恐れ
9月2日火曜日、深夜1時23分。
原家の一軒家は静まり返っていた。リビングの時計の秒針の音だけがかちかちと廊下に響いている。外ではコオロギが鳴いていて、時折どこかの家の室外機が低く唸る音が聞こえた。窓は少しだけ開いていて、網戸越しに生ぬるい夜風がカーテンをふわりと揺らす。
二階の美玲の部屋。六畳ほどの洋室には、陸上の大会のトロフィーや賞状がいくつか飾られている。壁にはお気に入りのスニーカーのポスター。机の上にはストップウォッチとトレーニング用のメモが置かれたままだった。
部屋の明かりは消えている。でも美玲は眠れなかった。
「……いたた……」
ベッドの中で美玲は小さくうめいた。仰向けに寝ているが、両足がじんじんと痛む。太もももふくらはぎもパンパンに張っていて、まるで熱を持った鉄の棒を埋め込まれたみたいだった。膝を曲げても伸ばしても痛い。どんな体勢になっても痛みが逃げていかない。
「はあ……はあ……」
美玲はそっと自分の足を触ってみた。指の先がふくらはぎに触れるだけで、筋肉がひくひくと痙攣しているのがわかる。10本も全力疾走した後だ。しかも途中からは完全にフォームが崩れていたから、あちこちの筋肉に無理な負荷がかかっている。
「……お風呂でちゃんとマッサージしたのに」
美玲は唇を噛んだ。入浴後には十分にストレッチもしたし、アイシングだってした。それでもこの痛みは治まらない。夏休み中に積み重ねてきた練習では感じたことのないような鈍い痛みが、骨の奥まで染み込んでいるようだった。
(明日、ちゃんと歩けるかな)
そう思うと、また涙がにじんできた。
美玲はベッドの上で体を横向きにした。膝を軽く曲げて、胎児のように丸まる。尻尾が力なくシーツの上に横たわり、オレンジ色の髪が枕の上に散らばった。
(ミギー……)
頭に浮かぶのは、あの白い姿。涼しい顔で何本でも走り続けたミギー。息一つ乱さず自己ベストを叩き出したミギー。泣いている美玲を見下ろしながら笑っていたミギー。
「……怖い」
美玲は声に出して呟いていた。自分でも気づかないうちに、言葉が漏れていた。
「……怖いよ……」
小さな角が枕に押しつけられて、シーツに擦れる音がした。ドラゴンにとって角は誇りであり力の象徴だ。でも美玲の角は、わずか2ミリ。触れなければわからないほど小さくて、髪に隠れてほとんど見えない。
(純血種には、勝てないのかな)
ミギーの角は立派だった。白く透き通っていて、太陽の光を受けると宝石のように輝いていた。あの角を見ただけで、周りのドラゴンはみんな「強い」と認める。尻尾の形も、鱗の艶も、呼吸の仕方さえも、何もかもが美玲とは違っていた。
(私がどれだけ練習しても、あの差は埋まらないのかな)
10本勝負のタイムが、頭の中で繰り返し再生される。
8.7秒。8.9秒。9.0秒。9.3秒。9.6秒。9.8秒。10.0秒。10.1秒。10.2秒。そして最後は10.3秒。
走るたびに遅くなっていった。まるで自分の体が自分じゃなくなっていくみたいだった。どれだけ頑張っても、足が動かなくて、腕が振れなくて、呼吸が続かなくて。
(みんな見てたのに)
(陸上部の後輩たちも、先輩たちも、クラスのみんなも)
(翔太も)
翔太の顔を思い出した瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
(翔太の前で、あんな無様で恥ずかしい姿……)
美玲はぎゅっとシーツを握りしめた。涙がこぼれて、枕に小さな染みを作る。
「翔太は……ミギーのこと、どう思ってるのかな」
美玲は暗い天井を見つめた。網戸越しに差し込む月明かりが、天井に白い模様を描いている。その光が、なんだかミギーの白い髪みたいだと思って、すぐに目を閉じた。
(翔太は「お前の方がずっといい」って言ってくれた)
(でもあれは、慰めかもしれない)
(だってミギーはあんなに強くて、綺麗で、純血で……)
美玲は自分の角に手をやった。指先でそっと触れる。2ミリ。たった2ミリ。ドラゴンの誇りがこれっぽっちしかない。ハーフだから仕方ないって言われればそれまでだけど、この角のせいで何度も笑われてきた。保育園の頃も、小学校の頃も、中学校の頃も。ドラゴンの子たちはみんな美玲の角を見て「ちっちゃい」「かわいそう」「弱そう」って言った。
(強くなりたくて走り始めたのに)
(走れば角なんて関係ないって思ってたのに)
(結局、純血種には敵わないの?)
美玲は枕に顔を埋めた。声を押し殺して泣く。ママには聞こえないように。母は隣の部屋で寝ている。心配かけたくない。
(明日、学校行きたくないな)
(みんな、私のこと笑うかな)
(陸上部の子たちも、がっかりしたかな)
(「エースなのに10秒台」って陰で言われてるのかな)
美玲の尻尾が、ふるふると震えた。恐怖が、後悔が、悔しさが、ぐちゃぐちゃになって胸の中で渦を巻いている。
「……勝てないのかな」
また呟いてしまう。
(諦めないって言ったのに)
(翔太の前でかっこつけたのに)
(でも、どうやったら勝てるの?)
美玲は足の痛みをこらえながら、ゆっくりと体を起こした。ベッドの縁に腰掛け、窓の外を見る。月が白く輝いていて、遠くの電線にカラスが一羽止まっているのが見えた。
「……私の全力って、あんなものなのかな」
自分の手を見つめる。ストップウォッチを握るたびに、スタートの合図で地面を蹴るたびに、ずっと積み重ねてきた。なのに。
(翔太が応援してくれたら、6.2秒出せたのに)
(今日は翔太、一度も名前を呼んでくれなかった)
(最初に「負けんなよ」って言ってくれただけ)
(そりゃそうだよね。見てられなかったんだよ。あんな走り)
また涙が出てきた。ぽたぽたと太ももの上に落ちて、シーツに染み込んでいく。
「……翔太」
声に出したら、少しだけ心が軽くなった気がした。
「翔太の声が聞きたい」
スマホを手に取る。ベッドの枕元に置いてあったスマホの画面は真っ暗だ。電源を入れると、ホーム画面には家族との写真。通知は何も来ていない。
美玲は翔太の連絡先を開いた。電話をかけようとして、指が止まる。
(こんな時間にかけたら迷惑だよね)
(それに、なんて言えばいいの?)
(「眠れないから声聞かせて」なんて、重いよ)
美玲はスマホを握りしめたまま、またベッドに倒れ込んだ。足の痛みがまたぶり返して、今度は足首のあたりまでじんじんする。
「いたい……」
美玲は小さく呟いて、目を閉じた。瞼の裏に、ミギーの笑顔が浮かぶ。あの勝ち誇った顔。翔太に向かって手を振っていた姿。私を「雑種ちゃん」と呼ぶ声。
「……こわいよ」
その言葉は、誰にも届かない。暗い部屋の中で、空気に溶けて消えていった。
外ではまだコオロギが鳴いている。網戸越しに吹き込む風が、美玲の汗ばんだ髪をそっと撫でていった。夏の熱は夜になっても地面から放出され続けていて、部屋の中はむんわりと暑い。それなのに美玲の体は、どこか冷えているように感じられた。
(明日、翔太に会ったら、なんて言おう)
(普通に「おはよう」って言えるかな)
(ミギーの隣にいたりしたら、どうしよう)
考えるほどに胸が苦しくなる。美玲はシーツを頭まで被ると、まるで殻に閉じこもるように体を丸めた。小さな角がシーツにこすれて、かすかな音を立てる。
「……はやく朝になんないかな」
そう呟いた夜は、まだ長い。眠りはやってこない。足の痛みと、心の痛みが、交互に波のように押し寄せてくる。
美玲は何度も寝返りを打ちながら、それでも必死に目を閉じ続けた。眠れない夜は、まだ始まったばかりだった。




