挫折
9月3日水曜日。朝の空気は昨日までと少し違っていた。昨晩、まとまった雨が降ったらしい。アスファルトはまだしっとりと濡れていて、水たまりに朝陽が反射している。空は高く青いが、湿度が異様に高く、朝からじっとりと肌にまとわりつくような残暑だった。学校の廊下を歩くだけでワイシャツが汗で背中にはりつきそうになる。それでも、空の色は夏のそれよりもわずかに透明で、秋が少しずつ近づいている気配はあった。
美玲は下駄箱の前で立ち止まり、ぐったりとした表情で上履きに履き替えていた。眠れなかった。朝方ようやくうとうとしたかと思うと、ふくらはぎの痛みで目が覚めた。太ももは相変わらずパンパンで、階段を上るたびに筋肉がぎしぎしと悲鳴をあげる。それでも、今日は学校に来た。来なければ、もっと負けた気がしてしまいそうで。
「はあ……」
美玲は小さくため息をついて、自分の頬を両手でぱちんと叩いた。
「大丈夫、大丈夫。今日はまだ始まったばかり……」
そう自分に言い聞かせて教室へ向かう。足は痛い。それでも、いつも通りに歩く。いつも通りに笑う。いつも通りに「おはよう」って言う。それができなければ、自分が自分でなくなりそうな気がした。
教室に入ると、翔太はすでに自分の席に座っていた。窓の外をぼんやり眺めている。美玲は「おはよう翔太」と声をかけた。ちゃんと声が出た。翔太はちらりと振り返り「おはよう」とだけ返す。その短い返事が、今日はやけに遠く感じる。
「美玲さんおはよう」「おはよう」
クラスメイトの女子が声をかけてくれる。美玲は笑顔で返した。でも、その女子の視線が一瞬、美玲の足に向いた気がした。気のせいかもしれない。気のせいであってほしい。
美玲が席に着くと、教室のドアが開いた。
ミギーが入ってきた。
朝の光を浴びた彼女は、今日も完璧だった。白い髪はさらさらと揺れ、青い瞳は涼しげで、頭の角は堂々と伸びている。白い尻尾はゆったりと弧を描き、その動きだけで空気が変わる。クラスメイトたちの視線が一斉にミギーに集まり、ひそひそと「今日も綺麗だね」「やっぱり全国一位の純血種は違うなあ」という声が聞こえてきた。
ミギーはまっすぐ翔太の席へ向かった。そして、隣の席に座るや否や、翔太の腕に抱きつくようにして笑いかける。
「翔太、おはよう。今日もいい匂い」
「離れろ」
翔太は無表情で言った。しかしミギーは意に介さず、さらに体を寄せる。
「つれないのね。私、昨日あんなに頑張って走ったのに」
「知らねえよ」
翔太が冷たく返す。そのやりとりを、美玲は後ろの席から黙って見つめていた。
(また、翔太に触ってる)
美玲の心の中で、もやもやした黒いものが鎌首をもたげる。ミギーに抱きつくなと言いたい。翔太は私の幼なじみで、私の大切な人で、私の……。
しかし、昨日の光景が頭をよぎった。
土にまみれてうずくまった自分。10.3秒というタイム。笑いながら翔太に手を振るミギー。
『雑種ちゃんの力如きで、純血の龍がどうこうできるわけないじゃない』
あの声が、耳の奥でこだまする。
美玲は唇を噛みしめた。言わなければ。でも、声が出ない。喉の奥が熱くなって、心臓がどくどくと早鐘を打つ。手に汗が滲む。尻尾が、ぴくりとも動かない。
(私が何か言ったって、どうせ……)
結局、美玲は何も言えなかった。うつむいて、机の上で両手をぎゅっと握る。爪が食い込んで痛い。
ミギーが勝ち誇ったように美玲を一瞥した。口元がほんの少しだけ吊り上がる。
「あら、今日は静かなのね。昨日の負けがよっぽど堪えたのかしら」
「……別に」
美玲は小さく答えるのが精一杯だった。声が震えているのが自分でもわかる。
「ふうん」
ミギーは興味を失ったように翔太へと向き直った。その態度に、美玲の胸がぎゅうっと締めつけられる。
昼休みを挟んで、放課後。
陸上部の練習が始まった。美玲は部室で着替えを済ませると、トラックに向かった。足はまだ痛い。階段を下りるときも、膝が笑っているような感覚があった。それでも、走らないわけにはいかない。走れば、昨日のことが少しでも薄れる気がした。
しかし、翔太の姿はなかった。いつもなら、気が向いたときにふらりとグラウンドに現れる。でも、今日はまだ来ていない。美玲はトラックの脇に目をやったが、ベンチには誰も座っていなかった。
(今日は来ないのかな)
(昨日の私の走り、呆れちゃったのかな)
そう考えると、また胸が痛くなった。
「原、今日は軽めにしとけよ。昨日かなり足にきてるだろ」
陸上部の顧問が声をかけてくれる。美玲は笑顔で「大丈夫です」と答えた。大丈夫なはずがない。それでも、部員たちの前で弱音は吐けない。エースとして、みんなを引っ張る立場として、情けない姿はもう見せられない。
「じゃあ、アップ始めます!」
美玲は声を張り上げた。後輩たちが「はい!」と応える。その声に混じって、遠くから聞こえてくる声があった。
「ミギーさんって、今日も陸上部の練習参加するのかな」
「全国チャンプがうちのグラウンドにいるって、すごいよな」
「昨日の10本勝負見た? やっぱり次元が違うわ」
「原さん、かわいそうだったよな。エースなのに」
「6秒台って、まじで異次元だよね」
その声は、トラックの外から聞こえてくる。野次馬の生徒たちだ。昨日の出来事が噂になっているらしい。美玲は何も聞こえなかったふりをして、スターティングブロックに足をかけた。
「位置について、よーい……」
部活のメニューとして、50メートルの加速走を行う。美玲は力強く飛び出した。だが、足が重い。踏み込むたびに、ふくらはぎに痛みが走る。昨日の無理が、じわじわと体を蝕んでいる。
「9.2秒……」
マネージャーが小さくタイムを読み上げた。200メートルじゃない。100メートルのタイムだ。美玲の自己ベストは6.2秒。今日は9秒台。昨日の後半と同じくらいのタイムしか出ない。
「なんで……」
美玲は膝に手をついて荒く息を吐いた。心臓が早鐘を打つ。息が苦しい。目の前がチカチカする。
(なんで走れないの)
(足が痛いから? 昨日の疲れが残ってるから?)
(そうだ。きっとそうだ)
(精神的なものなんかじゃない)
(私はまだ、やれる)
美玲は顔を上げた。視界の端で、ミギーがトラックを走っているのが見えた。白い尻尾をなびかせ、軽やかに地面を蹴る。周りでは野次馬たちが「6.5秒!」「すごい!」と歓声をあげている。
「やっぱりミギーさん、速すぎでしょ」
「原さん、今日は9秒台か。昨日のダメージ残ってるのかな」
「それとも、もう勝負に負けて心が折れたとか?」
「あり得るあり得る。ミギーさんにぼろ負けしたんだから」
くすくすという笑い声が、風に乗って美玲の耳に届いた。
美玲は立ち尽くしたまま、地面を見つめた。スパイクのつま先が、砂に沈んでいる。汗がぽたぽたと落ちて、乾いた地面に染み込んでいく。
(影口……笑われてる……)
(私、陸上部のエースなのに)
(みんなの前で、また情けない姿を見せてる)
胸の奥がずきずきと痛んだ。それは走りすぎによる筋肉痛なんかじゃない。もっと深いところ、心の真ん中あたりが、ひび割れていくような痛みだった。
「美玲先輩!」
後輩の一人が駆け寄ってきた。一年生のマネージャーだ。心配そうな顔で、タオルとスポーツドリンクを差し出してくれる。
「大丈夫ですか? 今日は無理しないでください。昨日、あんなに走ったんだから……」
「……大丈夫」
美玲はタオルを受け取って、顔の汗を拭いた。本当は、今すぐにでも泣き出したかった。家に帰って、布団に潛って、誰にも会いたくない。でも、後輩の前でそんな姿は見せられない。
「ありがとう。平気だよ。ちょっと足が重いだけだから」
「でも……」
「平気。ほら、次のメニュー行くよ」
美玲は後輩に笑いかけた。自分でも、ちゃんと笑えているかわからなかった。
その時、遠くのトラックからミギーの声が聞こえた。
「あら、ハーフちゃん。今日はもう終わり? 私、まだまだ走れるわよ」
ミギーは美玲の方を向いて、にこりと微笑んだ。その笑顔は、昨日の勝負の後と同じ、勝者の余裕に満ちたものだった。
美玲は何も言えなかった。うつむいて、自分の手のひらを見つめる。そこには、昨日のスターティングブロックでついた小さな傷が残っていた。
(今日は何も言えない)
(翔太もいないし)
(足も痛いし)
(それに、私……あの子に勝てる気がしない)
美玲は唇を噛みしめた。口の中に、ほんの少し血の味がした。
風が吹く。少しだけ秋の気配を含んだ生ぬるい風が、美玲のオレンジ色の髪を揺らした。グラウンドでは、ミギーが再び走り出す。野次馬たちの歓声が、また大きくなる。その声が、全部自分を嘲笑っているように聞こえた。




