勝ちたいか?
翔太がドアを開けると部屋の中は薄暗かった。カーテンは閉め切られ、九月の穏やかな午後の陽射しは一枚の布に遮られている。空気は淀んでいて汗と洗濯していないシーツのにおいが混ざっていた。机の上には手つかずのプリンが二つと、半分だけ飲まれたスポーツドリンクのペットボトル。床には脱ぎ散らかされた制服と靴下。
そしてベッドの上では、美鈴がシーツを頭までかぶって丸まっていた。尻尾だけがシーツの外にだらりと垂れている。その尻尾は力なくぴくりとも動かない。
「美鈴」
翔太はベッドのそばに立って声をかけた。シーツの塊が、ほんの少しだけ動いた気がした。でも返事はない。
「おい、起きてるんだろ」
沈黙。部屋の中に壁掛け時計の秒針の音だけがカチカチと響いている。窓の外からは、どこかの家のテレビの音と秋の虫の声がかすかに聞こえてくる。
「一週間だぞ。何してんだ」
翔太はシーツに向かって話しかける。美鈴は答えない。ただシーツの中でじっとしている。まるで自分を透明にしようとでもするみたいに。
「連絡ぐらい返せ。心配してんだぞこっちは」
それでも美鈴は黙ったままだった。翔太は小さくため息をついた。
「……わかった。そういう態度ならこっちにも考えがある」
そう言うと、翔太は無造作にシーツの端をつかんだ。
「無視するなら強硬手段だ」
「や、やめ……!」
美鈴が慌てた声を上げるより早く、翔太は思い切りシーツを剥ぎ取った。
バサリ、と布が舞い上がる。
ベッドの上に現れた美鈴の姿を見て、翔太は思わず言葉を失った。
そこにいたのは、翔太の知っている美鈴ではなかった。
オレンジ色の髪はぼさぼさに絡まり寝ぐせで四方八方に跳ねている。顔色は青白く、目の下には濃いクマができていた。唇は乾いてひび割れ頬はこけている。何より、オレンジの瞳は涙でいっぱいに潤んでいて今にも溢れ出しそうだった。
美鈴はまるで怯えた小動物のように両手を胸の前でぎゅっと握りしめて震えている。パジャマのボタンはひとつ外れ、襟元がだらしなく開いていた。尻尾は自分の体に巻きつくように縮こまっている。その姿は一週間前までグラウンドを颯爽と駆け抜けていた陸上部のエースとは、とても思えなかった。
「……なんだよ、その顔」
翔太はシーツを床に落としたまま、ベッドの縁に腰を下ろした。声はいつも通りぶっきらぼうだ。でも、その目は真剣に美鈴を見つめている。
「み、見ないで……」
美鈴は両手で顔を隠した。声が震えている。かすれて、小さくて、消え入りそうな声だ。
「見ないでよ……私、今、すごくひどい顔してるから……」
「してるな」
「ひ、否定してよ、そういうときは……!」
「事実だろ。一週間も引きこもってりゃそうなる」
翔太はあっさりと言い放つ。美鈴は顔を覆ったまま、小さく嗚咽を漏らした。
「……ごめん」
「謝ることじゃねえ。なにがあった」
翔太の声は静かだった。怒っているわけでも呆れているわけでもない。ただ、聞いている。
美鈴はしばらく黙っていた。肩が小刻みに震えている。やがて、ぽつりぽつりと言葉がこぼれ始めた。
「私……私ね……お母さんに酷いこと言ったの」
「玲香さんにか?」
「『なんでドラゴンの人と結婚しなかったの』って……『お母さんのせいで私ハーフで弱いんだ』って……」
美鈴の声はどんどん小さくなっていく。
「お母さん、泣いてた……『ごめんなさい』って……お母さんは何も悪くないのに……私が弱いだけなのに……八つ当たりして……」
そこまで言うと美鈴は膝を抱えてうずくまった。小さな角が枕にこすれて、かすかな音を立てる。
「それだけじゃない……練習サボって、学校もずる休みして翔太の連絡も無視して……私、どんどん嫌なやつになってる……最低なのに、どうしても動けなくて……」
「なんで動けねえんだ」
「……怖いの」
美鈴は顔を上げた。涙がこぼれて、シーツに染みを作る。
「ミギーに会うのが怖い。また負けるのが怖い。みんなに笑われるのが怖い。翔太がミギーの隣にいるのを見るのが怖い。翔太が私のこと弱いって思うのが怖い。翔太が私のこと嫌いになるのが怖い。翔太が……翔太が私よりミギーの方を選ぶのが……何より怖い……」
「俺はミギーなんか選ばねえよ」
翔太の即答に、美鈴は顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔で翔太を見つめる。
「……うそ」
「嘘じゃねえ」
「だってミギー、綺麗だし、強いし純血だし、お弁当も美味しいんでしょ? 食べてたじゃない」
「捨てるのもったいなかったから食っただけだ。それに、人のこと馬鹿にするやつを彼女にするほど俺は落ちぶれてねえ」
「でも……でも……」
「でももだってもねえ。俺はあいつのことなんとも思ってねえ」
翔太の声は揺るがなかった。美鈴はその言葉を飲み込むように何度もまばたきをした。
「……ほんと?」
「本当だ。つーかお前、俺が誰の隣にいると思ってんだ」
「え……?」
「俺の隣は、お前の席だろ。ガキの頃からずっとそうだった」
その言葉に、美鈴の瞳からぼろぼろと涙がこぼれた。でも今度は悲しみだけの涙じゃなかった。
「……ずるいよ、翔太は」
「なにがだ」
「そういうこと言うの……私が弱ってるときに……」
美鈴はシーツの端を握りしめて、下を向いた。
「私ね……自分が嫌になるくらい弱くて……角も小さいし、純血には勝てないし……走るの大好きだったのに、今は走るのも怖くて……」
翔太は黙って聞いている。窓の外では、九月の風がカーテンの隙間を揺らしていた。
「……でもね」
美鈴は涙を手の甲で拭いながら、続けた。
「翔太に『隣はお前の席だ』って言われて……ちょっとだけ、心が軽くなった……」
「そうか」
「うん……」
しばらくの沈黙。壁時計の秒針が規則正しく時を刻んでいる。遠くで、どこかの家のインターホンが鳴る音がした。
翔太は立ち上がると、床に落ちたシーツを拾い上げた。それをぐしゃぐしゃに丸めて美鈴の頭の上にぽんと置く。
「わっ」
「ちょっとだけかよ」
「え?」
「心がちょっとだけ軽くなった、じゃねえ。お前が本気出せばミギーに勝てる。俺はそう思ってる」
美鈴はシーツを頭からかぶったまま、翔太を見上げた。
「……私、勝てるかな」
「わからねえ。でもお前が本気で勝ちたいなら、俺は協力する」
翔太は美鈴の目をまっすぐに見つめた。その目は真剣で嘘も冗談もなかった。
「聞くぞ、美鈴」
翔太の声が、静かに部屋に響く。
「どんな特訓をしてでも、ミギーに勝ちたいか?」
美鈴は、息を呑んだ。
一週間、逃げ続けた相手。自分を嘲笑い翔太を奪おうとし、雑種と罵った相手。
怖い。今でも怖い。負けるかもしれない。また笑われるかもしれない。
でも。
翔太が隣にいると言ってくれた。私の席だと言ってくれた。
それだけで、少しだけ勇気が湧いてくる。
美鈴は拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。涙がまたあふれて、止めどなく流れ落ちる。でもその涙はさっきまでの弱音の涙じゃなかった。悔しさと決意と、そして翔太への気持ちが混ざった涙だった。
「……勝ちたい」
美鈴は顔を上げた。
「勝ちたい!」
喉が張り裂けそうな大声だった。一週間ぶりに出した感情のこもった声。涙声で、かすれていてでも力強くて。
「私、ミギーに勝ちたい! どんな特訓でもする! 這いつくばってでも走る! だから……だから……」
「よし」
翔太は満足そうにうなずくと美鈴の頭に手を置いた。シーツ越しに、その手の温かさが伝わってくる。
「決まりだな。明日から特訓だ。覚悟しろよ」
「……うん」
美鈴はシーツを握りしめて、涙でぐしゃぐしゃの顔で笑った。それは一週間ぶりの心からの笑顔だった。
窓の外では、秋の雲がゆっくりと流れている。九月の午後はもうすぐ夕暮れに変わろうとしていた。部屋の中に差し込む光が少しだけオレンジ色に染まり始めている。その光が、まるで美鈴の髪と涙をやさしく照らしているようだった。




