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第十二章 泥だらけの再会

降り注ぐ灰色の雨は、いつまでも止む気配がなかった。


エラー領域――そこは、中央統制塔の完璧な秩序から排泄された、意味を失ったデータの掃き溜めだ。

 物理的な形状を保てなくなった瓦礫が、腐敗した生き物の骨のようにあちこちから突き出し、淀んだ泥水からは絶えず電子的な死臭が立ち上っている。


カイは、その不潔な泥の中に顔を半分埋めたまま、ピクリとも動かずにいた。


全身を無慈悲に打つ雨が、体温と希望を等しく奪っていく。脳内に展開されていたコンソールは、今やひび割れた鏡のように無残なノイズを映し出すだけだ。

 どれほどの時間が経ったのかも、もはや演算できない。エラー領域には時計機能が存在しない。「時間」という概念そのものが、ここでは意味を失ったジャンクデータに過ぎない。


「……全部、あいつの計算通りだったのかよ……」


泥を噛むような、掠れた絶望の声がこぼれる。


自分が天才だと思い込んでいたこと。システムの穴をハックしていると自惚れていたこと。その傲慢さが、ボルグの忠義を、セリアの勇気を、ディノの信頼を、およびノアの献身を、ただの「デバッグデータ」として管理者に献上してしまった。


リアナを救うどころか、彼女を絶望の淵へ追い込むための手伝いをしたのは、他ならぬ自分自身だったのだ。


「……軍師……? 笑わせるな。俺はただの、仲間殺しのバグだ……」


カイの瞳から溢れた熱い涙が、冷たい灰色の雨と混ざり合い、泥の中に消えていく。


もはや立ち上がる理由は、どこにもなかった。このままエラー領域のノイズに溶け、存在そのものを消失させることこそが、自分に相応しい罰のように思えた。


右目の演算回路が、まだ微かに熱を持っている。消えそうで消えない、その呪わしい点滅が、今は何より邪魔だった。消えてしまえばいい。消えてしまえば、もう何も計算しなくて済む。

 この灰色の雨の中で、ただの無機質なノイズになればいい。だが、消えない。どれほど絶望しても、この回路は点滅をやめない。それだけが、今のカイには腹立たしく、そして同時に――生を繋ぎ止める、唯一の錨だった。


「……いつまで、そうやって土下座してるつもり? 見苦しいわよ、バグ野郎」


頭上から、冷え切った、けれど確かな芯のある声が降ってきた。


カイは重い瞼をゆっくりと持ち上げた。視界の端に、泥に汚れ、引き裂かれた白い布を纏った足が見える。


そこには、イリスが立っていた。


かつての煌びやかな白銀の鎧も、権威の象徴だった細剣もない。誇り高き審問官の面影は、雨に濡れて張り付いた銀白色の長い髪と、傷だらけの肌の下に埋もれていた。だが、その瞳だけは、エラー領域の暗闇の中でも、鋭い不屈の光を失っていなかった。


カイは、その姿を見て、とっさに視線を逸らそうとした。

 だが、逸らせなかった。イリスは、生きていた。カイがあの牢獄で「俺のせいで」と思いながら目を閉じ、およびこの雨の中で「呼ぼうとしてやめた」あの一人の人間が、今、目の前に立っていたのだ。


「……イリス……か。……お前も、捨てられたんだな」

「ええ、そうよ。バグを内包した汚染データ。それが、今の私の新しい名前。……管理者が私に下した『正しい』規約ルールの、これが無残な結末よ」


イリスは自嘲気味に笑い、カイの隣に膝をついた。白い布が泥水を吸い込んで灰色に染まるのも、構わずに。


彼女の表情は、笑っているようで笑っていなかった。かつてカイを「バグ野郎」と呼んで追い回していた時の怒りも、偽装婚姻データを仕込まれた時の憤慨も、今はその奥底に沈んでいる。残っているのは、打たれ続けた雨のようにただそこにある、静かな覚悟だけだった。


イリスはここへ来るまでの間、泥の中で一人だった。ヴァニッシュに落とされてから、カイを探し出すまでの時間――それがどれほどだったか、彼女自身にも分からない。ただ、「カイはここにいる」という、論理を超えた確信だけが、彼女を動かしていた。


「……何しに来た。……俺を、殺しに来たのか? ……なら、早くしろ。……俺にはもう、指一本動かす価値も、生きる理由もない」

「殺す? ……そんなの、重大な規約違反だわ。……審問官としての私の仕事は、バグを正しく『処理』すること。……でもね、今の私には、もうその規約ルールを守る義務なんて、塵ほども残っていないのよ」


イリスの手が、カイの襟首を強引に掴み上げた。


泥の中から無理やり引き剥がされる。カイは力なく、彼女の瞳を正面から見据える形になった。

 近い。こんな距離でイリスの顔を見たことは、これまでもあった。だが今は違う。彼女の顔には、役割も怒りもなかった。ただ、泥の中に倒れている「共犯者」を引き起こそうとする、剥き出しの意志だけがある。


「……カイ。あんたは自分を特別だと思ってた。世界の理を支配する軍師だと思い込んでた。……でも、違ったわ。あんたはただの、傲慢で、自惚れ屋で、詰めが甘いだけの……ただの子供よ」

「……分かってる。……分かってるさ! ……だから、もう放っておいてくれ……!」


カイが絶叫し、イリスの手を振り払おうとした。


その瞬間、パチン、という乾いた音が、エラー領域の静寂を鋭く切り裂いた。


カイの首が、横に弾かれる。

 頬を打ったイリスの手は、驚くほど熱く、および激しく震えていた。


カイは、動けなかった。叩かれた痛みより、その手が震えていたことが、脳に深く刻みついた。


カイは、自分の頬に触れた。熱かった。それはイリスの「生の熱」だった。灰色の雨に打たれ続けて冷え切っていた皮膚に、確かに人間の体温が残っていた。システムが定義した「熱量」ではない。計算式で導ける温度でもない。ただ、今この瞬間にここにある、生きている人間の、魂の熱だった。


「……痛い……? ……生きてるのよ、私たちは。……計算が間違ってても、管理者に無残に負けても、仲間を失っても……、この胸の奥は、まだ熱いまま動いてる。……システムに消去されるその瞬間まで、私たちは死んでないのよ!」


イリスは、泣き出しそうな顔で、それでいて激しい憤怒を込めてカイを睨みつけた。世界の底まで落とされて、それでも諦めることを知らない人間の目だ。


「……あんたが言ったんでしょ。……ルールは守るものじゃなく、利用するものだって。……なら、利用しなさいよ。私のこの『命』を。……規約ルールを捨てて、ただの女になった私が、まだ、あんたの隣にいるんでしょ!」


カイは、息を呑んだ。

 冷徹な軍師の仮面が、泥のように崩れ落ちていく。


目の前にいるのは、宿敵でも、駒でもない。自分と同じように傷つき、絶望し、それでもなお「生きる」ことを諦めていない、一人の少女だった。

 カイはその事実に、脳がうまく追いつかない感覚を覚えた。どんな数式を走らせても、この事実に整合する「理由」が出てこない。その「熱」が、カイの凍てついた脳を、ゆっくりと、および確実に溶かしていく。


「……俺は……、あいつらを死なせた。……俺の傲慢な計算のせいで、ボルグたちは……」

「……あいつらが、あんたの計算だけで動いてたと思ってるの? ……馬鹿ね。……あいつらは、あんたを信じたのよ。……計算式じゃなく、あんたという人間を。……だから、あいつらの信頼を、ここでゴミとして捨てることは、絶対に許さない。……私が、許さないわ!」


カイは、その言葉に反論できなかった。


ボルグは「カイさんを守りたい」と言っていた。セリアは「あんたが正直に立っている姿が嫌いじゃない」と言っていた。ディノは「みんなの声が本物に聞こえる」と言っていた。ノアは「私の意志で」という言葉を使って消えた。


あいつらは、俺の計算を信じていたのではない。

 俺という、欠陥だらけの、不完全な人間を――信じていたのだ。


イリスは、カイを抱きしめた。

 泥と雨の匂い、および生々しい人間の体温。


それは、カイがこれまで一度も数式に組み込んだことのない、もっとも非効率で、もっとも強力な「変数」だった。


「……あ、……ぁ……」


カイの胸の奥で、何かが決壊した。

 彼はイリスの肩に顔を埋め、幼い子供のように、声を上げて泣き始めた。リアナと引き離されたあの日から、一度も流すことのなかった涙を、すべて吐き出すように。


数式のない頭で、ただイリスの体温を感じていた。名前がつけられないなら、計算できない。計算できないなら――排除するべきノイズのはずだ。

 だが、今のカイに、それを排除したいという気持ちは、微塵もなかった。


イリスは、ただ、自分の肩に顔を埋めた少年が泣き終わるまで、そこにいた。それだけで、十分すぎた。

 ――イリスがここにいる。それだけで、カイは死を待つことを、既にやめていた。


やがて、カイ의 泣き声が止まった。

 彼はゆっくりと、自分の泥だらけの手を見つめた。


「……イリス。……お前の言う通りだ。……俺は、最低の軍師だった」


カイが顔を上げた。その瞳から、絶望の濁りが消えていた。代わりに宿ったのは、かつての冷淡な光ではなく、地獄の底から這い上がろうとする者の、暗く、熱い執念。


「……俺は、計算をやり直す。……今度は、俺一人の知略じゃない。……お前の命も、あいつらの魂も……、全部ひっくるめた、世界で一番『不純』な計算式をな」

「……ふん。……最初からそう言いなさいよ。……あんたのそのひん曲がった性格、私が最後まで監視みまもってあげるから」


イリスは鼻をすすり、本当に少しだけ、微笑んだ。それは、エラー領域に咲いた、唯一の本物の輝きだった。


カイは泥の中から、自力で立ち上がった。

 足取りはまだ覚束ない。膝が震え、視界も安定しない。だが、その背筋は、かつてないほど真っ直ぐに伸びていた。

 雨が降っている。カイは、その雨の中で空――管理者の城がある最上階を見上げた。


「……ノアは言っていた。……ゴミトラッシュに送られたデータは、即座に消去されるわけではない。……一時的なアーカイブ領域に保持されるはずだ。……ヴァニッシュはリソース節約のために、即時消去を避けた。そこが、唯一の計算違いだ」


カイの脳内で、壊れていたコンソールが、火花を散らしながら再起動を開始する。


[ REBOOTING... SYSTEM_RECOVERY_INIT ]

[ ERROR_LOGS_FOUND... IGNORE_AND_PROCEED ]


「……行くぞ、イリス。……ここから、俺たちの『反撃のアップデート』を始める」

「……ええ、行きましょう、カイ。……管理者が後悔するほどの、最悪のバグを見せてやりましょう」


泥濘の再会。

 最底辺で手を取り合った二人の敗北者は、雨を切り裂き、再び塔の頂を目指して歩み出した。

 イリスが先に歩き始め、カイがそれに並ぶ。何も言わなくていい。今は、それだけで十分だった。


数歩歩いたところで、イリスが不意に、照れ隠しのように呟いた。

「……あんた、あの管理者に言い返せなかったとき、最高に悔しそうな顔をしてたわよ」

「……見ていたのか」

「見てたわよ。……正直ね」


カイは、その言葉に一瞬止まった。「正直ね」。それは、セリアが使っていた、肯定の言葉だ。

 カイはカウントするのをやめた。ただ、雨の音の中に、その言葉が溶けていくのを聞いていた。


リアナを救うためのチェックメイト。

 それは、ルールという盤面をひっくり返し、一人の人間として立ち上がることから、再び始まった。


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