学校に行きたくない
9月5日、金曜日。朝。
目が覚めた瞬間、美玲は思った。
(学校、行きたくない)
生まれて初めての感覚だった。小学校の頃も、中学校の頃も、風邪で熱が出た日以外は必ず学校に行っていた。陸上の練習があればなおさらだ。走るのが大好きで、走るために学校に行っていたと言っても過言じゃない。なのに今は、布団から出ることさえおっくうで、制服に袖を通す手が重い。
(だって、行ったらまたあの光景を見なきゃいけない)
翔太の隣にいるミギー。翔太の腕に抱きつくミギー。翔太に笑いかけるミギー。
(翔太の隣は、私の場所だったのに)
美玲は唇を噛んだ。鏡の前でポニーテールを結びながら、自分の顔を見る。目の下にはうっすらとクマができていた。ここ数日、ろくに眠れていない。夜になると昨日の10.3秒が頭に浮かんで、何度も寝返りを打った。足の痛みはようやく引いてきたけど、心の痛みはちっとも癒えない。
「……翔太だって、きっと」
鏡の中の自分が、みじめな顔でつぶやく。
「混血種で、遅くて、鈍くて、弱い私なんかよりも」
綺麗で、美しくて、速くて、強いミギーの方がいいに決まってる。
純血種で、全国優勝者で、自己ベスト5.9秒。角は立派で、尻尾は優雅で、クラスメイトはみんな「綺麗だ」って褒める。そんな子が「彼女にして」って言ってるんだ。翔太だって、心の中ではミギーに惹かれてるんじゃないか。そう考えると、胸がぎゅうっと締めつけられて、息ができなくなる。
(それでも、行かなきゃ)
美玲は重い足を引きずるようにして家を出た。母の玲香が「朝ごはん、まだ残ってるよ」と声をかけてくれたけれど、とても食べられそうになかった。大好きなはずの焼き鮭も、味噌汁も、今日は喉を通らない。
「……ごめん、お母さん。あんまりお腹すいてなくて」
「美玲? 大丈夫? 顔色悪いわよ」
「平気。ちょっと夏バテ気味なだけ」
嘘だった。夏バテなんかじゃない。心がバテているんだ。
教室に着くと、もうミギーは翔太の隣にいた。
「翔太、今日のお昼一緒に食べない? 私、お弁当作ってきたの」
「いらねえ」
「つれないわねえ。私の手料理、食べたくないの?」
ミギーは小首をかしげて翔太に微笑みかける。その姿は、朝の光を浴びてキラキラと輝いて見えた。白い髪は絹糸のようにさらさらで、青い瞳は宝石みたいに澄んでいる。クラスメイトたちは「お似合いだよね」「ミギーさん、翔太くんのこと本当に好きなんだね」と囁き合っている。
美玲は自分の席に座って、その光景をじっと見つめていた。何も言えない。言いたいことは山ほどある。『離れて』『翔太は私の幼なじみなんだから』『あなたに翔太は渡さない』でも、言葉が喉の奥でつかえて出てこない。昨日のあの敗北が、ミギーのあの笑顔が、『雑種ちゃん』という言葉が、何度も何度も頭の中でリフレインする。
(弱者である私には、何かを言う資格はない)
(だって私は、あの時10.3秒しか出せなかった)
(ミギーは5.9秒。私より4秒以上も速い)
(走りで勝負して負けた私が、何を言っても負け犬の遠吠えにしかならない)
美玲はうつむいて、自分の手をじっと見つめた。スターティングブロックでついた傷は、もうかさぶたになりかけている。でも、心の傷はまだ血を流したままだった。
それから数日が過ぎた。
美玲はそれでも練習を休まなかった。休めば、もっと負けた気がするから。足の痛みはようやく引いて、体は動くようになっていた。タイムも少しずつ戻り始めている。それでも、自己ベストには遠く及ばない。9秒台前半が精一杯だった。
そして何より。
(走るのが、楽しくない)
美玲はトラックの上で立ち止まった。息が荒い。汗が額から流れて目に入る。心臓はバクバクと脈打っているのに、心はどこか冷めていた。
(前は、走るだけで楽しかったのに)
(風を切るのが気持ちよくて、タイムが伸びると嬉しくて、汗をかくとすっきりして)
(それなのに今は)
息を切らして、汗をかいて、膝をつく。そのすべてが不快だった。べたつく汗も、張り裂けそうな心臓の鼓動も、重たい足も、何もかもが嫌だった。走るたびに昨日の無様な敗北を思い出す。走るたびにミギーの笑顔がちらつく。走るたびに『雑種ちゃん』という声が耳の奥で木霊する。
「……9.4秒か」
マネージャーが読み上げたタイムに、美玲は何も言えなかった。
「美玲先輩、ちょっとフォームが崩れてますよ。もっと膝を高く……」
「わかってる」
後輩のアドバイスを、つい冷たく遮ってしまう。後輩はびっくりした顔で美玲を見つめた。美玲は慌てて「ごめん」と謝ったけれど、心はちっとも謝っていなかった。
(わかってるんだよ、そんなこと)
(でも、体が動かないんだ)
(頑張っても、頑張っても、タイムは伸びない)
(それどころか、どんどん走るのが嫌になってる)
(私、どうしちゃったんだろう)
グラウンドの向こうでは、今日もミギーが走っている。陸上部の練習に参加しているわけではない。ただ、自主練としてトラックを使っているだけだ。それなのに、野次馬はミギーの走りばかり見ている。タイムを聞いては「6.4秒!」「やっぱり速い!」と歓声をあげる。
そして、その歓声の合間に、聞こえてくる声がある。
「原さん、最近調子悪くない?」
「昨日の10本勝負で心折れたんじゃない?」
「純血種に勝てるわけないのに、よく挑んだよね」
「ハーフだし、しょうがなくない?」
くすくすという笑い声。同情するような視線。好奇の目。
そのすべてが、美玲の心をえぐった。
(雑種、ハーフ、なんだから負けて当然)
(その程度の実力、元々持ち合わせてないのだ)
ミギーの声が脳裏に蘇る。実際に言われたわけじゃない。でも、あの白いドラゴン娘の目は、確かにそう言っていた。お前は弱い、お前は劣っている、お前は私に勝てない、と。
美玲は唇を噛みしめて、うつむいた。汗が地面に落ちて、小さな染みを作る。その汗が、なんだかやけに汚いもののように感じられた。
(前は、汗をかくのが大好きだったのに)
(スポーツして、汗を流して、『気持ちいい!』って叫んで)
(今は、この汗が不快でしかない)
(べたべたして、臭くて、早くシャワーを浴びたい)
(走っても、走っても、気持ちよくなれない)
(心が、ぜんぜん晴れない)
美玲は顔を上げて、空を見た。空は高くて青い。うろこ雲が広がっていて、少しずつ秋が近づいている。夏はもう終わる。なのに、心の中はずっと夏のまま。あの敗北の日のまま、ちっとも進めない。
9月10日、水曜日。
美玲は、生まれて初めて練習をサボった。
部活の時間になっても、彼女は部室に現れなかった。後輩たちは「美玲先輩は?」と首をかしげ、顧問は「体調でも悪いのか」と心配そうに眉をひそめた。誰かがスマホに連絡を入れたが、既読はつかない。
美玲はもう、家への帰り道を歩いていた。まだ午後4時だというのに、太陽はまだ高くて、残暑がじりじりと肌を焦がす。制服のブラウスは汗で背中にはりつき、スカートの裾が重たく感じる。鞄を肩にかけて、とぼとぼと歩く。尻尾は力なく地面すれすれに垂れ下がり、オレンジの瞳からは光が消えていた。
(サボっちゃった)
(私、練習をサボっちゃった)
(みんな、なんて言うかな)
(『エースのくせに』って、また陰で笑われるのかな)
(でも、もういいや)
(どうせ私は、エースなんかじゃない)
(ミギーに勝てない、ただの雑種ハーフだ)
足が重い。心がもっと重い。家までの道のりが、やけに長く感じられる。
「……翔太」
自然と、その名前が口からこぼれた。
(翔太は今頃、ミギーと一緒にいるのかな)
(私がいなくても、翔太は何も変わらないのかな)
(そりゃそうだよね。翔太は強い子が好きかもしれないし)
(私みたいな弱いハーフ、幼なじみってだけで近くにいるだけだもんね)
そう考えると、目の奥が熱くなった。涙が滲む。道行く人がチラチラとこちらを見ている気がした。
(やだな、こんなところで泣きたくない)
(でも、もう止まらない)
美玲はうつむいて、早足で家へと向かった。玄関の鍵を開けて、靴を脱ぎ捨てて、まっすぐ自分の部屋へ向かう。鞄を床に放り投げ、ベッドに倒れ込んだ。シーツに顔を埋めると、ヒヤリとした感触が熱くなった頬に気持ちいい。
「……なんで」
声に出したら、涙が溢れてきた。
「なんで私、こんなに弱いんだろう」
枕に顔を押しつけて、声を押し殺して泣く。誰にも聞かれたくない。お母さんにも、誰にも。陸上部のエースが、練習をサボって、布団で泣いてるなんて、知られたくなかった。
窓の外では、まだセミが鳴いている。九月も半ばだというのに、今年の夏はしつこい。カーテンの隙間から差し込む午後の陽射しが、部屋の中に長い影を落としていた。机の上には、県大会のトロフィー。壁には、自己ベストを更新した時の記録証。でもそれらは今、遠い過去の遺物のように思える。




