真夏のデート
8月15日、金曜日。午前10時。
セミの鳴き声がアスファルトを震わせるほどの暑さだった。空はどこまでも青く、入道雲がもくもくとそびえている。駅前の温度計はすでに34度を指していた。
翔太は駅前の噴水広場で、ポケットに手を突っ込んだまま空を見上げていた。Tシャツにハーフパンツというラフな格好だ。首には奈々穂が無理やり持たせた冷感タオルがかかっている。
「翔太ー!」
遠くから声が飛んだ。オレンジ色の髪が人混みの中で揺れている。美玲だ。白のタンクトップにデニムのショートパンツ。尻尾は元気よく左右に揺れ、麦わら帽子の下でオレンジの瞳が笑っている。手にはコンビニのアイスコーヒーを持っていた。
「待った?」
「いや、今来たとこだ」
翔太はそう言いながら、美玲の姿をちらりと見た。県大会以来、ちゃんと会うのは初めてだ。大会後も何度か家に来ていたが、なんとなく気まずくて、すぐに部屋に引っ込んでしまっていた。
「今日は付き合ってくれてありがとう。なんか、久しぶりだね」
「まあな」
二人は並んで歩き始めた。噴水広場から続く商店街のアーケードは、直射日光を遮ってくれて少しだけ涼しい。シャッターの閉まった店も多いが、開いている店からは冷房の冷気が漏れてきて、通りすがりにほっとする。
アーケードを抜けると、またむわっとした熱気が二人を包んだ。美玲がアイスコーヒーのストローをくわえながら、ちらりと翔太を見上げる。
「翔太、なんか痩せた?」
「夏バテだ」
「ふーん。奈々穂さんのご飯食べてる?」
「食ってるよ」
「ならいいけど」
美玲は少しだけほっとした顔をして、また前を向いた。しばらく無言で歩く。セミの声がうるさいほどに響き、遠くで風鈴がちりんと鳴った。
翔太はしばらく迷っていたが、意を決して口を開いた。
「悪かったな」
「え?」
美玲がきょとんとした顔で翔太を見る。
「なんかあの後、気まずくてお前に会えなかったんだ」
翔太は前を向いたまま、ぼそぼそと言った。
「あの大会の後、なんて声かけたらいいかわからなくて。お前、めちゃくちゃ悔しそうだったし。俺が余計なこと言って傷つけたくなかったっていうか」
美玲はしばらくぽかんとしていたが、すぐにふにゃりと笑った。
「翔太がそんなこと気にしてたなんて、意外」
「うるさい」
「でも、うん。実は私もなんだ」
美玲はアイスコーヒーのカップを両手で包み込むように持ちながら、少しだけうつむいた。
「なんかさ、翔太に会うの、ちょっとだけ怖かったんだよね。翔太が応援してくれたのに、負けちゃったから」
翔太は何も言わずに隣を歩いている。美玲はその沈黙を確認するように、ちらりと横目で翔太を見てから、続けた。
「だって県大会の本戦で2位だともうその上の大会には出られないからね……。本当に狭き門だよ、陸上競技の世界ってさ。私、ずっと練習してきて、あの日に更に自己ベストも更新して、それでも届かなかった」
彼女の声は少しだけ震えていた。それでも、泣いてはいなかった。前を向いて、ちゃんと言葉にしようとしている。
「結局、混血種もあの場には私以外はいなかったしさ。予選は突破できても、本戦で純血種に勝つのは本当に難しくて……」
美玲は自嘲気味に笑った。尻尾が力なく垂れている。普段はあんなに元気よく揺れているのに、今はただ、地面をなぞるようにだらりと下がっていた。
「あの時、ミギーに言われたこと、今でも思い出すんだ。ハーフは弱いって。角が小さいからだって。結果的に負けちゃったから、やっぱりあの子の言う通りなのかなって」
翔太は足を止めた。
美玲もつられて立ち止まり、不思議そうに翔太を見上げる。アスファルトの照り返しが二人の影をくっきりと浮かび上がらせていた。
「違うだろ」
翔太の声は相変わらず平坦だったが、妙に芯があった。
「え?」
「純血種まみれの中で、唯一混血種で2位になったんだ。誇るべきことじゃないか?」
美玲のオレンジの瞳が、大きく見開かれた。
「コンマ一秒差だったんだろ? それって、もうほとんど差なんてないってことだ。お前が弱いんじゃない。お前は、あのミギーってやつとほぼ互角だったんだよ」
翔太は照れくさそうに目をそらした。耳の先がほんのり赤い。それでも言葉は止まらなかった。
「それに角が小さいから弱いって、誰が決めたんだよ。俺から見れば、お前の角は別に小さくても気にならない。むしろ……」
「むしろ?」
「……なんでもない」
翔太はぶっきらぼうに言って、また歩き出そうとした。
しかし、美玲は動かなかった。
「……っ」
気がつくと、美玲の目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「美玲?」
「だって……だって、翔太がそんなこと言うなんて……」
美玲は麦わら帽子を目深にかぶって顔を隠そうとしたが、涙は止まらない。次から次へと溢れて、アスファルトの上にぽたぽたと染みを作っていく。
「ずっと、ずっと思ってたんだ。私、やっぱりハーフだからダメなのかなって。練習しても練習しても、生まれつきの差は埋まらないのかなって。でも、翔太が……翔太がそんな風に言ってくれるなんて……」
彼女は声を詰まらせながら、それでも必死に言葉を紡いだ。
「嬉しい……すごく、嬉しい……」
翔太はどうしていいかわからず、おろおろと周りを見回した。商店街の脇道。幸い、人通りは少ない。通りかかったおばあさんが一瞬だけこちらを見たが、すぐに去っていった。
「おい、泣くなよ。人前で……」
「だって……だって……」
美玲は何度も手の甲で涙を拭ったが、拭っても拭っても新しい涙が溢れてくる。尻尾もぐしゃぐしゃになった彼女の感情を映すように、ゆらゆらと揺れていた。
翔太は小さくため息をついてから、ポケットからハンカチを取り出した。奈々穂が「持っていきなさい」と無理やり突っ込んできたやつだ。まさか本当に使うことになるとは思わなかった。
「ほら、これ使え」
美玲は差し出されたハンカチを受け取り、涙をぬぐった。真っ白なハンカチにオレンジ色の髪の毛が一本ついてしまって、少しだけ申し訳なさそうな顔をする。
「ありがとう……翔太」
「別に、本当のことを言っただけだ」
「うん……でも、翔太が本当のことを言ってくれるの、すごく嬉しい」
美玲はようやく顔を上げた。目はまだ赤くて、鼻も少し赤い。それでも、その顔には心からの笑みが浮かんでいた。まるで、ずっと心の中に溜まっていた重たいものが、少しだけ軽くなったかのような顔だった。
「私、来年もまた挑戦するよ。来年こそ、絶対に優勝してやるんだから」
「おう。頑張れよ」
「翔太も応援に来てくれる?」
「……来てやる」
「やった!」
美玲はぴょんと飛び跳ねた。尻尾が嬉しそうに大きく弧を描く。さっきまであんなに落ち込んでいたのに、もういつもの美玲に戻っていた。
「あ、でも翔太が叫ぶと、なんか力が湧いてくるんだよね。あれ、何なんだろ」
「知らん」
「もしかして翔太の愛の力とか?」
「ば、馬鹿言うな!」
翔太の顔が一気に赤くなる。美玲はそれを見て、くすくすと笑った。
「冗談だよ、冗談。でも本当にありがとう。翔太のおかげで、なんか吹っ切れた」
美玲はハンカチを畳みながら、もう一度翔太を見上げた。その瞳は、涙に濡れてきらきらと輝いている。
「私、翔太に誇れる自分でいたいな」
「……もう十分だろ」
翔太はそう呟いて、今度こそ歩き出した。美玲は慌てて隣に並ぶ。ハンカチを返そうとしたが、翔太は「洗ってから返せ」と言って受け取らなかった。
「ケチ」
「ケチじゃない。当たり前だ」
商店街を抜けて、二人は河川敷の方へと足を向けた。少しでも風が吹けば涼しいからだ。土手にはコスモスがちらほらと咲き始めていて、夏の終わりが近いことを告げている。セミの声に混じって、ツクツクボウシが鳴き始めていた。
河川敷のベンチに腰掛けて、美玲は自動販売機で買ったスポーツドリンクを翔太に渡した。
「翔太、今日は本当にありがとう。なんか、こうやって普通に話せてよかった」
「普通かどうかは知らんがな」
「ぶー。素直じゃないんだから」
美玲はぷくっと頬を膨らませたが、すぐにまた笑顔に戻った。
「ねえ、お昼どうする? せっかくだし、どっか食べに行かない?」
「金ない」
「私が出すよ! 県大会の賞金、ちょっとだけもらったんだ」
「賞金なんてあるのかよ」
「うん。2位でもちょっとだけね。だからさ、翔太に奢る!」
美玲は嬉しそうに立ち上がった。尻尾がぴんと立っている。翔太は「別にいい」と言おうとしたが、美玲のあまりに楽しそうな顔に、結局「わかった」とだけ答えた。
二人は河川敷を後にして、駅前のファミレスへ向かった。美玲は歩きながら、来年の大会の話や、夏休みの宿題の話、翔太のバイトの話などを次々に振ってくる。翔太はそれに適当に相槌を打ちながらも、時折、ほんの少しだけ口元を緩ませていた。
空はまだ青く、蝉は鳴き止まない。8月の太陽は容赦なく照りつけているが、吹き抜ける風は、ほんの少しだけ秋の気配を含んでいた。
ファミレスのドアを開けると、冷房の冷気が二人を包み込んだ。美玲が「やっぱり文明の利器は最高だね!」と笑う。翔太は「大げさだ」と返しながらも、心地よさそうに息をついた。
窓際の席に座り、美玲はメニューを広げながら「何食べたい?」と翔太に尋ねる。その顔は、もうすっかりいつもの美玲だった。泣き腫らした目の赤みだけが、さっきまでの涙の名残をとどめている。
翔太はハンバーグのページを指さしながら、ぽつりと言った。
「お前、やっぱり強いよ」
「え?」
「だから、来年は優勝しろ。俺の声援でまたなんかよく分からんパワーアップするんだろ」
美玲は一瞬きょとんとしてから、破顔した。
「うん! 絶対優勝する!」
その声はファミレスに少し響きすぎて、隣の席のおじさんがびっくりした顔で振り返った。美玲は「あ、すみません」と小さくなってから、翔太に向かって舌を出した。
翔太はそんな美玲を見て、ほんの少しだけ笑った。
窓の外では、セミがまだ鳴いている。夏はまだ終わらない。




