プレゼント
5月30日、土曜日。
朝から翔太はそわそわと落ち着かなかった。リビングのカレンダーには、先月から密かに丸印がつけてある。今日は奈々穂の誕生日だ。
「しょうちゃん、今日は土曜日だけどバイトは?」
朝食の味噌汁をよそいながら奈々穂が尋ねる。今日は珍しくメイドドレスではなく、薄手のカーディガンを羽織った部屋着姿だ。午後から仕事が入っているらしい。
「午前中だけ。昼には帰る」
「そう。じゃあ夕飯は一緒に食べられるわね」
「……今日は俺が作る」
翔太は味噌汁を一口すすりながら、何気なさを装って言った。奈々穂はきょとんとした顔で翔太を見つめる。
「しょうちゃんが? 珍しいわね。どうしたの急に」
「別に。たまにはいいだろ」
奈々穂は少し不思議そうに首をかしげたが、すぐに微笑んだ。
「嬉しいわ。じゃあ楽しみにしてるね」
翔太は照れ隠しに味噌汁を飲み干し、食器を片付けてさっさとバイトへ向かった。奈々穂はその後ろ姿を見送りながら、青い尻尾をゆっくりと揺らす。何かあるな、と彼女は直感していた。
午後四時。奈々穂が高級住宅街の屋敷から戻ると、マンションの部屋には美味しそうな匂いが漂っていた。キッチンでは翔太がエプロン姿でフライパンを握っている。テーブルの上にはサラダの盛られた大皿と、まだ箱に入ったままのケーキが置かれていた。
「しょうちゃんただいま。本当に作ってるのね」
「おかえり。もう少しでできる」
翔太は振り返らずに言う。フライパンの中ではハーブで味付けしたチキンソテーがこんがりと焼けている。レシピはネットで調べ、何度か一人で練習したものだ。皮はパリッと、中はジューシーに。火加減に気を遣いながら翔太は慎重にフライパンを扱う。
奈々穂は手を洗って着替えてくると、テーブルの上のケーキの箱に気づいた。
「まあ、ケーキまで。翔太、今日は何か特別な日?」
そのとき、インターホンが鳴った。翔太はフライパンから手を離さずに「出てくれ」と言う。奈々穂が玄関を開けると、そこには満面の笑みを浮かべた美玲が立っていた。
「奈々穂さん、お誕生日おめでとうございます!」
美玲は手に持った小さな紙袋を差し出しながら、元気いっぱいに言った。奈々穂は一瞬息をのんで、それから青い瞳を大きく見開く。
「まあ……覚えててくれたの?」
「もちろんです! 翔太に教えてもらいました。これ私からのプレゼントです!」
「美玲ちゃん、ありがとう。嬉しいわ」
奈々穂が紙袋を受け取りリビングへ招き入れる。美玲はキッチンの翔太に向かって笑顔で声をかけた。
「いい匂い! 本当に翔太が作ってるの?」
「うるさい。大人しく座ってろ」
翔太は相変わらずぶっきらぼうに言うが、その声はいつもより少しだけ柔らかい。美玲はにこにこしながらテーブルにつき、奈々穂の隣に座った。
「奈々穂さん、開けてみてください!」
「ええ。……まあ、素敵なヘアオイル。それにこの香り、桜?」
「はい! 翔太がトリートメントと化粧水をプレゼントするって言うから、私もお揃いっぽくヘアオイルにしたんです」
美玲がそう言うと奈々穂は驚いた顔でキッチンの翔太を見た。翔太は背を向けたまま、フライパンに集中しているふりをしている。
「翔太も、プレゼントを?」
「……あとで渡す」
翔太はぶっきらぼうに言い、チキンを皿に盛り付ける。皮は狙い通りのきつね色に仕上がっていた。サラダのドレッシングも手作りだ。ケーキは近所の洋菓子店で予約しておいた、三千五百円の苺のショートケーキ。トッピングの苺が春らしい彩りを添えている。
三人分の食器が並び、チキンとサラダがテーブルに揃ったところで、翔太はようやくエプロンを外した。
「母さん、これ」
翔太は自分の部屋からラッピングされた包みを取り出し、奈々穂に差し出す。桜色の包装紙に、金色のリボン。奈々穂はそっとそれを受け取ると、震える指で包みを開いた。
「トリートメントと……化粧水」
「いつも髪も肌も手入れしてるだろ。だから使えるかなと思って。美玲にも選ぶの手伝ってもらった」
翔太は目を合わせずに言う。美玲は隣で「翔太、すごく悩んで選んだんだよ」と付け加えた。奈々穂は化粧水のボトルを手に取り、桜の香りをそっと嗅ぐ。
「……しょうちゃん、美玲ちゃん」
奈々穂の青い瞳が、みるみるうちに潤んでいく。普段はどんな場面でも完璧に微笑んでいる彼女の顔が、今は少しだけくしゃくしゃになっていた。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
「な、泣くなよ。飯冷めるだろ」
翔太は慌てて席につき、箸を手に取る。奈々穂は涙をぬぐいながら笑った。
「だって、しょうちゃんがこんなに立派になって……ママ、嬉しくて」
「大げさだって。ほら、美玲も食え」
「いただきます!」
三人の箸が揃う。美玲がチキンを一口食べて、目を丸くした。
「えっ、何これ美味しい! 翔太、料理できたんだ! 皮パリパリだし中は柔らかいし味もちゃんとしてる!」
「うるさい。当たり前だろこっそり練習したんだ」
「練習までしたの? すごいじゃん!」
美玲が興奮して尻尾をぶんぶん振りながら、サラダにも手を伸ばす。ドレッシングもさっぱりしていてチキンに合うと絶賛だ。
奈々穂も一口食べて、そっと目を閉じた。
「……美味しい。しょうちゃん、本当に美味しいわ」
「……ならよかった」
翔太は小さくそう言って自分もチキンを口に運ぶ。確かに悪くない。練習の甲斐があった。
食後はケーキを切り分け、奈々穂が淹れた紅茶とともに味わった。苺の甘さと生クリームの軽やかさが、春の夜にぴったりだ。美玲は二切れ目をねだり、翔太に「食いすぎだ」とたしなめられながらも、奈々穂が笑って取り分けてくれた。
片付けを終えて美玲が帰ったあと、翔太はソファに座ってスマホをいじっていた。奈々穂はその隣に座り、もらった化粧水のボトルをじっと見つめている。
「しょうちゃん、今日は本当にありがとう。ママ、世界で一番幸せな誕生日だったわ」
「……大げさだな」
「大げさじゃないわ。しょうちゃんがここまでしてくれるなんて思わなかったもの」
奈々穂はそっと翔太の肩に頭を預ける。翔太は一瞬固まったが、振りほどこうとはしなかった。そのまま静かに彼女の青い髪を見つめる。
「……母さんが喜ぶなら、それでいい」
翔太は小さくそう呟いた。窓の外では、春の月が静かに輝いている。奈々穂の尻尾がソファの上でゆっくりと揺れ、翔太の脚にそっと触れた。
彼は誰にも言わなかったが、今日一番嬉しかったのは、プレゼントを受け取った奈々穂の顔を見た瞬間だった。その顔を思い出すだけで、バイトの疲れも、練習で焦がしたフライパンも、全部どうでもよくなるような気がしたのだ。
「母さん、誕生日おめでとう」
翔太は声に出さず、心の中だけでそう言った。奈々穂はすでに、幸せそうな寝息を立て始めている。翔太はそっと彼女にブランケットをかけ、自分も目を閉じた。




