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18/50

県の予選大会

 

 夏の日差しがアスファルトをじりじりと焼きつける七月の日曜日。


「早く早く! 電車来ちゃうわよ!」


 駅のホームへ続く階段を、奈々穂は軽やかに駆け上がっていく。今日は薄手のワンピース姿で、手には大きな風呂敷包みを抱えていた。中身は朝早くから作った特製の弁当だ。


「なんで俺が……」


 翔太はTシャツにジーンズという気の抜けた格好で、ため息混ぜにその後を追う。駅の改札を抜け、すでに到着していた快速電車に滑り込むように乗り込んだ。車内は冷房が効いていて、翔太はほっと息をつく。


「だって美玲ちゃん、今日県大会でしょう? 応援に行かないわけにはいかないじゃない」


「所詮は予選なんだし母さんだけでいいだろ。俺は別に」


「何言ってるの。美玲ちゃん、翔太が来たら絶対喜ぶわよ。それにこのお弁当、翔太に持たせようと思ってたの」


 奈々穂はにっこりと微笑んで、風呂敷包みを翔太の膝に置いた。中からはほんのりといい匂いが漂ってくる。唐揚げに卵焼き、美玲の大好物ばかりが詰められているのだろう。


「……わかったよ。ここまで来たら行く」


 翔太は観念して窓の外に目をやった。流れる景色はビル群から住宅街へと変わり、やがて田園風景が広がり始める。県大会の会場は隣の市にある大きな総合競技場だ。電車に揺られること三十分、翔太は奈々穂に連れられるようにして会場の最寄り駅で降りた。


 駅前にはすでに多くの人が行き交い、ユニフォーム姿の選手や応援団の姿もちらほら見える。競技場までの道のりには「県高等学校総合体育大会 陸上競技」と書かれた横断幕が風に揺れていた。


「美玲ちゃん、短距離の予選は十一時半からって言ってたわね」


「もうすぐか」


「ちょうどいい時間に着いたわ。急ぎましょう」


 奈々穂に手を引かれてスタンドへ向かう。階段を上がりきると、一面に広がる真っ青な夏空と、赤茶色のトラックが目に飛び込んできた。スタンドはすでに多くの観客で埋まっている。吹き抜ける風は少しだけ熱を帯びていて、夏の大会独特の空気が会場を包んでいた。


 翔太たちが席を見つけて腰を下ろすと、場内アナウンスが響いた。


『女子亜人種の部、百メートル走予選、第一組の選手がスタートラインに並びます』


「あ、美玲ちゃん!」


 奈々穂が声を上げる。翔太もトラックの方に目を凝らした。


 スタートラインに立つ美玲の姿は、いつもとまるで違っていた。


 学校で見る彼女はいつも笑顔で、にぱにぱと無邪気に笑い、翔太の弁当をつまんでは「美味しい!」とはしゃいでいる。授業中に居眠りをして翔太に背中をつつかれ、休み時間には机に突っ伏して寝ている。そんな姿ばかりを見てきた。


 しかし、今スタートラインに立つ彼女は、まるで別人だった。


 目つきが違う。口元は固く結ばれ、オレンジ色の瞳はゴールだけを真っ直ぐに見据えている。スターティングブロックに両足をかけた姿勢は無駄がなく、全身が研ぎ澄まされた武器のように見えた。汗ばんだ肌にユニフォームがぴたりと張りつき、鍛え上げられたしなやかな筋肉の線が浮かび上がっている。尻尾はピンとまっすぐ後ろに伸び、わずかも揺れていない。


「……あいつ、こんな顔するんだな」


 翔太は思わず呟いていた。


 ピストルの音が会場に響く。


 美玲の体が爆発的に飛び出した。腕を大きく振り、膝を高く上げ、地面を力強く蹴る。その動きはあまりにも洗練されていて、翔太は一瞬言葉を失った。彼女の走りを見るのは初めてではない。学校のグラウンドで練習している姿を何度も見かけたことはある。でも、こんなに真剣な彼女の走りは見たことがなかった。


 風を切って走る彼女の肢体が、夏の陽射しの中で躍動する。筋肉の一つひとつが意思を持っているかのように動き、地を蹴るたびに前に前に進んでいく。汗が宙に飛び散り、日の光を受けてキラキラと輝いた。オレンジ色の髪が後ろに流れ、その表情は苦しさよりもむしろ、走ることへの純粋な喜びに満ちているように見えた。


「美玲ちゃん、速い……!」


 奈々穂が感嘆の声を漏らす。


 翔太は何も言えず、ただ食い入るようにその姿を見つめていた。


 ゴールラインを美玲が一番で駆け抜けた瞬間、スタンドから大きな歓声が上がる。美玲はそのまま数十メートル走り抜けてから減速し、両膝に手をついて大きく息を吐いた。肩が上下に動き、尻尾もようやく力が抜けたように垂れる。


 場内アナウンスが予選通過のタイムを告げる。八秒台前半。高校女子ドラゴン娘としては驚異的なタイムだ。


「しょうちゃん、美玲ちゃんのところに行きましょう。お弁当渡してあげて」


 奈々穂に促されて翔太は立ち上がった。


 選手控えエリアの入り口で美玲を見つけた時、彼女はちょうど水分補給をしているところだった。ユニフォームは汗でぐっしょりと濡れ、首にかけたタオルもすでに湿っている。顔はまだ火照っていて、髪が額に張りついていた。


「美玲」


 翔太が声をかけると、美玲はぱっと顔を上げた。その瞬間、さっきまでの真剣な表情が嘘のように崩れ、いつもの笑顔が戻ってくる。


「翔太!? なんでいるの!? 奈々穂さんも!」


「応援に来たのよ。素晴らしい走りだったわ、美玲ちゃん」


 奈々穂がにこやかに言うと、美玲は照れたように頭をかいた。


「えへへ、ありがとうございます。でもまだ予選だし来てくれないと思ってました」


「これ、差し入れ。母さんが作った」


 翔太は風呂敷包みを差し出した。美玲は驚いたように目を丸くして、それからぱあっと顔を輝かせる。


「えっ、奈々穂さんのお弁当!? やったー! お腹ぺこぺこだったんだ!」


 美玲は嬉しそうに包みを受け取り、早速中を覗き込む。唐揚げと卵焼き、それに夏野菜のお浸しが色鮮やかに詰められている。彼女の尻尾が左右に大きく揺れた。


「ありがとう翔太! 奈々穂さんも! これで今度の本戦も頑張れる!」


 美玲が近づいて礼を言う。その時、翔太の鼻にふわりと汗の匂いが届いた。いつもなら「汗臭い」と顔をしかめるところだ。学校で部活終わりの美玲が近づいてくるたびに、翔太は「臭いから離れろ」と言っていた。


 でも、今は違った。


 この汗は、何ヶ月も前から練習を積み重ねてきた証だ。早朝のグラウンドで、放課後の誰もいないトラックで、彼女が一人で走り込んできた時間の結晶だ。比較的に小柄で陸上には不向きな身体だとは思うがそれでも前に進み続けた彼女の努力が、この汗一滴一滴に詰まっている。


 そう思うと、不思議と不快ではなかった。むしろ、これは彼女の頑張りの香りなのだと感じた。


「翔太? どうしたの?」


 美玲が首をかしげる。翔太ははっとして目をそらした。


「……別に。決勝も頑張れよ」


「うん! 絶対に勝つから見ててね!」


 美玲は満面の笑みでそう言うと、弁当を抱えて控えテントの方へ駆けていった。尻尾が嬉しそうに揺れている。翔太はその背中を見送りながら、無意識に自分の鼻のあたりを指で触れた。


「しょうちゃん? 顔が赤いわよ。日射病かしら?」


 奈々穂が心配そうに覗き込んでくる。翔太はぐいっと顔を背けた。


「……暑いだけだ」


「そう? じゃあ日陰で休みましょう」


 奈々穂はくすくすと笑いながら、翔太の背中をそっと押した。スタンドに戻る道すがら、翔太はもう一度だけ選手控えエリアを振り返る。美玲はチームメイトと弁当を広げながら楽しそうに笑っていた。さっきまであんなに真剣な顔で走っていたのに、今はいつもの彼女だ。


 でも、さっき見た走りは、確かに翔太の目に焼きついていた。綺麗だと思った。かっこいいとも思った。あんな顔をするやつだったんだと、初めて知った。


 そしてもう一つ、初めて気づいたことがある。


 夏の風が吹き抜け、翔太のTシャツの裾をそっと揺らした。空はどこまでも青く、入道雲が遠くにそびえている。蝉の声が競技場の喧騒に混じって、夏の盛りを告げていた。

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