美鈴の誕生日
8月27日、水曜日。午前9時。
夏休みも残すところあと数日。なのにこの暑さは一向に衰える気配を見せない。空は青く高く、入道雲がもくもくとわきあがり、アスファルトの照り返しは肌をじりじりと焼く。セミの鳴き声が朝から全力で、遠くでは風鈴の音がかすかに揺れている。
そんな中、翔太は誰もいない夏休みの校門をくぐっていた。
「なんで俺がこんなクソ暑い中……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、足は自然とグラウンドへ向かっている。手にはコンビニの袋。中身はよく冷えたスポーツドリンクが二本と、ついでに買ったアイスキャンディーが一つ。奈々穂に「美玲ちゃんの誕生日でしょ、少しはお祝いしてあげなさいよ」と背中を押されて家を出されたのだ。
グラウンドに近づくにつれて、スパイクが土を蹴る規則正しい音が聞こえてくる。トラックの脇に立つと、そこには見慣れたオレンジ色の髪が揺れていた。
「はっ……はっ……!」
美玲は一人でスタートダッシュの練習を繰り返していた。白いランニングシャツに黒のスパッツ。ポニーテールに結んだ髪が、彼女が動くたびにぴょんぴょんと跳ねる。尻尾は空気抵抗を減らすためにピンと伸び、全身からは滝のような汗が流れ落ちていた。
「よし、もう一本……!」
彼女はスターティングブロックに足をかける。深く息を吸い込み、吐き出す。そして、自分の合図で一気に飛び出した。
腕を大きく振り、膝を高く上げ、地面を力強く蹴る。スパイクのピンが土をえぐり、小さな土煙が上がった。ゴールラインを駆け抜けると、彼女は数歩で減速し、両手を膝について荒い呼吸を繰り返す。汗がぽたぽたと地面に落ちて、すぐに乾いていく。
「……あとちょっとなんだけどなあ」
彼女はタイムを確認して、少しだけ悔しそうに呟いた。それでも顔を上げた時には、もう笑顔だった。走ることが本当に楽しいと、全身で語っているような笑顔だ。
翔太はしばらくその姿を眺めていた。誰にも見られていないと思っているからか、彼女は実にのびのびと走っている。失敗しても笑って、うまくいくと尻尾を大きく揺らして喜ぶ。その姿を見ていると、こっちまで少しだけ元気が出るような気がした。
「……おい」
翔太が声をかけると、美玲はぴょんと跳び上がらんばかりに驚いた。
「えっ、翔太!? なんでいるの!?」
「なんでいるのって……別に」
翔太は照れくさそうに目をそらしながら、トラックの脇まで歩いていった。そしてコンビニの袋からスポーツドリンクを取り出し、美玲に差し出す。
「ほら。飲めよ」
美玲はきょとんとした顔でスポーツドリンクと翔太の顔を交互に見つめた。ボトルの表面には冷たい水滴がびっしりとついていて、その冷たさが手に心地よい。
「え、これ……くれるの?」
「そうだけど」
「わざわざ学校まで来て?」
「……今日、誕生日だろ」
その言葉に、美玲は一瞬固まった。それから自分のスマホを取り出して日付を確認し「あっ!」と大きな声をあげる。
「本当だ! 8月27日だ! 私、今日誕生日じゃん!」
「自分の誕生日忘れてたのかよ」
「だって夏休み中だし、練習に夢中で全然気づかなかった!」
美玲はぱあっと顔を輝かせて、スポーツドリンクを両手で受け取った。キャップを開けて、ごくごくと一気に半分ほど飲み干す。汗ばんだ喉が動き、うなじの汗がきらりと光った。
「ぷはー! 生き返る! これ、めっちゃ冷たい! 翔太、ありがとう!」
「別に。母さんに言われただけだ」
「奈々穂さんも私の誕生日知ってたんだ。嬉しいなあ」
美玲は残りのスポーツドリンクも大切そうに飲みながら、尻尾をゆらゆらと揺らした。汗でオレンジの髪が顔に張りついているが、そんなことは気にならないらしい。むしろ、その顔は汗まみれなのに妙にきらきらと輝いて見えた。
「でもさあ」
美玲は飲み終えたボトルを両手で弄びながら、上目遣いで翔太を見た。
「どうせなら、もっと良いものくれてもいいんだよ?」
翔太はぴくりと眉を動かし、それから口元をほんの少しだけ歪めた。笑っているのか、呆れているのか、どちらともつかない表情だ。
「ミギーってやつに勝ったらな」
「ええっ、それハードル高すぎ!」
美玲は大げさに叫んでから、くすくすと笑った。翔太もつられて小さく笑う。風が吹いて、グラウンドの砂がさあっと舞い上がった。
「でも、それってさ」
美玲は笑いを引っ込めて、少しだけ真面目な顔で翔太を見つめた。
「私がミギーに勝てるって、思ってくれてるってことだよね」
翔太は答えなかった。ただ、少しだけ目をそらして、耳の先をほんのり赤くしただけだ。
美玲はそれを見て、満足そうに微笑んだ。
「わかった。じゃあ、絶対ミギーに勝つよ。そしたら翔太、ちゃんとご褒美くれるんだよね?」
「……考えとく」
「ケチ! 絶対だよ絶対!」
美玲はスポーツドリンクのボトルを高く掲げて、太陽に向かって宣言した。
「よーし、もう一本走ってくる! 翔太、見てて!」
「熱中症になるなよ」
「大丈夫! ドラゴンは暑さに強いの!」
そう言って美玲はスタートラインに向かって駆け出していった。尻尾が嬉しそうに揺れている。その後ろ姿を見ながら、翔太はコンビニの袋からアイスキャンディーを取り出してかじった。溶けかけたソーダ味の冷たさが、火照った体に染みわたる。
(勝ったらな)
翔太は心の中で呟いた。その言葉には、意地悪だけじゃない、もう一つの意味が込められていることを、美玲は知らない。
トラックの上で、美玲がスタートの姿勢をとる。真剣なまなざし。引き締まった体。小さな角が太陽の光を反射して、ほんの一瞬だけきらりと輝いた。
夏はまだ終わらない。彼女の挑戦も、まだ始まったばかりだ。




