第10章 理解しがたい父
書斎は、変わっていなかった。
父の匂いがした。
インクと、古い紙と、微かに煙草の残り香。
前世にはない匂いだ。
だがこの世界で、ずっと嗅いできた匂いだ。
金庫は書棚の裏にある。
子供の頃から知っていた。
だが開けたことはない。
「開けられますか」
アリサが言った。
「……開けられる」
番号は知っている。
父が酔った夜に、一度だけ教えてくれた。
「緊急の時だけ使え」
そう言っていた。
これが緊急かどうか、俺にはわからない。
だが父はもういない。
判断するのは、俺だ。
金庫を開けた。
中身は少なかった。
証書が数枚。
家族の記録。
そして。
一冊の手帳。
「……父の字だ」
俺は手帳を開いた。
日付が並んでいる。
四年前から始まっている。
アリサが横から覗き込む。
距離が近い。
前世の俺が言う。
今は集中しろ。
わかっている。
最初のページ。
『投資組合、確認。代理人、マルティン・ハーゲン。背後、不明。要注意。』
俺は息を呑んだ。
「知っていた」
「はい」
次のページ。
『穀物税、市場連動化の提案。ヴェルナー・グロス。組合との関係、調査中。』
その次。
『修正案、否決。緩衝装置、認められず。制度の暴走、時間の問題。』
俺は手帳を持つ手が、わずかに震えるのを感じた。
父は知っていた。
制度が暴走することを。
「なぜ止めなかった」
独り言のつもりだった。
だがアリサが答えた。
「次のページです」
俺はページをめくった。
『証拠、不十分。動けば、こちらが潰される。待つしかない。制度が暴走した時、数字が全てを語る。』
その下に、一行だけ付け加えられていた。
筆跡が、少し乱れている。
『アリサ・フォン・カレンベルクなら、読める。』
俺は顔を上げた。
アリサを見た。
アリサは手帳を見ていた。
無表情だ。
だが。
耳の先が、赤い。
「……知っていたのか」
「知りませんでした」
「だが」
「父上と、一度だけお話ししたことがあります」
「何を」
アリサは少し間を置いた。
珍しく、長い間だった。
「『数字は嘘をつかない』と、教えていただきました」
俺は天井を見た。
父の顔が浮かぶ。
失脚の夜、何も言わなかった父の顔が。
何も言わなかったのではない。
言えなかったのだ。
言える状況では、なかったのだ。
「父は、お前に託していたのか」
「……そうかもしれません」
アリサの声が、わずかに低くなった。
わずかだ。
だが俺には聞こえた。
「アリサ」
「はい」
「これで、証拠は揃うか」
アリサは手帳を見た。
「揃います」
「動けるか」
「動けます」
「ヴェルナーを、追い詰められるか」
「数字で、追い詰めます」
迷いがない。
この女はいつも、迷いがない。
俺は手帳を閉じた。
父の字が、表紙に残る。
「父上、ありがとう」
小さく言った。
アリサには聞こえなかったかもしれない。
だが。
「……お礼は、終わってから言うものでは」
聞こえていた。
俺は笑った。
本当に、笑った。
「そうだな」
「はい」
「終わらせよう」
「はい」
アリサは手帳を丁寧に持った。
証拠として、扱うように。
だがその持ち方が、少しだけ。
ほんの少しだけ。
優しかった。
不幸な男だ、俺は。
父の遺した数字が、
この数字のモンスターを動かしている。
そして俺は、
それが誇らしくて、
泣きそうになっている。




