ドラゴン使い
7月30日。夏の陽射しが競技場のトラックを容赦なく照りつけている。アスファルトの照り返しでスタンドもむわっとした熱気に包まれ、観客たちは手に持ったうちわやペットボトルで必死に暑さをしのいでいた。
ピストルの音が、夏空に吸い込まれていった。
美玲の体が爆発的に飛び出す。スタートダッシュは完璧だった。一瞬、ほんの一瞬だけ、彼女の赤いスパイクが全レーンの先頭に立つ。
「行ける!」
美玲の脳裏に希望が走る。風を切る音。跳ね上がる心臓。尻尾が一直線に後ろへ伸び、空気抵抗を最小限に抑えている。
しかし、それは本当に一瞬だった。
「遅いわね」
白い影が美玲の横をするりと抜けていった。
ミギー・クロック。白龍種の純血。彼女の走りはまるで風そのものだった。地面を蹴るというより、空気を蹴って前に進んでいるような軽やかさ。白い尻尾が優雅に弧を描き、短く刈り込まれた白髪が陽光を反射して輝いている。
五十メートルを通過する頃には、二人の差はすでに一メートル以上開いていた。
「はああああっ!」
美玲は歯を食いしばり、腕をさらに大きく振る。膝を高く上げ、地面を力の限り蹴る。スパイクのピンがトラックを抉り、土が小さく弾けた。汗が滝のように流れ落ち、先ほどまで乾いていたはずのユニフォームはすでにぐっしょりだ。髪が頬に張りつき、視界の端でオレンジ色が揺れる。
それでも、差は縮まらない。
むしろ、少しずつ、少しずつ広がっていく。
「ハーフって大変ねえ」
ミギーが、走りながら話しかけてきた。
美玲は驚愕した。全力疾走中だ。普通は息をするだけで精一杯で、言葉なんて発せない。なのにミギーは涼しい顔で、まるで散歩でもしているかのような口調で続ける。
「見てて痛々しいわ。そんなに必死になっても、私には追いつけないのよ。これが現実。純血と混血の差ってやつ」
「……うるさ……い…!」
美玲はなんとか絞り出すように言った。声はかすれ、呼吸は乱れ、全身の筋肉が酸素を求めて悲鳴を上げている。汗が目に入ってしみた。それでも足を止めない。止められない。
「あと二十メートルね。このまま私の勝ち。残念だったわね、雑種のハーフちゃん」
ミギーは余裕の笑みを浮かべて、さらに加速した。
残り十メートル。
美玲の心が、折れかけた。
――だめだ、追いつけない。
――これが、現実なんだ。
――純血には、勝てないんだ。
視界が涙で滲みそうになる。それでも彼女は走るのをやめなかった。遅くても、負けても、最後まで走り抜く。それが自分のプライドだから。
その時だった。
「頑張れ!! 美玲!!」
スタンドから、声が飛んだ。
翔太の声だった。
いつもの面倒くさそうな声じゃない。ぼそぼそと呟くような声でもない。腹の底から絞り出したような、本気の声援だった。声は競技場の熱気を切り裂いて、美玲の耳に、いや、全身に届いた。
次の瞬間。
美玲の体の中で、何かが弾けた。
熱い。熱い何かが背骨を駆け上がり、全身の細胞の一つひとつに火を灯していく。心臓が太鼓のように打ち鳴らされ、筋肉が歓喜の悲鳴を上げる。尻尾が、自分の意思を持ったかのように大きくしなり、背中の小さな角がじんじんと熱を帯びた。
これは、なんだ。
わからない。でも、力が湧いてくる。
「うあああああああっ!」
美玲の叫びとともに、彼女の体が一気に加速した。
残り五メートル。美玲がミギーに並ぶ。
ミギーの余裕の表情が、初めて崩れた。
「な……に!?」
ミギーも慌てて加速する。しかし、さっきまでの圧倒的な差はもうない。二人は肩を並べて、ゴールラインに突っ込んだ。
一瞬の静寂。
そして、電光掲示板にタイムが表示された。
一位 ミギー・クロック 6.1秒
二位 原美玲 6.2秒
コンマ一秒差。ミギーの勝利だった。
美玲はゴールラインを越えたあと、数歩よろめいてから、がくんと膝をついた。肩が大きく上下し、呼吸が荒い。汗が止めどなく流れ落ちて、トラックの上に小さな染みを作っていく。
負けた。
あと少しだったのに。あんなに力が湧いてきたのに。それでも、届かなかった。
涙が、ぽたぽたと地面に落ちた。
悔しい。悔しい。悔しい。
「……ふん」
ミギーは息を整えながら、膝をつく美玲を見下ろした。その顔にはもう嘲笑はない。かわりに、なにか複雑な表情を浮かべている。
「……混血のくせに、やるじゃない」
ミギーはそれだけ言うと、くるりと背を向けた。白い尻尾が、一度だけゆらりと揺れる。
彼女はスタンドの方を見上げた。あの声援の主。あの黒髪の少年が座っているあたりを。
「……あれが、そういうことか」
ミギーは誰にも聞こえないように小さく呟いた。
真のドラゴン使い。伝説の破壊壊竜ガンディラが唯一認めた人間の契約者。その力は、信頼したドラゴンの能力を大幅に引き上げ、その者の成長を大幅に促進させるという。さっきの美玲の急激なパワーアップは、まさにそれだった。
「面白いじゃない。なんで隠してるのか知らないけど……ちょっと興味湧いてきたわ」
ミギーは口元をほんの少しだけ緩めて、選手控えテントへと歩き去っていった。
トラックの上では、美玲がまだ涙を流している。
「美玲!」
翔太がスタンドから飛び降りるようにしてトラックに駆け寄ってきた。後ろから奈々穂と玲香も続く。
「馬鹿、立てるか」
翔太が手を差し伸べる。美玲は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、その手をぎゅっと握った。
「翔太……私、負けた……」
「見てた」
「悔しい……悔しいよ……あとちょっとだったのに……」
「ああ」
翔太はそれだけ言って、美玲の手を引いて立ち上がらせた。
「でも、お前、最後すごかった」
「……え?」
「あの加速、なんだよあれ。一瞬で追いついてた。俺、心臓止まるかと思った」
翔太は照れくさそうに目をそらしながら言った。美玲はきょとんとして、それから、涙で濡れた顔のまま、ふにゃりと笑った。
「翔太のおかげだよ」
「は?」
「翔太が、頑張れって叫んだから……そしたら、なんか、体が熱くなって……力が湧いてきたの」
「……俺のせいかよ」
翔太はますます照れて、美玲から手を離した。でも、その顔はどこか嬉しそうだ。
「美玲ちゃん、よく頑張ったわ」
奈々穂がハンカチを差し出す。玲香も目を潤ませながら娘の肩を抱いた。
「美玲、ママ、誇りに思うわ。あの純血種のミギーさんにコンマ一秒差まで迫るなんて」
「ママ……でも、負けちゃった」
「負けたっていいのよ。あなたは最後まで走りきった。それが一番大事なこと」
玲香の言葉に、美玲はまた少しだけ涙をこぼした。でもそれはさっきまでの悔し涙とは違う、温かい涙だった。
スタンドからは、美玲に向けた温かい拍手が送られている。負けた選手にこれほどの拍手が送られるのは、珍しいことだった。
夏の空は、どこまでも青く高く、入道雲がもくもくとそびえている。蝉の声と、競技場の喧騒が混ざり合い、風が汗ばんだ肌を撫でていった。
美玲は拍手に応えるように、涙を拭いて、スタンドに向かって大きく手を振った。尻尾も、力強く揺れている。
「次は絶対、ミギーに勝つからね!」
彼女の宣言は、夏の空に吸い込まれていった。




