5.9秒
8月25日、月曜日。午後3時。
夏休みも残り一週間を切った。それなのに暑さは衰えるどころか、むしろ勢いを増している。駅前の電光掲示板は「本日の最高気温36.8度 熱中症警戒アラート発令中」と赤い文字で点滅していた。アスファルトから立ち上る陽炎が景色をゆらゆらと歪め、セミの鳴き声だけがやけに元気だ。
翔太はコンビニの袋を片手に、駅前の小さな公園へと足を向けた。ベンチが一つと、ブランコが二つ、あとは申し訳程度の花壇があるだけの寂しい公園だ。でも木陰だけは立派で、待ち合わせにはちょうどいい。
「翔太、こっちこっち!」
木陰のベンチから美玲が手を振っている。今日は薄いグレーのタンクトップに、ひざ上丈のデニムスカート。尻尾はだらりとベンチの背もたれにかかっていて、手にはすでに食べかけのアイスキャンディーが握られていた。オレンジ色の髪はポニーテールにまとめられ、うなじにはうっすらと汗が浮かんでいる。
「お前、また食ってるのか」
翔太は呆れ顔でベンチに腰を下ろした。コンビニの袋からペットボトルの麦茶を取り出し、美玲に一本差し出す。
「だって暑いんだもん。あ、麦茶ありがとう」
「母さんがお前に渡せって」
「奈々穂さん、相変わらず優しいなあ。今度お礼言わなきゃ」
美玲は嬉しそうに麦茶を受け取り、キャップを開けてごくごくと飲んだ。喉が動くたびに、うなじの汗がきらりと光る。翔太はすぐに目をそらした。
あの県大会から約一ヶ月。あれから二人は何度かこうして会って、他愛もない話をするようになっていた。最初はぎこちなかった空気も、今ではすっかり元通りだ。いや、むしろ前よりも自然に話せるようになったかもしれない。
「そういえばさ」
美玲はアイスキャンディーの棒をくわえたまま、少しだけ声のトーンを落とした。
「あのミギーってやつ、全国大会で優勝したんだって」
翔太は麦茶を飲みながら「ふーん」と相槌を打つ。
「しかもさ、タイムが5.9秒だって」
「……5.9」
翔太は思わず麦茶を吹き出しそうになった。県大会では6.1秒だったはずだ。そこからさらに0.2秒も縮めてきたのか。
「すごいよね。全国の舞台であれだけのタイムを叩き出すなんて。さすが純血の白龍種って感じ」
美玲はベンチの背もたれに体重を預けて、木漏れ日を見上げた。その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
「あれから私も練習してるんだけどさ。なかなかタイムが伸びなくて」
彼女は自分の両手を見つめた。何度も地面を蹴り続けた脚。スターティングブロックを押すたびに力を込めた手。そのどれもが、この一ヶ月の努力の跡を刻んでいるのに、結果はついてこない。
「県大会の時、翔太の声援で6.2秒出せたでしょ。あの時は確かに力が湧いてきて、『これならもっと速くなれる』って思ったんだ。でも、一人で練習してると、あの感覚が再現できなくて」
美玲は自嘲気味に笑った。
「最近の練習タイム、8秒すら切れないんだ。8秒1とか8秒2とか。県大会前より遅くなってる。私、やっぱりあの時だけだったのかな。たまたま調子が良かっただけで」
尻尾が力なく垂れ下がり、ブランコの鎖にだらりと巻きついている。美玲はアイスキャンディーの棒をくわえたまま、膝を抱えた。
翔太はしばらく黙って麦茶を飲んでいたが、ペットボトルをベンチに置いて口を開いた。
「まだ半年以上あるだろ」
「え?」
美玲が顔を上げる。翔太は相変わらず前を向いたままだが、その声には妙な説得力があった。
「来年の県大会まで、まだ八ヶ月くらいある。冬を越えて、春があって、また夏が来る。それだけ時間があれば、2秒くらい縮められるだろ」
「ちょっと待って、2秒って……」
美玲は目を丸くした。
「翔太、2秒ってめちゃくちゃ大きいよ。100メートル走で2秒縮めるなんて、普通は何年もかかるか、下手したら一生かけても無理なレベルだよ」
「普通はな」
翔太はちらりと美玲を見た。黒い瞳が、真っ直ぐに美玲のオレンジの瞳を捉える。
「お前は普通じゃないだろ」
「……え?」
「県大会で純血種ばかりの中、混血で2位になった。ミギーってやつにコンマ一秒差まで迫った。そんなの、普通じゃできねえよ」
翔太は少しだけ声を大きくして言った。
「8秒切れないって言うけど、お前が練習してるのは一人でだろ。俺があの時叫んだら6.2秒出た。ってことは、お前の中にはまだ出せてない力があるってことじゃないのか」
美玲はぽかんと口を開けた。翔太がこんなに長く喋るのは珍しい。しかも、それが全部、自分を励ますための言葉だ。
「来年までまだ半年以上ある。その間に、その力をちゃんと自分のものにすればいい。そしたら2秒だって夢じゃないだろ」
翔太は言い切ると、気恥ずかしくなったのか、麦茶を手に取ってがぶがぶと飲んだ。
美玲はしばらく呆然としていたが、やがてくすくすと笑い始めた。
「なんだよ」
「だって、翔太がそんなに熱く語るの、初めて見たかも」
「うるさい。せっかく励ましてやってるのに」
「ありがとう。すごく嬉しい」
美玲はベンチから立ち上がり、大きく伸びをした。尻尾も一緒にぴんと伸びて、さっきまでの垂れ下がった様子が嘘のように元気を取り戻している。
「2秒かあ。確かにまだ半年以上あるもんね。私、やってみるよ。翔太が言うなら、なんかできそうな気がする」
「俺が言ったからじゃなくて、自分でできると思え」
「ぶー、細かいなあ」
美玲はぷくっと頬を膨らませたが、すぐに笑顔に戻った。
「ねえ、翔太。来年の県大会も、応援に来てくれる?」
「来てやる」
「やった! じゃあ、またあの時みたいに叫んでよ。『頑張れ美玲!』って」
「……考えとく」
「ケチ! 絶対だよ、絶対!」
美玲は翔太の腕をぐいぐいと引っ張った。汗ばんだ肌が触れ合って、翔太はぎょっとした顔で後ずさる。
「わかった、わかったから離れろ! 暑い!」
「あ、今『暑い』って言った! 私の汗の匂いじゃなくて!」
「うるさい!」
公園の木陰で、二人の声がセミの鳴き声に混じって響く。木漏れ日が風に揺れて、美玲のオレンジ色の髪をきらきらと照らしていた。
夏はまだ終わらない。むしろ、今が一番暑い盛りだ。でも、その暑ささえも、今はなんだか悪くないと思える。
美玲は麦茶をもう一口飲んでから、空を見上げた。入道雲が、どこまでも高くそびえている。
「よーし、今日も夕方から練習だ!」
「熱中症になるなよ」
「翔太こそ、バイト頑張ってね!」
「言われなくても」
二人はベンチから立ち上がり、それぞれの帰り道へと歩き出す。公園の出口で、美玲が振り返って手を振った。尻尾も一緒に大きく揺れている。
「またね、翔太!」
翔太は手は振らずに、軽く顎を上げて応えた。
それでも、美玲にはわかっていた。あれは翔太なりの「またな」のサインだ。
アスファルトの照り返しが痛いほどの午後。セミの鳴き声がいつまでも耳に残る。夏休みはあと少しで終わるけれど、彼女の挑戦はまだまだ続いていく。




