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【破壊龍ガンディラ】

 7月30日、木曜日。


 夏休みが始まって十日あまり。午前八時だというのに、もう陽射しは容赦なくアスファルトを焼きつけている。蝉の鳴き声がそこら中から降り注ぎ、駅のホームに立っているだけで背中にじんわりと汗が滲む。


「あっつ……」


 翔太はTシャツの襟元をぱたぱたと扇ぎながら、電車を待っていた。隣には今日も優雅に日傘を差す奈々穂の姿がある。薄い水色のワンピースに麦わら帽子。青い尻尾はゆったりと揺れ、額の角には朝露のような汗がほんの少し光っている。


「しょうちゃん、ちゃんと水分補給してる? 熱中症になっちゃうわよ」


「してる。さっきお茶飲んだ」


「そう。じゃあこれ、冷やしたタオル。首に当てると気持ちいいわよ」


 奈々穂はバッグから取り出した保冷剤入りのタオルを差し出した。翔太は「別にいらない」と言いかけたが、その冷たさに抗えず受け取る。首に当てると、ひんやりとした感触が肌に広がり、思わず小さく息が漏れた。


「気持ちいいだろ」


「……別に」


「素直じゃないんだから」


 奈々穂がくすくすと笑う。ホームに電車が滑り込んできて、二人は冷房の効いた車内に駆け込んだ。


 今日は県大会の本戦だ。先月の予選を突破した美玲が、いよいよ決勝の舞台に立つ。会場は県内最大の総合競技場。電車に揺られながら、翔太は窓の外に目をやった。入道雲がもくもくとそびえ立ち、どこまでも青い空が広がっている。


「美玲ちゃん、今日はどんな走りを見せてくれるかしら」


「さあな。でも予選より速くなってるだろ」


「あら、しょうちゃんも楽しみにしてるんじゃない」


「別に」


 翔太はそっけなく答えたが、膝の上に置いた手が無意識にトントンとリズムを刻んでいる。奈々穂はそれを見逃さず、青い瞳を細めて微笑んだ。


 競技場の最寄り駅に到着すると、人の波は予選の時とは比べ物にならないほど多かった。色とりどりのユニフォームを着た選手たち、応援のボードを抱えた生徒たち、カメラを構える保護者たち。場内アナウンスの声が遠くから風に乗って聞こえてくる。


「すごい人だな」


「本戦ですものね。さあ、美玲ちゃんの応援に行きましょう」


 奈々穂に手を引かれ、翔太はスタンドへ向かう。途中で見覚えのあるオレンジ色の尻尾が目に入った。


「あ、玲香さん!」


 奈々穂が声をかける。選手控えエリアの入り口近くで、美玲の母・原玲香が手を振っていた。隣にはがっしりとした体格の男性が立っている。美玲の父親だろうか。


「奈々穂さん、翔太くんも、おはようございます」


 玲香はにこやかに挨拶をして、隣の男性を紹介した。


「主人です。今日は仕事を休んで来ました」


「どうも、美玲がいつもお世話になってます」


 翔太は軽く会釈をした。奈々穂と玲香が何やら楽しそうに話し始める。どうやら二人は異世界で一度会ったことがあるらしく、旧交を温めているようだった。


「美玲は?」


 翔太が尋ねると、玲香が控えエリアの方を指さした。


「さっきウォーミングアップに行ったわ。そろそろ召集がかかる頃だから、もうすぐスタートラインに行くと思う」


「そうか」


 翔太はスタンドへ向かおうとしたが、ふと足を止めた。トラックの方から何やら騒がしい声が聞こえてくる。


「……なんか揉めてないか?」


 奈々穂と玲香も顔を見合わせ、声のする方へ足を向けた。


 スタートラインの近く。美玲と、もう一人の選手が向かい合っていた。


 相手は白い髪を短く切り揃えた小柄な少女だった。歳の頃は美玲と同じくらいだろうか。青い瞳に透き通るような白い肌。尻尾は純白で、頭には二本の美しい白い角が生えている。その角は美玲の隠れた小さな角とは違い、堂々と天に向かって伸びていた。体つきは細身だが、よく見ると筋肉がしなやかについていて、まるで獲物を狙う獣のような雰囲気がある。


「……はあ? アンタ、ハーフなの?」


 白い髪の少女が、美玲を指さして言った。声にはあからさまな蔑みが込められている。


 美玲はぐっと唇を噛みしめたが、すぐに顔を上げた。


「そうだけど、何か?」


「何かって……ハーフがよくこの大会に出てこれたわね。予選、よっぽどレベル低かったんだ」


 少女は肩をすくめて嘲笑う。周りにいた他の選手たちがざわつき始めた。


「私はミギー・クロック。白龍種の純血よ。HAー、ハーフと一緒に走るなんて、こっちの世界ってやっぱりレベルが低いのね」


「……純血だからって、速いとは限らないでしょ」


 美玲が言い返すが、声には自信がない。ミギーはますます口元を歪めた。


「ハーフは人間の血が混じってるから弱いのよ。走りが遅いだけじゃないわ。角も、ほら」


 ミギーは美玲の頭に手を伸ばし、髪の中に隠れた二ミリほどの小さな角を指でつついた。


「なにこれ、角? ちっさ! 全然見えなかったわ。そんなのでドラゴン気取り? 笑わせないで」


 美玲の顔がさっと青ざめる。尻尾が力なく垂れ下がった。周りの選手たちも気まずそうに目をそらしている。


「角が小さいってことは、それだけ弱いってことよ。同族ならみんな知ってる常識でしょ? HAー、この大会、本物のドラゴンは私だけみたいね」


 ミギーは勝ち誇ったように笑った。白い尻尾がゆうゆうと揺れている。


 その時だった。


「……うるさいわね」


 静かな声が、スタートラインに響いた。


 全員の視線が、声の主に集まる。


 奈々穂だった。


 彼女はゆっくりと美玲の前に歩み出ると、ミギーを真っ直ぐに見下ろした。青い髪が風もないのにふわりと揺れ、青い瞳の奥で何かがギラリと光る。背筋を伸ばし、頭の黒く立派な角が太陽の光を反射して鈍く輝いた。


「な、何よアンタ……」


 ミギーが一歩後ずさる。


 奈々穂はただ立っているだけだった。表情も普段と変わらない穏やかな微笑みだ。なのに、そこにいるだけで周囲の空気が変わっていく。気温が数度下がったかのような錯覚。背筋を這い上がってくる得体の知れない圧力。それは純血の白龍であるミギーにさえ、本能的な恐怖を呼び起こす何かだった。


「あなた、確か白龍種のミギー・クロックさんね。お上手な走りをされるそうじゃない」


「な、なんで私の名前を……」


「異世界のドラゴン同士、情報は入ってくるものよ。あなたのお父様、クロック家の当主は確か先代の破壊龍に頭を下げてどうにか領地を守ったとか」


 奈々穂の声はあくまでも優しかった。しかし、その言葉に込められた重みに、ミギーの顔からみるみる血の気が引いていく。


「う、嘘……そんな昔の話をただのドラゴンが知ってるわけ....! あ、アンタまさか……本物の...破壊龍……ガンディラ……」


「あら、もうその名で私を呼ぶ者はほとんどいないのだけれど。懐かしいわね」


 奈々穂は困ったように微笑んで、人差し指を自分の唇に当てた。


「公には内緒にしてくれると嬉しいわ。今の私はただのドラゴンメイドで、しょうちゃんのママだから」


 その瞬間、ミギーは弾かれたように飛び退いた。白い尻尾が文字通り股の間に巻き込まれ、全身が小刻みに震えている。


「ご、ごめんなさい! し、失礼します!」


 ミギーは脱兎のごとくその場を走り去っていった。あまりの逃げ足の速さに、周りの選手たちが呆気にとられている。


「奈々穂さん……」


 美玲がぽかんとした顔で奈々穂を見上げる。奈々穂はいつもの優しい微笑みに戻って、美玲の肩にそっと手を置いた。


「美玲ちゃん、大丈夫?」


「は、はい……でも、今のって」


「気にしないで。それより、もうすぐ本番でしょう? 翔太も応援に来てるわよ」


 奈々穂がスタンドの方を指さす。そこには、心配そうな顔でこちらを見つめる翔太の姿があった。隣には玲香と父親もいる。


 美玲は翔太の姿を認めると、一瞬息を呑んでから、ぎゅっと唇を噛みしめた。さっきミギーに言われた言葉が頭の中でぐるぐる回る。


『ハーフは人間の血が混じってるから弱い』


『角が小さいってことは、それだけ弱いってこと』


 悔しかった。言い返せなかった。だってミギーの言うことは間違っていないから。純血種にハーフが勝てるなんて、過去にほとんど例がない。現実的に、身体能力の差は歴然としているのだ。


 でも。


「……負けない」


 美玲は自分の両頬をパンッと勢いよく叩いた。周りの選手たちがびっくりして振り返る。


「負けない! 絶対負けない!」


 彼女はもう一度、強く自分の頬を叩いた。じんじんと痛みが広がる。でも、その痛みが気持ちを引き締めてくれる。


「美玲ちゃん……」


 奈々穂がそっと見守る中、美玲は顔を上げた。


 その顔は、もうさっきまでの青ざめた表情ではなかった。オレンジの瞳は闘志に燃え、口元は自信に満ちた笑みを浮かべている。尻尾も再び元気よく持ち上がり、力強く揺れ始めた。


「よしっ!」


 美玲はスタートラインに向かって歩き出す。その足取りには迷いがない。


「美玲!」


 スタンドから声が飛んだ。翔太だ。


「……頑張れよ」


 たったそれだけ。でも、翔太が人前でそんなことを言うのは初めてだった。


 美玲は振り返らずに、大きく手を振って応えた。


「当たり前でしょ! 見ててね翔太!」


 スタートラインに立つ。隣のレーンには、先ほど逃げ出したミギーが戻ってきていた。まだ少し青ざめた顔をしているが、それでも目つきは鋭い。美玲を見て小さく舌打ちをする。


「……さっきは驚いたけど、走りで負けるわけにはいかないわ。白龍種の誇りにかけてね」


「いいよ、かかってきなよ」


 美玲は真っ直ぐ前を見据えて言った。


「私はハーフだし角だって小さい。でも、それで弱いなんて決めつけられたくない。私が積み重ねてきたもの、全部このレースにぶつけるから」


 ミギーは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにフンと鼻を鳴らした。


「言うじゃない。でも現実は変わらないわ。純血と混血の差を、その身に刻んであげる」


 二人は同時にスターティングブロックに足をかけた。尻尾がピンと伸び、全身がバネのようにしなる。


 夏の陽射しがトラックを白く照らしつける。スタンドからは大歓声。その中に、翔太の声も、奈々穂の声も、玲香の声も混じっている。


 ピストルが、高らかに鳴り響いた。

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