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気持ちの良い日差し

 初夏の日差しが、グラウンドの土を白く乾かし始めている。午後四時を過ぎても気温はまだ高く、校舎の壁に設置された温度計は二十七度を指していた。風はあるが生ぬるく、吹くたびにグラウンドの砂埃を軽く巻き上げる。


 桜満高校のグラウンドには、陸上部の掛け声が響いていた。夏の県大会予選まであと一ヶ月。部員たちの練習にも、いつも以上に熱がこもっている。


「美玲、もう一本いけるか?」


 顧問の声に、美玲はスターティングブロックから顔を上げた。額にはすでに大粒の汗が浮かび、オレンジ色の髪が頬に張りついている。呼吸はまだ整っていないが、瞳だけは闘志に輝いていた。


「いけます! あと三本走らせてください!」


「よし、じゃあ五分休んでからな。水分ちゃんと取れよ」


「はい!」


 美玲はトラックの脇に置いた水筒を手に取り、勢いよく水を飲んだ。冷たい水が喉を通過していく感覚が、火照った体に染み渡る。飲みきれなかった水が口元からこぼれ、顎を伝ってユニフォームの襟元に吸い込まれていった。


「はー……生き返る……」


 彼女は水筒を置くと、両手を腰に当てて空を見上げる。初夏の空はまだ梅雨入り前の澄んだ青さで、積乱雲が遠くにぽっかりと浮かんでいる。尻尾が元気よく左右に揺れ、それだけで彼女の気分の高揚が伝わってきた。


「美玲、今日やけに気合入ってるじゃん」


 同じ短距離のチームメイトが声をかけてくる。美玲はにかっと笑って答えた。


「タイム伸びてるんだ! この前の計測で自己ベスト出てさ、今日はさらに更新したいんだよね」


「え、マジで? あんたもう十分エース級のタイムなのに」


「まだまだ! 私、今年こそ県大会行くんだから!」


 美玲はそう言って再びスタート地点に向かう。スパイクのピンが土を噛む感触を確かめながら、スターティングブロックに両足をかけた。腰を落とし、指先を地面につける。尻尾が自然とバランスを取るように伸び、全身が一つのバネのようになった。


「位置について」


 顧問の声が静かに響く。美玲は深く息を吸い込み、心臓の鼓動に意識を集中させる。


「よーい」


 世界が一瞬、静かになった。


 ピストルの音。


 美玲の体が爆発的に飛び出す。腕を大きく振り、膝を高く上げ、地面を力強く蹴る。風を切る音が耳の横を駆け抜け、視界の端でトラックの白線が後ろへ流れていく。汗が宙に飛び散り、夕日に照らされて一瞬だけ光った。


 五十メートル、七十メートル。加速は止まらない。尻尾が空気抵抗を抑えるようにまっすぐ後ろに伸びている。ゴールラインを駆け抜ける瞬間、美玲は自分のタイムが縮まったことを確信した。


「何秒!?」


 息を切らしながら顧問のもとへ走る。ストップウォッチを見た顧問が、驚いたように眉を上げた。


「8秒5、また自己ベストだぞ」


「やったー!」


 美玲はすでにスタート地点に戻っている。その姿に、顧問も思わず苦笑いだ。


「たく、お前はほんとに走るのが好きだな」


「大好きです!」


 美玲は満面の笑みでそう答えると、再びスターティングブロックに足をかけた。ユニフォームはすでに汗でぐっしょりと濡れ、肌に張りついている。髪からも汗が滴り落ち、地面に小さな染みを作っていた。


 それでも彼女は走るのをやめない。走れば走るほど体が軽くなっていくような、そんな感覚に包まれていた。風になる感覚。地面を蹴るたびに、自分がどこまでも行けるような気がする。


 ピストルが鳴り、美玲は再び駆け出した。


 何本目かの全力疾走を終えた美玲は、さすがに息が上がってトラックの端に手をついた。肩が大きく上下し、尻尾も力なく垂れている。それでも顔を上げた時の表情は、やっぱり笑顔だった。


「はあ、はあ……やばい、足パンパン……でも、気持ちいい……」


 彼女はその場にぺたんと座り込み、両足を投げ出した。スパイクを脱ぐと、靴下まで汗でびっしょりだ。素足を風にさらすと、初夏の生ぬるい風が少しだけ涼しく感じられた。


「美玲、お疲れ。タオル」


「ありがとー」


 チームメイトからタオルを受け取り、顔と首の汗を拭く。白いタオルがみるみる湿っていく。水筒の残りの水を一気に飲み干し、彼女は大きく息をついた。


 空は少しずつオレンジ色に染まり始めている。カラスが鳴きながら校舎の方へ飛んでいくのが見えた。グラウンドでは他の部員たちが後片付けを始めている。


 美玲は立ち上がり、軽くストレッチをしながら校門の方を見た。ちょうど翔太が一人で帰っていく後ろ姿が目に入る。バイトがない日は、ああやってさっさと帰ってしまうのだ。


「翔太ー!」


 美玲は大きく手を振りながら叫んだ。翔太が面倒くさそうに振り返る。


「今日、タイムまた縮んだ! 8秒3!」


 彼女は嬉しそうに報告する。翔太は一瞬だけ足を止めて、ぼそりと言った。


「すごいな」


 それだけ言って、また歩き出す。美玲はその短い言葉だけで十分だった。だって翔太が「すごい」なんて言うのは、本当に珍しいことなのだ。


「ありがとー! また明日!」


 美玲は満足そうに笑い、部室へと駆けていった。シャワーを浴びて、着替えて、今日のタイムをノートに記録する。8秒3。前回よりコンマ二秒縮まった。この調子なら、夏の大会で絶対にいい結果を残せる。


 部室を出る頃には、空はすっかり茜色から紫色に変わっていた。初夏の夜風が、火照った体に心地よい。美玲は校門を出ながらスマホを取り出し、翔太にメッセージを送った。


『今日の夕飯なに?』


 数分後、返信が来る。


『カレー。母さんが作った』


『いいな! 私もカレー食べたい!』


『自分で作れ』


『ケチ! じゃあ今度奈々穂さんのカレー食べに行くから!』


 既読はついたが返信はない。美玲はそれでも笑いながらスマホをポケットにしまった。翔太がちゃんと返事をくれるだけで、今日はいい一日だったと思える。


 家までの道を歩きながら、美玲は夏の大会のことを考える。今年こそ県大会に行く。そしてできれば、翔太はに応援に来てほしい。


「絶対、見に来させてやるんだから」


 彼女は誰に言うともなくそう呟き、初夏の夜空に向かって大きく伸びをした。

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