休みの火の美鈴
7月の下旬、夏休みに入ってすぐの土曜日。
蝉の鳴き声が窓の外でけたたましく響いている。エアコンの効いたリビングで、美玲はソファにだらりと寝転がりながら、スマホで翔太とのメッセージのやり取りを眺めていた。昨夜の「明日何してる?」という自分の問いかけに、翔太からの返信は「バイト」の一言だけ。既読をつけたきり、それ以上メッセージを送る気にもなれず、画面を閉じる。
「はあ……翔太のやつ、夏休みになってもバイトばっかり」
「美玲、朝ごはん食べたの?」
キッチンから声がかかる。母の玲香が麦茶の入ったピッチャーを手にリビングへ入ってきた。玲香は美玲と同じオレンジ色の髪と瞳を持ち、その頭部には純血のドラゴンらしい立派な角が二本、優雅な曲線を描いて生えている。尻尾もまた美玲のものより一回り大きく、炎のようなオレンジ一色だ。夏場は体温調節が大変らしく、今日は薄手のリネンのワンピースをさらりと着こなしている。
「食べたー。トーストとヨーグルト」
「そう。じゃあ、そろそろ洗濯物取り込んでくれる?」
「はーい」
美玲はソファから起き上がり、ベランダへ続く窓を開けた。瞬間、むわっとした熱気が室内に流れ込んでくる。思わず顔をしかめながら、干してあった洗濯物を手早く取り込んだ。Tシャツやタオルが太陽の熱を吸収して、触るとほかほかと温かい。
「今日も暑くなりそうだねえ」
玲香が麦茶をグラスに注ぎながら言う。美玲は取り込んだ洗濯物をテーブルに置き、玲香の向かいに座った。グラスに口をつけながら、そういえば、と切り出す。
「あ、ママ。言ってなかったけどさ、私、県大会の予選通過したよ」
玲香がグラスを置く手を止めた。
「あら、本当? いつ?」
「先週の日曜。百メートル、八秒二で通過」
「八秒二……」
玲香はオレンジの瞳をわずかに見開き、それからゆっくりと微笑んだ。
「すごいじゃない、美玲。自己ベスト更新したんじゃない?」
「うん! 今までのベストが八秒三だったから、コンマ一秒縮めた! 本戦は来月の頭にあるんだ」
美玲は麦茶を一気に飲み干し、空になったグラスをテーブルに置いた。尻尾が誇らしげに左右に揺れている。玲香はそんな娘の様子を優しい目で見つめながら、自分の麦茶を一口含んだ。
「高校生の女子百メートルは、トップクラスになると六秒台の子もいるんでしょう?」
玲香の言葉に、美玲の尻尾が一瞬止まった。
「……うん。去年の全国大会チャンピオンは六秒八だった。今年もそれくらいのタイムの子がいるって噂」
「美玲も、六秒台目指してるの?」
「もちろん! っていうか、目指さないと本戦で勝てないし。でもまだまだだなあ……」
美玲は少しだけ声のトーンを落とした。純血のドラゴンであれば身体能力は段違いだ。母親の玲香だって、若い頃は六秒台で走っていたと聞いたことがある。でも自分はハーフだ。人間の血が混ざっている分、どうしても純血には及ばない部分がある。
「美玲」
玲香が静かに呼びかける。美玲が顔を上げると、母は穏やかな表情のまま、そっと自分の角に手をやった。
「ママはね、美玲がハーフだからって、純血に劣るなんて思ったことは一度もないわ」
「ママ……」
「それにね、タイムだけが全てじゃない。美玲は誰よりも楽しそうに走るでしょう? ママはその姿が大好きよ」
玲香はにっこりと笑った。美玲は少し照れくさくなって、グラスの中の氷を指でつつく。
「……ありがと。でもさ、やっぱり私、本戦で結果出したいんだ。今までに応援してくれた翔太や奈々穂さんにも、いいところ見せたいし」
「翔太くん、先週の予選も見に来てくれたんだっけ?」
「うん! 奈々穂さんと一緒に来てくれてさ、しかも差し入れのお弁当まで持ってきてくれたんだよ! 奈々穂さんの唐揚げ、めっちゃ美味しくてさあ……」
美玲の尻尾が再び勢いよく揺れ始める。玲香はそれを微笑ましく眺めながら、ふと思い出したように口を開いた。
「……奈々穂さんかあ」
「え、何? ママ、奈々穂さんと何かあったの?」
「別に、何かあったわけじゃないけど……」
玲香は少しだけ言い淀んでから、グラスの中の麦茶を見つめた。
「ママがまだ若かった頃、異世界で奈々穂さんと一度だけ会ったことがあるのよ」
「えっ、そうなの!? 知らなかった!」
美玲が身を乗り出す。玲香は懐かしそうに目を細めた。
「彼女、当時はね、ちょっと……その、有名で」
「有名? ドラゴンメイドとして?」
「……ううん。全く別の意味で」
玲香はそれ以上深くは語らず、ただ苦笑いを浮かべた。美玲は首をかしげたが、母が話したくなさそうな空気を感じ取って、それ以上は追及しなかった。
「まあ、奈々穂さんすごく素敵だし過去に何があったとしても良いけどね。
「そうね。翔太くんに出会って、彼女も変わったんだと思うわ」
玲香はそう言って立ち上がり、空になったピッチャーを手に取った。
「美玲、本戦まであと少しね。体調管理はしっかりするのよ」
「うん! ママも応援に来てくれる?」
「もちろん。パパにも連絡しておくわね」
「やった!」
美玲はソファから飛び上がり、玲香に抱きついた。玲香は少し驚いた顔をしたあと、そっと娘の背中を撫でる。
「でも美玲、一つだけ気をつけてほしいことがあるの」
「何?」
玲香は少しだけ真剣な顔になって、美玲の頭にそっと手を置いた。髪の中に隠れた、二ミリほどの小さな角に指が触れる。美玲はぴくりと体を震わせた。
「本戦には、純血のドラゴンの子もたくさん出てくるわ。中には、ハーフのことをよく思わない子もいるかもしれない」
「……うん、わかってる」
「でもね、美玲。角の大きさや血の濃さで、全ての強さが決まるわけじゃない。あなたの強さは、あなたが積み重ねてきた努力の中にあるのよ」
玲香は静かにそう言って、美玲の角から手を離した。美玲は下を向いたまま、ぎゅっと唇を噛みしめる。
「……ママ、私の角、小さいでしょ。ドラゴンにとって、角が小さいって、弱いってことなんだよ。同族の子に会うたびに、いつも思うんだ。私、半端者なんだなって」
声が少し震えていた。玲香は何も言わず、ただ美玲の肩をそっと抱いた。母の腕の中はひんやりとしていて、エアコンの冷気よりもずっと心地よい。
「美玲の角、ママは好きよ。小さいけど、ちゃんと美玲らしくて、可愛いわ」
「……ママ、それ慰めになってない」
「あら、そう?」
玲香がくすくすと笑う。美玲もつられて笑い、涙が少しだけこぼれた。
「本戦、絶対に勝つからね。私の走りで、ハーフでも強いって証明してやるんだから」
「ええ、楽しみにしてるわ」
玲香は優しく微笑み、キッチンへと向かっていった。新しい麦茶を作る背中を見ながら、美玲はぎゅっと拳を握る。
窓の外では、蝉が相変わらずけたたましく鳴いている。夏はまだ始まったばかりだ。本戦まであと二週間。それまでに、もっと速くなる。絶対に。
美玲はスマホを手に取り、翔太にメッセージを送った。
『本戦、絶対に見に来てよね! 約束だから!』
数分後、返信が来る。
『わかってる』
少ない文字数文字。でも美玲はその文字数だけで、十分だった。尻尾がゆっくりと揺れ、口元が自然とほころぶ。
「よーし、午後から練習行くか!」
美玲は勢いよく立ち上がり、ユニフォームに着替えるために階段を駆け上がっていった。リビングに残された玲香は、娘の後ろ姿を見送りながら、そっと微笑む。
「本当に、あの子は走るのが大好きなのねえ」
ピッチャーに新しい麦茶を注ぎながら、玲香は遠い日の記憶を少しだけ思い出していた。異世界で出会った青い髪の凶悪なドラゴン。あの頃の彼女は、今とはまるで違う目をしていた。
「奈々穂さん……あなたも、幸せになれたのね」
玲香の尻尾が、ゆっくりと弧を描く。窓の外では、夏の陽射しがアスファルトを照りつけ、陽炎がゆらゆらと立ち上っていた。




