第9章 理解しがたい記録
宰相家の屋敷は、静かだった。
人がいない静かさではない。
息を潜めている静かさだ。
使用人は残っている。
だが全員が「関わりたくない」という顔をしている。
失脚した家の空気は、こうなる。
わかっている。
最悪にわかっている。
「蔵書室はこちらです」
アリサが言った。
俺の家なのに。
「……知っているのか」
「間取りを調べました」
即答。
事務。
この女の情報収集能力について、前世の俺が一言申し上げたい。
だが黙った。
蔵書室は、屋敷の奥にあった。
埃っぽい。
窓が小さい。
本棚が天井まで続いている。
「投資組合の登録記録は、どのあたりだ」
「財務関連の棚、下から三段目です」
俺は棚を見た。
確かに。
背表紙に「財務」と書かれた束がある。
この女は、間取りだけでなく、蔵書の配置まで調べていたのか。
俺は束を引き出した。
埃が舞う。
アリサは顔色一つ変えない。
「何年分必要だ」
「四年前から、五年分」
俺は該当の束を探す。
古い紙の匂いがする。
前世でも嗅いだことがある匂いだ。
監査の現場は、だいたいこんな匂いがした。
「あった」
束を開く。
投資組合登録記録。
代理人名義の一覧が並んでいる。
アリサが横から覗き込む。
距離が近い。
前世の俺が言う。
集中しろ。
わかっている。
「ここだ」
俺は一行を指した。
四年前に設立された投資組合。
代理人名義。
「マルティン・ハーゲン」
アリサは手帳を出した。
名前を書き留める。
「聞いたことがあるか」
「あります」
「誰だ」
「ヴェルナー・グロスの、元秘書です」
俺は紙から目を上げた。
アリサは手帳を閉じる。
無表情だ。
だが、この女が「あります」と即答したということは。
「最初から、疑っていたのか」
「推測していました」
「いつから」
「暴動の翌日から、です」
俺は窓の外を見た。
暴動の翌日。
焼け跡の前で、アリサが俺に言った言葉を思い出す。
「倉庫の灯りが、昨日より多いです」
あの時点で、もう見えていたのか。
「……なぜ言わなかった」
「証拠がありませんでした」
「今は」
「揃いつつあります」
アリサは別の紙を出した。
マルティン・ハーゲンの現住所。
現在の職業。
ヴェルナーの関連商会、顧問。
「繋がっている」
「数字は、嘘をつきません」
俺は束を閉じた。
埃が、また舞った。
「次は、マルティンを当たるか」
「その前に」
アリサが言った。
珍しく、先を続けるのを少し止めた。
「レオン様」
「何だ」
「この記録、宰相家が保管していたことが重要です」
俺は振り向く。
「どういう意味だ」
「宰相家は、制度設計の段階で、投資組合の存在に気づいていた可能性があります」
俺は固まる。
「……父上が」
「証拠はありません」
「だが」
「だから調べています」
アリサは俺を見た。
無表情だ。
いつも通り無表情だ。
だが。
「レオン様の帳簿は、正直でした」
静かな声だ。
「宰相家が気づいていたなら、止めようとしていたはずです」
俺は黙った。
父の顔が浮かぶ。
失脚の夜、何も言わなかった父の顔が。
「……確認したい」
「はい」
「父の執務記録が、この屋敷のどこかにあるはずだ」
「書斎の金庫、です」
俺は顔を上げた。
「……お前、どこまで調べている」
「必要な範囲です」
即答。
事務。
俺は小さく笑った。
笑うしかなかった。
不幸な男だ、俺は。
自分の家の間取りより、
婚約者の方が詳しい。
そして今から、
父の秘密に、二人で向き合う。




