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第十三章 デュアル・オーソリティ

エラー領域を叩く灰色の雨は、依然として止む気配がなかった。

 しかし、泥の中に膝をついていたカイの瞳には、かつての絶望を焼き切るような、昏く、鋭い執念の火が灯っていた。


「……イリス。お前に、一つ聞きたいことがある」


カイは、泥に汚れた手で、近くに転がっていた錆びついた通信端末の残骸を拾い上げた。

 筐体の一部は無残に腐食しているが、内部の基板には死に損ないのような微かな電流が、まだ脈動を続けている。このエラー領域には、そういった「管理者から捨てられたが、まだ消えていないもの」が無数に、墓標のように転がっていた。


カイは、それを「俺たちと同じだ」と強く思った。

 管理者に「ゴミ」と定義されても、まだ電流を、意志を、魂を流し続けているものがここにはある。それが使えるかどうかを、傲慢な管理者に決めさせるつもりはない――ヴァニッシュには決して理解できない人間の執念が、今、逆襲の火種となる。


「何よ。……今の私に、答えられる規約ルールなんて残っていないわよ」


イリスは、雨に濡れて張り付いた髪をかき上げながら答えた。

 その声は極限の寒さで震えていたが、彼女もまた、自分の「正義」が崩壊したあとの新しい何かを渇望するように、カイを真っ直ぐに、射抜くように見つめていた。


「お前の『生体ID』だ。……審問官としての権限は剥奪されたが、それは論理的なアカウントの無効化に過ぎない。……お前の網膜、指紋、および魂の固有波形……それらの『物理的な鍵』そのものが、システムから完全に消去されたわけじゃないはずだ」


カイの言葉に、イリスはハッとしたように目を見開いた。


「……ええ。私のIDは、中央データベースの底に『墓標』として凍結されているはず。……でも、それがどうしたっていうの? 権限のない鍵じゃ、どんな扉も一ミリも開かないわ」

「正攻法の開け方ならな。……だが、管理者の目を盗んで扉を通るんじゃない。……システム自体の矛盾を突き、管理者自身に扉を強引にこじ開けさせるんだ」


カイは、拾い上げた端末を猛烈な速度で解体し始めた。泥だらけの指先が、精密機械を扱う術師のように、繊細かつ大胆に動く。

 冷たい雨に打たれながらも、その指先だけは、かつてのどの計算よりも迷いがない。


イリスは、その狂気じみた作業を、瞬きもせずに黙って見守っていた。

 錆びた残骸からハッキング用のデバイスを即席で組み上げている。傷だらけで、さっきまで泥の中に顔を埋めて死を乞うていた少年が、今はもう再起の火を熾している。


(……どこまでも、諦めることを知らない男ね)


イリスは、それを「愚かだ」とは思わなかった。思えるはずがなかった。


「ヴァニッシュは俺の裏技エクスプロイトをすべて完璧にパッチした。既知の脆弱性は塞がれ、俺のコマンドはすべて『不正』として即座に弾かれる。……だが、それは『俺一人だけの入力』に限った仕様だ」


カイは端末の内部回路を強引に短絡させ、即席のインターフェースを作り上げた。そして、その鋭利な端子を自らの腕に深く突き刺し、もう一方の端子をイリスの手首に、肌を焼くほど強く押し当てた。


「……っ、冷たい……。カイ, 何を……!」

「……お前の『正規のID』と、俺の『不正なコード』。……この二つを、ナノ秒単位の同時性で、一つのプロセスに無理やり流し込む。……これを『デュアル・オーソリティ(二重権限衝突)』と呼ぶ」


カイの脳内で、壊れていたコンソールが火花を散らしながら、咆哮と共に再起動する。視界の端に真っ赤なエラーログが滝のように流れるが、彼はそれを気合でねじ伏せ、新たな演算を開始した。


「システムは、お前のIDを検知すれば『認証成功』の処理を始めようとする。だが同時に、俺のコードを検知すれば『アクセス拒絶』を即時実行しようとする。……肯定と否定。この相反する二つの命令が、一千万分の一秒という極小の隙間に叩き込まれたとき、システムは『どちらを優先すべきか』という、終わりのない無限ループの迷宮に陥るんだ」


カイは、イリスの手を、骨が鳴るほど強く握りしめた。


「泥濘の雨の中で、二人で一つの嘘をつく。……イリス、お前の生の熱を俺に貸せ。お前の『生きている』という証明を、俺の呪われたコードの触媒にするんだ」

「……バカね、本当に。……そんな無茶苦茶な論理、規約ルールのどこにも記述されていないわ。……でも」


イリスは吐き捨てるように言ったが、握り返してきた彼女の手は、驚くほど力強く、および焼けるように温かかった。


カイは、その温かさに一瞬だけ、演算が止まりそうになるほどの衝撃を受けた。

 作戦を説明している間、イリスはずっと、その真意を理解しようと聞いていた。「無茶苦茶な論理」と切り捨てながらも、その目には「共に往く」という決意が宿っていた。


計算が読めない。だが、その「熱」こそが、今の状況では、死神すら欺く最強の武器になる。

 システムは「正規のIDを持つイリス・フェル・レギスタ」という定義を抹消できない。そして「不正なカイ」は、既に特級の脅威だ。この二つが同時に衝突したとき、システムは判断を保留する。その数秒の「ラグ」こそが、地獄からの脱出路だ。


「……でも、いいわ。私はもう、正しいだけの退屈な世界には飽き飽きしてたの。……いきなさい、カイ! 私の誇りも、命も、この体温も……全部あんたの計算式に叩き込んであげる!」


二人の皮膚を通じて、激しい情報の奔流が、電気信号となって駆け抜けた。


カイの脳を焼くような白熱。イリスの心臓を締め付ける、重い圧迫感。エラー領域の澱んだ空気が、二人の周囲で激しい渦を巻き、物理法則を無視した「黒い火花」が静寂を切り裂く。

 イリスが、苦痛に喘ぎ、声を上げた。それが痛みなのか、恐怖なのか、カイには判断できない。ただ、握った手を、二度と離すまいと誓うように強く引き寄せた。


[ RUN: ( CMD_AUTHORIZED BY Iris_ID ) AND ( CMD_MALICIOUS BY Kai_Code ) ]

[ TARGET: Error_Sector_Exit_Gate ]

[ STATUS: Conflict_Inducing... SUCCESS ]


その瞬間、エラー領域の「天井」にあたる虚空に、巨大な、目を灼くような亀裂が走った。

 管理者が「ゴミ箱」と定義したはずの領域を、内側から食い破る逆流の光。

 システムはイリスの権限を拒めず、カイの不正を許せず、処理が致命的に破綻し、深刻な「ラグ(遅延)」を引き起こしたのだ。


「……抜けるぞ! イリス、絶対に、手を離すな!」

「言われなくても……離さないわよ、絶対に!!」


二人は、光り輝くラグの隙間へと、魂ごと飛び込んだ。


身体がデータレベルで分解され、再構築される、気が狂いそうな激痛。だが、カイの意識は、その苦痛さえも「自分が生きている証」として、熱く、冷徹に享受していた。

 イリスの手を、汗ばむほど強く握りしめたまま。


あの牢獄から、仲間を失ったあの瞬間から――ずっと握られていたのに、どうしても握り返せなかった手。今は、カイの側から、奪い返すように握っていた。


システムの光の中で、一瞬だけ、イリスの横顔が見えた。

 歯を食いしばり、目を閉じ、それでも真っ直ぐに前を向いている。


(……きれいだ、と……思った)


脳内のコンソールが出した解ではない。ただ、カイの心臓がそう叫んだ。彼は自分が、そんな「計算不能な感情」を持てる人間だったことを、死の淵で初めて知った。


――チェックメイトまで、あと三手。

 二人の「敗北者」は、光の激流を遡り、再び「境界の牢獄」へと、死の淵から舞い戻った。


眩い閃光が収まった時、カイとイリスは、あの冷たい白に包まれた通路に立っていた。

 しかし、今の彼らは、数分前の「無力な犠牲者」ではない。


カイは通路の白い壁を睨んだ。初めてここに来たときは「完璧な秩序」の象徴に見えた。だが今は――ただの脆弱なプログラムに見えた。壊せる。書き換えられる。あの時と同じように。


「……戻って、きたわね。……あんたのその、デタラメなハックのおかげで」


イリスが乱れた呼吸を整えながら、周囲を射抜くように見渡した。通路の奥からは、侵入者を検知したセンチネルたちの、無機質で不快な駆動音が聞こえてくる。


「ああ。……だが、俺たちの存在はまだシステムに『幽霊』としてしか認識されていない。ラグの中に潜むバグのようなものだ。……この一瞬の隙に、あいつらを救い出す」

「分かったわ。先導しなさい、バグ野郎」


カイは、脳内のコンソールを極限まで加速させた。

 以前のように「世界の穴」を探す受動的なハックではない。今はイリスという「正規のパス」を武器に、システムを内側から騙し、麻痺させながら、強引に道を拓く。


「……見つけた。消去待機領域。ボルグたちのデータは、まだ完全に抹消デリートされていない。……『完全に削除』されるまでの、わずかな猶予期間。……ヴァニッシュは、リソース節約のために即時消去を避けた。それが、あいつの人生最大の計算違いだ」


カイは、アクセスパネルに拳を叩きつけた。デュアル・オーソリティの残火が、カイの指先からシステムの深層へと、牙を剥いて食らいつく。


「……俺は、ずっと一人で戦っているつもりだった。俺一人の頭脳で、すべてをハックできると思い上がっていた。……だが、それは違ったんだ。あいつらがいたから、俺の計算は、ようやく完成していたんだ」


カイの脳裏に、仲間たちの姿が、熱を帯びて浮かび上がる。

 臆病ながらも盾を掲げ、俺を守り続けたボルグ。

 死の境界線で「正直ね」と笑いながら鉄パイプを振るったセリア。

 ドット絵の世界で、自分の意志で目を開け直したディノ。

 および、「私の意志で」と光になったノア。


「……あいつらは、俺の『駒』なんかじゃない。俺というバグを世界に繋ぎ止める、たった一つの『理由』だったんだ……!」


その言葉は、計算の結果ではなかった。カイ・エル・アルカディアが、初めて――「俺」という存在に、魂の言葉を与えた瞬間だった。


カイの慟哭とともに、通路全体が激しく振動した。


[ RECOVERY_SEQUENCE: START ]

[ TARGET: BORG, SERIA, DINO, NOAH ]

[ AUTHORIZATION: IRIS_ADMIN_GHOST + KAI_MAL_VIRUS ]


「……戻ってこい、お前たち! 俺の身勝手な計算に、もう一度だけ――付き合ってくれ!」


通路の最奥、巨大な「消去炉」から、四つの光の塊が弾き出された。

 一度は解体され、意味を失ったはずのデータの残骸。だが、カイが放った執念の鎖が、それらを強引に繋ぎ止め、人間の形へと引きずり戻していく。


「……あ……、……カイ……さん……?」


ポリゴンの欠片から肉体を取り戻したボルグが、夢から目覚めたような掠れた声を上げた。ボルグはカイの顔を見て、泣きそうな笑顔になった。「よかった」という一言に、すべてが詰まっていた。


「……あんた……、……本当に、どこまでも、しつこいわね……」


セリアが、霞んでいた黄金の光を再び灯しながら、不敵に、だが心底嬉しそうに笑う。


「……真っ赤なノイズ、消えた。……カイさんの、声が、聞こえる……」


ディノが眼鏡を直し、自分の足で立ち上がる。


「……カイ。……データの再構築、完了しました。……おかえりなさい、私のマスター。いいえ、共犯者」


ノアの瞳に、深いサファイアの光が、かつてない温度を持って宿る。


再会した五人と一人。

 その光景を、イリスは眩しそうに、および誇らしげに見つめていた。

 ボルグがカイの傷に気づき、慌てて包帯を巻こうとする。セリアが「強引にやれ」と茶化し、ディノがノアの隣で安心したように笑う。全員が、自分たちの意志でそこに「生きている」ことを証明していた。


カイはその光景を、一秒だけ、瞳を潤ませて黙って見つめた。

 駒が揃ったのではない。あいつらがいる。ただそれだけで、カイの演算は無限の出力を得た。


「……全く。最高に手に負えないバグだわ、あんたたちは」


イリスが剣を構え、迫りくるセンチネルの群れを睨みつけた。その背中は、かつてのどの審問官よりも、揺るぎない覚悟に満ちていた。


「カイ。ここから先は、もう『正義』なんて安っぽい言葉は使わないわよ。私は、あんたというバグを信じることに決めたの。だから――最高の結末チェックメイトを、私たちに見せなさい!」

「……ああ。……約束する」


カイは仲間たちの中心で、かつてないほど熱い瞳で塔の上層を見据えた。

 彼の手元にあるのは、もはや冷たい数式だけではない。絆、信頼、および愛――管理者が決して理解できない、もっとも「不純」で、もっとも「最強」な変数が、今、世界を書き換える。


リアナを救うためのチェックメイトまで、あと三手。

 管理者が想定し得なかった「奪還されたバグたち」の、反撃のアップデートが、今ここに開始された。


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