休み
9月11日木曜日。朝。
美鈴は学校を休んだ。
朝、目が覚めた瞬間から体が重くて起き上がれなかった。いや、本当は体なんかどこも痛くない。足の痛みはもう消えていた。それなのに、布団が鉛みたいにのしかかってくる。心が「動くな」と命令している。体が言うことを聞かない。いや、心が体を動かすことを拒否している。
「美鈴、朝ごはんできてるわよ」
ドアの向こうから玲香の声が聞こえた。昨日のことをなかったことにしようとしているような、でもどこか腫れ物に触るような、そんな慎重な声だった。
美鈴はシーツを頭からかぶったまま、天井を見つめていた。目は開いているのに何も映っていない。カーテンの隙間から朝陽が差し込んで部屋の中の埃がきらきらと光っている。その光が、やけに眩しくて、遠い世界のものみたいだった。
「……休む」
美鈴は小さく呟いた。
「え?」
「学校、休む。体調悪いから」
ドアの外で玲香が息を呑む気配がした。何か言いたそうだった。でも彼女は何も言わず、しばらくしてから「わかった。ちゃんと休みなさい」とだけ言って階段を下りていった。
その足音が遠ざかっていくのを聞きながら、美鈴は目を閉じた。
(初めてだ)
(学校を休むの、生まれて初めて)
(ずる休みなんて一度もしたことなかったのに)
(体調が悪いって嘘までついて)
(何もしたくない)
その言葉が頭の中をぐるぐる回る。これも初めての感覚だった。走りたくない。食べたくない。テレビも見たくない。スマホも触りたくない。何もしたくない。ただ布団の中でじっとしていたい。消えてしまいたい。
(翔太に会えないのは辛い)
(でも、会ってミギーと一緒にいるところを見るのはもっと辛い)
(翔太の隣を奪われた)
その事実が、美鈴の胸を何度も何度もえぐる。
(私の場所だったのに)
(翔太の隣は、私の特等席だったのに)
(幼なじみで、ずっと一緒にいて、お弁当も分け合って、放課後も一緒に帰って)
(それなのに今はミギーがいる)
(ミギーが翔太に触れて、ミギーが翔太に笑いかけて、ミギーが翔太の隣を当然みたいに占めてる)
「……いやだ」
美鈴はシーツに顔を埋めて呟いた。
「いやだよ……」
涙がまたこぼれる。もう涙なんて枯れ果てたと思っていたのに、まだ出る。目が熱い。枕が濡れて、顔に張りついて、息苦しい。それでも美鈴は布団から出なかった。出る気力がなかった。
外では今日もセミが鳴いている。九月も中旬だというのに、この暑さは異常だ。ニュースでは「今年は残暑が長引いております」と天気予報士が言っていた。夏が終わらない。美鈴の心も、夏の終わりとともに取り残されたまま、ずっとあの敗北の日の熱の中でじりじりと焦げている。
昼過ぎ、玲香がお粥を持って部屋に来てくれた。
「美鈴、何か食べない? お腹空いたでしょ」
美鈴はシーツの上から首を横に振った。それすらも億劫だった。
「……いらない」
「でも朝から何も食べてないわ。一口だけでも」
「いらない。お腹すいてない」
玲香は何か言おうとして、やめた。昨日のことを気にしているのか、無理に踏み込むのはよくないと思ったのかもしれない。彼女は小さくため息をついて、お盆を机の上に置いた。
「じゃあ、食べたくなったら食べて。冷蔵庫にプリンもあるから」
「……うん」
ドアが閉まる音がした。美鈴は目を開けて、天井を見る。白い天井に、網戸越しの光がゆらゆらと揺れている。
(お母さん、ごめん)
(私、最低な娘だ)
(八つ当たりして、嘘ついて、心配かけて)
(でも、どうしても動けないの)
(ミギーと会うのが怖いの)
(翔太とミギーが一緒にいるところを見るのが怖いの)
(私の場所を奪われたのに、何も言い返せない自分が一番怖いの)
美鈴は目を閉じた。瞼の裏に、ミギーの勝ち誇った笑顔が浮かぶ。あの日、翔太の腕に抱きついていたミギー。教室で「翔太」と呼びかけるミギー。翔太がミギーを見る目。あれは迷惑そうだった。でも、翔太はミギーを突き放しはしない。本当に嫌なら本気で逃げるはずだ。なのに彼はなんだかんだでミギーの隣にいる。
(やっぱり翔太はミギーがいいんだ)
(綺麗で強くて速い、純血のドラゴン娘)
(私なんかが敵うわけない)
(私はハーフで、角は2ミリで、100メートルも9秒台まで落ちて)
(何の取り柄もない)
(翔太が私を選ぶ理由なんて、どこにもない)
その考えが、冷たい水のように美鈴の心を満たしていく。反抗する気力すら湧かない。ただ、自分の無力さだけが胸の中に広がっていく。
夕方になって、玲香がまた部屋に来た。
「美鈴、先生から連絡があったわ。お大事にって」
「……うん」
「翔太くんからも連絡来てたわ。『美鈴大丈夫か』って」
その言葉に、美鈴の心臓がどくんと跳ねた。
「……翔太が?」
「ええ。『風邪なら仕方ねえけど、明日は来いよ』って伝えといてくださいだって」
翔太の言葉を聞いた瞬間、嬉しさがこみ上げてきた。でも、次の瞬間にはその感情が冷えていく。
(明日は来いよ、か)
(翔太は優しい。でも、それは幼なじみだからで)
(私が弱ってると放っておけないだけ)
(それに明日学校に行ったら、またミギーが翔太の隣にいるんだ)
美鈴はシーツをかぶり直して、小さく「お母さん、ありがとう」と言った。それ以上何も言えなかった。
外では夕陽が沈みかけて、部屋の中が茜色に染まっている。カーテンの隙間から差し込む光が、美鈴のオレンジ色の髪をより深く照らしていた。尻尾はベッドの下にだらりと垂れたまま動かない。
「明日も、休もうかな」
美鈴は誰にも聞こえない声で呟いた。
「もう、何もしたくない」
その声は茜色の部屋に溶けて消えた。リビングではテレビの音がかすかに聞こえている。天気予報士が「少しずつ残暑もなくなってきました。爽やかな秋の空気が今週は流れるでしょう」と呟いているのだった。




