最低な娘
9月10日水曜日、午後5時20分。
玄関の鍵が開く音がした。
「ただいまー」
母、原玲香の声が家の中に響く。彼女はスーパーの袋を両手に提げたまま廊下を歩き、リビングの電気をつけた。外はまだ明るいけれど家の中はどことなく薄暗い。九月も中旬だというのに、今日の残暑はこたえた。額にうっすら汗をかいた玲香は、ティッシュで汗をぬぐいながら買ってきた食材を冷蔵庫へとしまっていく。
「あれ、美鈴の靴……もう帰ってるの?」
玲香は廊下に脱ぎ散らかされた美鈴のスニーカーを見て首をかしげた。いつもなら部活で帰りは七時近くになるはずだ。しかも靴下が片方だけ階段の手前に落ちている。
「美鈴? もう帰ってたの?」
返事はない。美鈴に部屋から物音ひとつしない。
玲香は手を洗ってから、美鈴の部屋へと向かった。木製の階段をぎしぎしと鳴らしながら上る。部屋の前まで来ると、ドアは少しだけ開いていた。
「美鈴、入るわよ」
そう断ってから、そっとドアを開ける。
部屋は真っ暗だった。カーテンは閉め切られていて、午後の陽射しは一枚の布によって遮断されている。エアコンの風も止まっていて、むっとした熱気が部屋にこもっていた。ベッドの上では美鈴がシーツを頭までかぶって丸くなっている。尻尾だけがだらりとベッドの外に垂れていた。
「美鈴……? どうしたの、まだ五時よ。具合でも悪いの?」
玲香が心配そうに近づく。返事はない。代わりに、くぐもった声がシーツの下から聞こえた。
「……練習、サボった」
「え?」
「部活、サボったの。生まれて初めて。私、行かなかったの」
玲香は目を見開いた。美鈴が部活をサボるなど考えられない。小学校の頃からずっと陸上ひと筋で、風邪を引いても「見学だけなら」とグラウンドに顔を出すような子だった。それが、練習に行かなかった?
「なんで……何かあったの?」
玲香はベッドの縁に腰かけて、シーツ越しに美鈴の背中をそっと撫でた。
「美鈴、お母さんでよかったら聞かせて」
しばらくの沈黙。やがて美鈴は、シーツの中からぽつりぽつりと話し始めた。
「最近、転校してきた子がいるの。ミギーっていう純血のドラゴン娘」
「ミギーちゃん……」
「その子、すごく強くて速くて綺麗で。私、100メートル十本勝負したの。その子と」
「それでどうなったの?」
「うん。負けた。私の結果は10.3秒。私の自己ベストは6.2秒なのに、全然ダメだった。ミギーは5.9秒。ずっと涼しい顔してた。私だけ汗だくで土にまみれて泣いて、恥ずかしかった」
玲香は黙って聞いていた。娘の背中は、小刻みに震えている。
「それから、走るのが怖くなった。走ってもタイムは戻らないし、みんなの視線が痛いし、ミギーが翔太に触るのを見ても何も言えない。私……翔太の隣にいたのに、その場所を取られた気がする」
「美鈴……」
「なんで……」
美鈴の声が、急に尖った。
「なんでお母さん、ドラゴンの男の人と結婚しなかったの!」
玲香の手が、ぴくりと止まった。
「なんで私、ハーフなの! なんで純血じゃないの! 角だってちっちゃくて、弱くて、みんなに馬鹿にされて、純血種には勝てなくて……お母さんがドラゴンの人と結婚してたら、私も純血で生まれて、ミギーにだって負けなかったかもしれないのに……!」
シーツの中から飛び出した言葉は、鋭い刃のように玲香の胸に突き刺さった。玲香は何も言えなかった。ただ、娘の八つ当たりを、じっと受け止めていた。その手は膝の上で固まり、瞳の奥が揺れている。
「お母さんのせいだ……お母さんが人間と結婚したから、私がハーフで弱いんだ……」
そこまで言ったところで、美鈴ははっとした。シーツの外が静かすぎることに気づいたからだ。
「……お母さん?」
美鈴がそっとシーツをめくると、玲香はうつむいていた。その頬には涙が一筋流れていた。声もなく、唇を噛みしめて、何かを必死にこらえている。玲香は涙を手のひらで拭うと、ゆっくりと立ち上がった。
「……そう、だね」
玲香の声は、震えていた。
「ごめんね、美鈴。お母さんのせいだね」
「ち、違う……お母さん、違うの……!」
美鈴が起き上がって言いかけたときには、玲香はもう部屋を出ようとしていた。
「お母さん!」
玲香は振り返らなかった。ただ、ドアのところで一度だけ足を止めて、小さくこう言った。
「ごめんなさい」
その声は、消え入りそうなほど小さくて、そして泣き出しそうなほど苦しそうだった。玲香はそのまま部屋を出て、ドアをそっと閉めた。階段を下りる足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
部屋に静けさが戻る。
美鈴はベッドの上で座り込んだまま、呆然と閉じられたドアを見つめていた。頭の中で、自分の言葉が何度も何度も反響する。
『なんでお母さん、ドラゴンの男の人と結婚しなかったの!』
『お母さんのせいだ……』
『お母さんが人間と結婚したから、私がハーフで弱いんだ……』
「ちがう……違うの……」
美鈴は自分の口を両手で覆った。指の間から、熱い吐息が漏れる。
「私、なんてこと言ったの……」
玲香の寂しそうな後ろ姿が、まぶたの裏に焼きついて離れない。あの涙を拭った手。震える声。「ごめんなさい」という小さな言葉。全部自分のせいだ。
「私、最低だ……」
美鈴はシーツを頭からかぶってベッドに倒れ込んだ。体を丸めて、膝を抱える。尻尾が力なくシーツの上を滑った。
(お母さんは何も悪くないのに)
(人間の男の人と結婚したのだって、お父さんのことが好きだったからで)
(私のためにお弁当も作ってくれて、いつも応援してくれて)
(それなのに私は、お母さんを傷つけた)
「私、最低だ……最低だ……」
何度も繰り返す。涙がシーツに染みていく。部屋の中は暗い。カーテンの隙間から細い光が差し込んで、床に一本の線を描いている。その光の線を見つめながら、美鈴はただ、自分の心の醜さに押しつぶされそうになっていた。
窓の外では、まだセミが鳴いている。今年の夏は、本当にしつこい。九月も半ばだというのに、空気は熱を帯びたまま。でも、部屋の中はどこか冷え切っている。それはエアコンのせいではなく、美鈴の心が冷たくなっているからだ。
「お母さん……」
美鈴は小さく呟いた。その声は、誰にも届かない。暗い部屋の空気に溶けて、静かに消えていった。
リビングでは、玲香が一人、テーブルの前で座り込んでいた。買ってきた食材は冷蔵庫に入れたまま。手には美鈴の小さな写真立て。小学生の頃、陸上大会で初めて優勝した時の写真。メダルを首にかけて笑う美鈴と、隣で嬉しそうにピースをする玲香。玲香はその写真を胸に抱いて、声を殺して泣いていた。
「ごめんね、美鈴……ごめんね……」
その声は、二階にいる美鈴には聞こえない。それでも、二人の涙は同じ熱さで、同じように流れていた。




