異世界へのゲート
秋風が心地よい九月十八日、木曜日の放課後。
美鈴が学校に復帰して二日目。まだ教室の空気はどこかぎこちなくてミギーと目が合うたびに心臓がきゅっと縮む思いだったけれど、それでも翔太が隣にいてくれるだけで不思議と足が前に進んだ。陸上部の練習にも顔を出し後輩たちがほっとした表情を見せたのが嬉しかった。
「準備はいいか」
翔太が声をかけてきたのは放課後の喧騒が少し落ち着いた午後四時過ぎのことだった。机の上には見慣れない地図と、何やら古びた羊皮紙のようなものが広げられている。
「なに、それ」
「異世界ゲートの通行許可証とマップだ」
翔太はこともなげに言った。美鈴は目を丸くする。
「異世界ゲートって、あの街の外れにあるやつ?」
「そうだ。今日から特訓はあっちでやる」
「え、ええっ!?」
美鈴は思わず声を上げた。異世界ゲート。それは今から約百年前、世界各地に突然現れ始めた異世界への入り口だ。最初は混乱もあったけれど今ではすっかり社会に溶け込んでいる。異世界からの移住者も多く、美鈴の母である玲香も元は異世界出身のドラゴン族だ。美鈴自身も幼い頃に一度だけゲートの近くまで行ったことがあるけれど中に入ったことはなかった。
「で、でも異世界って危ないんじゃ……」
「危ないから特訓になるんだろ」
翔太は地図をくるくると丸めて鞄にしまい込むと、立ち上がった。
「ほら、行くぞ。時間がもったいねえ」
「ま、待ってよ翔太!」
美鈴は慌てて鞄を掴むと翔太の後を追いかけた。心臓がドキドキしている。でもその鼓動は一週間前の恐怖や不安とは違う、新しい何かへの期待で高鳴っていた。
街の外れにある異世界ゲート管理局は、思ったよりもこぢんまりとした施設だった。受付で通行許可証を見せると職員の人が「二人だけで? ずいぶんと冒険的なことをするねえ」と少し驚いた顔をしたけれど、翔太が「問題ありません」と大人びた口調で答えると、それ以上は何も言われなかった。
「翔太、なんか雰囲気違う……」
更衣室で着替えを済ませた翔太を見て、美鈴は思わず呟いた。いつもの学ラン姿とはまるで別人だ。軽めの革鎧を身にまとい腰には短剣を一振り。肩には小さなポーチを提げていて、中には回復薬や簡易的な罠解除の道具が入っているらしい。その立ち姿は普段のだらしなくて無愛想なクラスメイトではなく、まるでベテランの探索者のようだった。
「なんだよ、じろじろ見んな」
「だ、だって……翔太、そういうの似合うんだね……」
美鈴の頬がほんのり赤くなる。革鎧越しに見える翔太の体つきは意外としっかりしていて短剣を腰に提げる仕草も板についている。何より表情がいつもより大人っぽくて真剣で、胸の奥がくすぐったくなるような感覚がした。
「お前もそれ、ちゃんと着ろよ。動きやすいやつ選んだから」
翔太が指さした先には、美鈴用の装備が用意されていた。軽量の布鎧と動きやすいショートパンツスタイル。スポーツウェアに近いデザインで、走るのに支障がないよう考えられている。布鎧の胸元には小さな防護の魔法陣が刺繍されていた。
「私のために?」
「当たり前だろ。お前を強くするために来てんだから」
翔太はぶっきらぼうに言うと、さっさとゲートの方へ歩き出した。美鈴は胸がきゅんと熱くなるのを感じながら急いで装備を整えた。
ゲートの前に立つと空気が変わった。ひんやりとしていて、どこか懐かしいような不思議な匂いがする。渦を巻く淡い光の膜が現実と異世界の境界線を形作っていた。
「少し危険な場所もある。でも」
翔太が振り返って美鈴を見た。その目は真剣で、嘘や冗談の欠片もない。
「お前を強くしてやるって言ったからな。俺は約束は守る」
「翔太……」
「それに、二人なら大丈夫だ」
翔太の口元がほんの少しだけ緩んだ気がした。
「お前は足が速い。俺は探索に慣れてる。足りないところは補える。今回は二人だけだから厳しい攻略になるかもしれねえけどな」
「でも翔太の目、そうは言ってないように見えるよ」
美鈴がくすりと笑うと翔太は「うるせえ」とそっぽを向いた。その耳がほんのり赤くなっているのを、美鈴は見逃さなかった。
「じゃあ、行くぞ」
「うん!」
二人は同時にゲートに足を踏み入れた。
光の膜を抜けると、世界が一変した。
空気が違った。現実世界の排気ガスもアスファルトの照り返しもない、森と土と水の混ざった清冽な空気。肺いっぱいに吸い込むと体の奥底が浄化されていくような心地がした。
視界いっぱいに広がる緑。見上げるほどの大樹が天を覆い木漏れ日が黄金色の光の筋となって地面に降り注いでいる。足元には見たこともない青い花が群生し、遠くからは小川のせせらぎが聞こえてきた。鳥のさえずりも風に揺れる葉擦れの音もすべてが新鮮で、神秘的だった。
「わあ……すごい……!」
美鈴は目を輝かせて駆け出した。布鎧が風をはらんで軽やかに揺れる。空気が美味しい。肌に触れる風が気持ちいい。尻尾も自然とぴんと立ち上がり、興奮で左右に揺れている。
「すごいよ翔太! 見てあの花! 光ってる! それにあっちの木、葉っぱが銀色だよ! あ蝶々! 羽が虹色に……」
はしゃぐ美鈴を翔太は黙って見つめていた。その表情は硬く、油断なく周囲を警戒している。片手は常に短剣の柄にかかっていていつでも抜ける態勢だ。
「美鈴、はしゃぐなとは言わねえけど警戒は怠るなよ」
「え?」
「ここは綺麗だけど、危険も多い。弱肉強食の世界だ。油断したやつから食われる」
その言葉に美鈴の動きが止まった。翔太の声には普段の教室で聞くようなだるそうな響きはなく、張りつめた真剣さがあった。
「ご、ごめん……」
「謝らなくていい。初めてならテンション上がるのもわかる。でもな」
翔太は美鈴の隣に並ぶと、前方の森の奥を指さした。
「この先に、今回の目標がある」
「目標?」
「このエリアのボスだ。【森の守護竜】っていう小型のドラゴンがいる。純血種ってほどじゃねえけど、そこそこ強い」
「ど、ドラゴンと戦うの!?」
「戦うっつーか、走る」
翔太は短剣を抜き放った。刃が木漏れ日を反射して、銀色にきらめく。
「お前の武器は足だ。その速さを極限まで引き出す。相手の攻撃をかわして、隙をついて、一気に距離を詰める。俺はあえて奴を削るだけのサポートに回るからお前が主攻だ」
「私が……主攻……」
「できるか?」
翔太の目が、まっすぐに美鈴を見つめる。試すような目じゃない。信じている目だった。こいつならできると最初から決めているような強い眼差し。
美鈴は一瞬息を呑んでから、ぎゅっと拳を握りしめた。
「……できる」
「よし」
翔太は小さくうなずくと森の奥へと歩き出した。美鈴もその背中を追いかける。心臓が高鳴っている。怖さもある。不安もある。でもそれ以上に翔太が信じてくれているという事実が、胸の奥で熱く燃えていた。
森の中は静かだった。ときおり遠くで獣の遠吠えのようなものが聞こえるけれど、今のところは危険な気配はない。翔太はときどき立ち止まっては地面の足跡を確認し枝の折れ方を見て、風の匂いを嗅いでいた。その仕草はあまりにも手慣れていて美鈴は教室で居眠りばかりしている翔太と同じ人間とは思えなかった。
「翔太って、異世界の探索よくやってたの?」
「まあな。幼い頃にだけど」
「知らなかった……」
「言ってなかったからな。俺がガキの頃、母さんがよく連れてきてたんだよ。この世界で捨てられてた俺を拾ったのもゲートの中だったらしいし」
「そっか……」
美鈴は翔太の横顔を見つめた。真剣な表情で前を見据える翔太はなんだか遠い存在のように感じられた。でも、その背中はあたたかくて頼りになって、やっぱり大好きだと思った。
どれくらい歩いただろうか。木々の間隔が広がり、開けた場所に出た。そこは小さな湖を囲むようにして作られた自然の広場で湖面には空の青と木々の緑が映り込んで鏡のように輝いている。
「きれい……」
美鈴がうっとりと呟いたその瞬間、翔太が鋭く声を上げた。
「来るぞ!」
湖の向こう側の茂みが激しく揺れ巨大な影が飛び出してきた。全長三メートルほどのドラゴンだ。鱗は深い緑色で木々に溶け込みそうな保護色をしている。翼は小ぶりで空は飛べなさそうだけれど、四肢は太く爪は鋭く光っていた。何より目がぎらぎらと獲物を狙う捕食者のそれだった。
「ひっ……!」
美鈴の足がすくむ。心臓が今にも飛び出しそうだ。体が震える。逃げたい。でも足が動かない。
「美鈴!」
翔太の声が飛んだ。
「走れ! お前の走りを見せろ! 俺が守る! だからお前は走れ!」
その声に背中を押されるように、美鈴は地面を蹴った。
森の守護竜が咆哮を上げ一直線に美鈴へと突進してくる。巨大な顎が開き、鋭い牙が迫る。でも美鈴はもう動けていた。体が覚えている。何千回何万回と繰り返してきた走りの動きが恐怖よりも早く体を動かす。
風を切る。心臓が爆発しそうなほど高鳴る。尻尾がバランスを取るためにぴんと伸び足が地面を力強く蹴る。一歩、二歩、三歩。加速していく感覚。久しぶりに感じる全力疾走の風が一週間ぶりに美鈴の心を解放した。
「そうだ! そのまま引きつけろ!」
翔太が横合いから飛び出し短剣でドラゴンの注意をそらす。ドラゴンが翔太に気を取られた一瞬の隙に、美鈴は一気に間合いを詰めた。恐怖はまだある。でも今は走ることが楽しい。翔太がいるから怖くない。その二つの感情が美鈴の足を加速させていく。
(私、走れてる!)
(翔太が見ててくれる!)
(私だって戦える!)
湖面がきらめく広場で一人と一頭の戦いが始まった。それはまだ、長い特訓の最初の一歩に過ぎなかったけれど美鈴の瞳には確かな光が戻っていた。汗が飛び散り、息が弾む。その汗が今は少しも不快じゃなかった。むしろ生きている実感を与えてくれる、気持ちのいい汗だった。
秋の風が湖面を渡り、戦いの熱を冷ますようにそっと吹き抜けていった。




