大敗
9月2日、火曜日。放課後。
残暑はまだまだ厳しく、グラウンドの砂埃が陽炎に揺らめいている。セミの鳴き声はさすがに弱まったが、代わりにツクツクボウシが力強く鳴き始めていた。空は高く青く、うろこ雲がかすかに浮かんでいる。暦の上ではもう秋なのに、制服のワイシャツは相変わらず汗で背中に張りつく。
翔太はグラウンドの脇にある古びたベンチに腰掛けていた。ペンキの剥げた木製のベンチで、座るたびにぎしりと軋む。手には飲みかけの麦茶。奈々穂が今朝も「熱中症に気をつけて」と無理やり持たせたやつだ。
「翔太! こっちこっち!」
グラウンドのトラックからミギーが手を振っている。白い体操着に身を包み、短く切り揃えた白い髪が午後の陽射しにきらきらと輝いていた。頭には二本の美しい白い角が堂々と伸び、白い尻尾はゆったりと弧を描いている。陸上部のユニフォームを着た彼女は、どこかのモデルのようにも見えた。
「なんで俺が陸上部の練習なんか……」
翔太がぼやくと、ミギーは小走りで近づいてきて翔太の腕をぐいっと引っ張った。
「いいからいいから。今日はね、翔太に見てほしいものがあるの」
「見てほしいもの?」
「私とハーフちゃんの勝負よ」
翔太の眉がぴくりと動く。
「美玲と?」
「そう。私が転校してきてから、あの子ずっと私に噛みついてくるでしょ。だったら、一番わかりやすい方法で決着をつけようと思ってね。100メートル走、十本勝負。これで私が勝ったら翔太は私の彼氏になる。どう? 面白いでしょ?」
「俺の意思は無視かよ」
「翔太は黙って見ててくれればいいの」
ミギーはウインクをして、トラックの中央へと戻っていった。白い尻尾が楽しそうに揺れている。
トラックのスタートラインには、すでに美玲が立っていた。オレンジ色の髪をポニーテールにまとめ、陸上部のユニフォームを着ている。いつも元気に揺れている尻尾は、今は緊張でピンと硬直していた。オレンジの瞳は真剣そのもので、小さな角の先がかすかに震えている。
「美玲」
翔太が声をかけると、美玲ははっと顔を上げた。
「翔太……」
「負けんなよ」
たった一言。でも、その言葉だけで美玲の尻尾が少しだけ元気を取り戻した。
「うん!」
スタートラインに二人が並ぶ。身長はほぼ同じなのに、その佇まいの差は歴然としていた。ミギーは余裕の笑みを浮かべ、美玲は必死の形相だ。グラウンドの周りには、いつの間にか野次馬の生徒たちが集まっている。陸上部の部員たちも練習の手を止めて、固唾を呑んで見守っていた。
「それじゃあ、私が合図を出すわね」
ミギーが審判役を買って出た。本来ならおかしな話だが、誰も逆らえない。
「位置について……よーい……」
美玲が深く息を吸い込む。スターティングブロックに両足をかけ、指先が地面に触れる。心臓が早鐘のように打ち、こめかみで血管が脈打っていた。
「ドン!」
二人が同時に飛び出した。
最初の30メートルは互角に見えた。美玲のスタートダッシュは県大会の時より明らかに磨きがかかっている。腕を大きく振り、膝を高く上げ、地面を力強く蹴る。尻尾が空気抵抗を減らすために一直線に伸びていた。
しかし、50メートルを過ぎたあたりで差が開き始める。ミギーの加速が、明らかに美玲を上回っていた。白い尻尾がしなり、スパイクが地面をえぐるたびに土煙が上がる。まるで地面を蹴るたびに加速しているかのような、異次元の走りだ。
「速い……!」
野次馬の誰かが呟いた。
美玲も必死に食らいつくが、差は広がるばかり。ゴールラインを駆け抜けた時には、すでに2メートル以上の差がついていた。
「第一走、ミギー6.4秒、原美玲8.7秒!」
陸上部のマネージャーがストップウォッチを見ながらタイムを読み上げる。グラウンドがざわついた。
「8.7秒って……」
「うちのエースが……」
「ミギーさん速すぎでしょ……」
美玲はゴールラインを越えた後、両手を膝について荒い呼吸を繰り返した。汗がぽたぽたと地面に落ちて、すぐに乾いていく。心臓が痛いほど脈打っていて、肺が酸素を求めてひりひりと悲鳴を上げていた。
(8.7……県大会の予選より遅い……)
「あらあら。ハーフちゃん、どうしたの? 県大会の時はもっと速かったんじゃないかしら」
ミギーは涼しい顔で美玲に近づいた。息一つ乱していない。
「もう一度だ!」
美玲が顔を上げて叫んだ。オレンジの瞳が悔しさに燃えている。
「もう一度! もう一度やらせて!」
ミギーはくすくすと笑った。まるで駄々をこねる子供を見るような目だ。
「いいわよ。何度でも相手してあげる」
第二走。結果はほぼ同じだった。美玲8.9秒、ミギー6.3秒。
第三走。美玲9.0秒、ミギー6.2秒。
走るたびに美玲のタイムは落ちていった。足が思うように動かない。スタートダッシュで力みすぎて、後半にバテる。フォームが乱れ、尻尾が左右にぶれて空気抵抗が増えているのが自分でもわかる。
第四走。美玲9.3秒、ミギー6.5秒。
五本目を走り終えた時には、美玲のタイムは9.6秒まで落ち込んでいた。息はすでに上がりきっていて、肩が大きく上下している。汗が滝のように流れ、ユニフォームが体に張りついていた。足が鉛のように重く、膝が笑っている。
「はあ……はあ……はあ……」
対するミギーは、まだ涼しい顔だ。白い肌にはほとんど汗の一滴も浮かんでいない。尻尾は優雅に揺れ、呼吸はまったく乱れていなかった。
「もう五本終わったけど、まだ続ける? ハーフちゃん、もうフラフラじゃない」
ミギーの声はからかうような調子だった。それでも美玲は顔を上げる。
「まだ……まだやれる……!」
六本目。美玲9.8秒。
七本目。美玲10.0秒。
グラウンドの野次馬たちの空気が変わってきた。
「原さん、もうやめたほうが……」
「記録がどんどん落ちてる……」
「さすがに純血種には勝てないよ……」
「可哀想になってきた……」
その声が、かえって美玲の心をえぐる。同情されるほど惨めなことはない。
八本目。美玲10.1秒。
九本目。美玲10.2秒。
そして十本目。
美玲はスタートラインに立った。もう足は震えている。握りしめた拳からは力が抜け、視界がかすみ始めていた。それでも、彼女は走ることをやめなかった。
「位置について……よーい……」
ミギーの声が遠くに聞こえる。
「ドン!」
飛び出した。
最初の一歩はなんとか踏み出せた。でも、二歩目、三歩目と進むうちに、足がもつれそうになる。腕がうまく振れない。息が苦しい。心臓が破裂しそうだ。
それでも美玲は走った。歯を食いしばり、涙が滲む視界のまま、ゴールだけを見つめて。
しかし、隣を走るミギーの姿は、すでに遥か前方にあった。
ミギーはゴールラインを駆け抜ける瞬間、チラリと後ろを振り返った。美玲がまだ50メートル地点を過ぎたあたりを必死に走っている。その姿を見て、ミギーはほんの少しだけスピードを緩めなかった。むしろ、最後の一歩に力を込めて、自己ベストを叩き出しにいく。
「ミギー・クロック、5.9秒! 自己ベストタイ!」
マネージャーの声がグラウンドに響き渡った。野次馬からどよめきが起こる。
「5.9秒って……」
「全国大会と同じタイムじゃん……」
「やっぱり別次元だよあの人は……」
美玲がゴールラインを越えたのは、それから数秒後のことだった。もはや走るというより、倒れ込むようにしてゴールにたどり着く。
「原美玲、10.3秒」
そのタイムを聞いた瞬間、美玲の膝から力が抜けた。がくんと地面に崩れ落ち、両手を土につく。全身が震え、汗と涙が混じって地面に染みを作っていった。
(10.3……)
(自己ベストより4秒以上も遅い……)
(こんなの……こんなのって……)
悔しい。
悔しい。
悔しい。
胸の奥がぎゅうっと締めつけられて、呼吸がうまくできない。喉の奥から嗚咽がこみ上げてきて、必死に抑えようとするが、もう無理だった。
「うっ……ううっ……」
美玲はその場にうずくまり、声を押し殺して泣き始めた。オレンジの髪が土にまみれ、尻尾が力なく地面に横たわる。小さな角が、午後の陽射しに照らされて、やけに小さく見えた。
グラウンドが静まり返る。野次馬たちは気まずそうに顔を見合わせ、誰も言葉を発しない。陸上部の部員たちも、どう声をかけていいかわからずに立ち尽くしていた。
そんな中、ミギーだけが笑顔だった。
「5.9秒、気持ちいいわね。久しぶりに全力出せた気がする」
彼女は自分の尻尾を手で払いながら、軽やかな足取りで翔太の方へと歩いていく。白い体操着は汗一つ染みていない。まるで散歩でも終えたかのような余裕の表情だ。
「翔太、見てた?」
ミギーはベンチに座る翔太のすぐ前に立つと、いたずらっぽく首をかしげた。青い瞳がきらりと光る。
翔太は無言でミギーを見上げた。その手には、力なく握られた麦茶のペットボトル。
ミギーはそんな翔太の表情を楽しむように、ゆっくりと口を開いた。
「ねえ翔太。こんなに弱い子と一緒だったら、翔太も弱くなっちゃうよ?」
彼女はトラックの上でまだ泣いている美玲をちらりと見てから、再び翔太に顔を向けた。そして、勝ち誇ったように尻尾を揺らしながら、こう言い放った。
「ねえ! 私を彼女にしてよ!」
グラウンドに、重い沈黙が落ちた。
セミの代わりに鳴き始めたツクツクボウシの声だけが、やけに大きく響いていた。
翔太はゆっくりとベンチから立ち上がった。麦茶のペットボトルをベンチに置き、ミギーをまっすぐに見下ろす。黒い瞳に感情は見えない。でも、その無表情さが、かえって彼の怒りを物語っていた。
「……なあ」
翔太は低い声で言った。
「てめえ、何が目的だ」
「目的? 私はただ、強いドラゴンと強い契約者が一緒になるのは当然のことでしょ。それに、翔太はドラゴン使いなんでしょ? 私と組めば、最強になれるわよ」
「ふざけんな」
翔太の声が、グラウンドに冷たく響いた。
「お前が強いのは認める。でも、美玲をあそこまで追い詰めて笑っていられるようなやつと組む気はねえ」
翔太はミギーに背を向けると、トラックの上で泣いている美玲の方へと歩き出した。
「翔太!」
ミギーが呼び止めるが、翔太は振り返らない。
彼は美玲のそばにしゃがみ込むと、その背中にそっと手を置いた。
「……立てるか」
「……しょ、うた……?」
美玲が涙と土でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。オレンジの瞳は真っ赤に充血していた。
「……私…負けた……また負けた……しかも今の記録10.3秒だよ……? 自己ベストが6.2秒なのに……全然ダメで……」
「見てた」
「……もう、私……走れないかも……」
「走れる」
翔太の声はいつも通り平坦だったが、妙に芯があった。
「今日は負けた。でも、お前はまだ走れる。自己ベスト6.2は、お前がちゃんと練習して出した大会でのタイムだ。それが消えたわけじゃねえ」
「……翔太……」
「それに」
翔太は少しだけ声を低くして、美玲にしか聞こえないように言った。
「俺は、あいつの彼女になる気なんてさらさらねえ。それだったらお前の方がずっといい」
美玲の涙が、ぴたりと止まった。
「え……?」
「……なんでもねえ。ほら、立て」
翔太は照れくさそうに顔を背けて立ち上がると、美玲に手を差し伸べた。耳の先が真っ赤だ。
美玲はその手をじっと見つめてから、そっと握った。翔太の手は大きくて温かくて、土まみれの美玲の手をしっかりと包み込んでくれる。
「……ありがとう」
美玲は涙をぬぐいながら立ち上がった。膝はまだ震えているし、足は鉛のように重い。それでも、翔太の手を握っていると、少しだけ力が湧いてくる気がした。
遠くでミギーが何か言っている。白い尻尾が不機嫌そうに揺れているのが見えた。
でも、今はどうでもいい。
美玲は翔太の手を握ったまま、グラウンドを見渡した。陸上部の仲間たちが、心配そうにこちらを見ている。野次馬の生徒たちも、誰一人帰らずに立ち尽くしていた。
「……私、まだ諦めないから」
美玲は小さく、でも確かにそう呟いた。
空はまだ高く青い。入道雲は少しだけ小さくなって、代わりにうろこ雲が広がり始めている。風はまだ生ぬるいけれど、ほんの少しだけ、秋の気配が混じっていた。




