪を優しく撫でながら、小さくため息をついた。
「しょうちゃんの好きなようにやりなさい。でも約束して。絶対に死なないで。怪我をしたらちゃんと私に言うのよ」
「……わかった」
「それと、週に一日は必ず休むこと。疲れが溜まった状態でゲートに入るのが一番危険なんだから」
「美鈴にも同じこと言った」
「さすが私の息子ね。ちゃんとわかってるじゃない」
奈々穂は翔太の頭をよしよしと撫でながら、その黒いドラゴンの角を見つめた。立派な角だ。ドラゴン族にとって角は誇りの証。翔太はドラゴンに育てられた人間だけど奈々穂の教育の賜物か、その精神にはドラゴンの誇りが宿っている。
「美鈴ちゃんのこと、大事なのね」
「幼馴染だからな」
「それだけ?」
奈々穂の声が少しだけ揶揄うような響きになった。翔太は顔を背ける。
「……それだけだ」
「ふうん。まあいいわ。とにかく、危ないことはほどほどにね」
奈々穂は最後にもう一度ぎゅっと翔太を抱きしめると、ようやく腕を離した。尻尾が満足げにゆらゆらと揺れている。
「さてと、夕飯にしましょうか。今日はしょうちゃんの好きなハンバーグよ」
「デミグラスソースか?」
「もちろん。たっぷり作ったから、いっぱい食べて明日に備えなさい」
奈々穂はキッチンに向かいながら、ふと立ち止まって振り返った。
「ねえ、しょうちゃん」
「なんだ」
「美鈴ちゃんが勝負に勝ったら、ちゃんと報告に来なさいね。私も応援してるって伝えて」
翔太は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「ああ。伝えとく」
「よろしい」
奈々穂は満足そうにうなずくと、鼻歌を歌いながらキッチンへと消えていった。その後ろ姿を見ながら翔太はソファに深くもたれかかる。
(母さんには敵わねえな)
でも、奈々穂が認めてくれたことで何かがすとんと胸に落ちた気がした。これで心置きなく、美鈴の特訓に集中できる。
窓の外には、九月の夜が広がっている。街の灯りが瞬き秋の星座が静かに輝いていた。明日もまた、異世界での特訓が待っている。
翔太は拳を握りしめた。美鈴を強くする。絶対に勝たせる。それが、自分にできることのすべてだ。




