初夏の 原 美玲
朝の光がカーテンの隙間から差し込む。美玲はベッドの中で目を覚ますと、まず尻尾を大きく伸ばした。オレンジ色の髪が枕の上で乱れ、頬にはシーツの跡がうっすらと残っている。
「んー……そろそろ夏なのにまだ朝寒い……」
そう呟きながら布団を蹴って起き上がる。クローゼットから制服を出し、手早く着替えた。鏡の前で髪を軽くとかし、尻尾の毛並みを整える。陸上部の朝練がある日はジャージで行くが今日はオフだった。
リビングに下りると、母がトーストとスクランブルエッグを用意してくれている。
「あんた、昨日遅くまでスマホいじってたでしょ。寝坊しないでよかったわね」
「だって翔太に既読スルーされたのがむかついて、スタンプ連打してた」
美玲はトーストをかじりながらむっとした顔をする。母は呆れたように笑った。
「また翔太くん? あんた本当に翔太くんのこと好きねえ」
「べ、別に好きとかじゃなくて! 幼馴染として腹が立つだけ!」
美玲は顔を赤くして言い返し、スクランブルエッグを勢いよく口に放り込んだ。母は「はいはい」と笑っている。
家を出ると春の風が柔らかく吹いていた。道端の桜はすでに葉桜になり始めている。通学路には同じ制服の生徒たちがぽつぽつと歩いていた。
美玲はスキップしそうになるのを堪えながら歩く。今日は翔太にちゃんとおはようって言おう。昨日あんなに楽しかったんだから、今日は少しは機嫌いいはず。
校門の近くで、前を歩く翔太の後ろ姿を見つけた。黒い髪に少し猫っ毛が混じっていて、背は高くもなく低くもなく。美玲は走り寄って、その背中に声をかけた。
「翔太! おはよう!」
翔太は一瞬こちらを振り返ったが、すぐに前を向いて歩き出した。
「……おい、無視すんなよ! おはようって言ってるだろ!」
美玲は翔太の隣に並んで顔を覗き込む。翔太は面倒くさそうにため息をつく。
「おはよう」
「遅い! もっと普通に朝から挨拶しようよ!」
「普通にしただろ」
「したけど! 一回無視した!」
「気のせいだ」
「気のせいじゃない! もう知らない!」
美玲はぷいっと横を向いて、大股で翔太より先に歩き出す。でも本当は翔太が追いかけてくるかもと、耳と尻尾は後ろを向いたままだった。
結局翔太は追いかけてこなかった。
教室に着いても、美玲は翔太の後ろの席にどっかり座ると、挨拶のことをまだ引きずって頬を膨らませていた。翔太は知らん顔で教科書を出している。
一限目の数学。美玲は最初こそノートを開いたものの、十分も経たないうちに睡魔に負けて机に突っ伏した。朝練がなかったから体は元気なはずなのに、昨夜翔太にスタンプを連打していたせいで寝不足だったのだ。
「……んー……翔太のバカ……」
寝言か何か、小さく呟いてしまう。翔太が背中を向けたまま肩を震わせているのが、夢の中の美玲にはわからなかった。
放課後になると、美玲は陸上部のユニフォームに着替えて校庭へ飛び出した。今日は短距離のタイム測定。スパイクを履き、スターティングブロックに足をかけると、さっきまでの眠気が嘘のように体が軽くなる。
「位置について、よーい」
ピストルの音が響く。美玲は地面を力強く蹴って飛び出した。風を切って走る感覚が好きだ。オレンジの髪と尻尾が後ろに流れる。ゴールラインを駆け抜けると、部員たちから歓声が上がった。
「お疲れ、美玲。今日も好調だね」
「うん! 走るとやっぱり気持ちいい!」
美玲は息を弾ませながら笑う。翔太に無視されたむしゃくしゃも、走れば全部吹き飛んでしまう。
部活を終えて、美玲は制服に着替えずジャージのまま学校を出た。目的地は決まっている。翔太のバイト先のコンビニだ。
自動ドアが開くと、レジに立つ翔太の姿が見えた。今日も青いエプロン姿で、無表情で商品をスキャンしている。
「翔太! また来たよ!」
美玲が手を振りながら近づくと、翔太はちらりとこちらを見て、すぐに視線をレジに戻した。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませじゃない! 私だよ美玲だよ!」
「知ってる。で何買うんだよ」
「今日はね、ゼリー。部活終わって甘いもの食べたい気分なの」
美玲は冷蔵ケースからマスカット味のゼリーを取り出し、レジに置いた。翔太が無言でスキャンする。
「あのさ、翔太。今朝挨拶無視したこと、まだ怒ってるからね」
「無視してない」
「した! せっかく元気におはようって言ったのに!」
「おはようって返しただろ」
「あれは無視した後の返事! 最初が大事なの!」
美玲が食い下がると、翔太は小さくため息をついて、ゼリーのバーコードを通した。
「はい、二百四十円」
「聞いてる!?」
「聞いてる。うるさい」
「ひど!」
美玲は小銭をトレーに置きながら、じとっと翔太を睨む。翔太は釣り銭を返しながら、少しだけ口元を緩めた。
「……朝は悪かった」
「え?」
「だから、朝。ちょっと寝ぼけてた」
翔太は目をそらして、ぼそりと言った。美玲は一瞬きょとんとして、それからぱあっと顔を輝かせた。
「なんだ、寝ぼけてただけかあ! なら最初からそう言えばいいのに!」
「言ったら余計うるさくなるだろ」
「うるさくないもん。でも翔太が謝ってくれたから許す!」
美玲はゼリーを受け取りながら、にこにこと笑った。尻尾が左右に大きく揺れている。翔太はまたため息をついたが、その顔はどこか穏やかだった。
「じゃあね翔太! バイト頑張って!」
「おう」
美玲はゼリーを片手に店を出た。空はもう茜色に染まっている。春の風が、走って火照った体に心地よい。
家に帰ると、母が「また翔太くんとこ寄ってきたの?」と笑った。美玲は「寄ってない! ゼリー買いに行っただけ!」と言い返してから、風呂場へ直行した。
シャワーを浴びながら、今日一日のことを思い返す。朝は無視されてむかついたけど、放課後に走って、翔太にもちゃんと謝ってもらって、なんだかんだいい一日だったかもしれない。
湯船に浸かりながら、美玲は天井を見上げて呟いた。
「でも、もっと普通に挨拶してくれたっていいのに」
翔太の不器用な謝り方を思い出すと、自然と笑みがこぼれる。
部屋に戻ってベッドに横になると、スマホの画面に翔太からの通知が一件届いていた。
『今日は悪かった。明日はちゃんと返す』
短いメッセージ。美玲は画面を見つめて、布団の中でにやけてしまった。
「……最初からそう言えばいいのに、バカ翔太」
でも、そういうところが昔から変わらない。美玲はスマホを抱きしめるようにして目を閉じた。明日の朝は、きっとちゃんとおはようを返してくれる。そう思うと、なんだかとても楽しみで仕方なかった。
初夏の夜風がカーテンをそっと揺らし、美玲はやがて穏やかな寝息を立て始めた。




