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第十一章 完璧な計算の崩壊

 意識の底から這い上がってきたのは、腐ったオイルの死臭と、終わりなきノイズの断末魔だった。  カイが目を開けた時、そこにはもう「境界の牢獄」の清潔な白も、リアナの甘美な幻影もなかった。視界を覆っているのは、点滅を繰り返す [ ACCESS DENIED ] の赤い警告文字と、処理を無残に中断された思考の残骸だけだ。


 どれほどの時間が経ったのか、もはや演算できない。落下の衝撃で意識を焼かれたのか、それとも拘束フィールドの影響で強制的に魂をシャットダウンされていたのか。脳内の時計は狂い、世界との同期は完全に途絶えていた。


 指先を動かそうとして、カイは自分の体が冷たい格子の檻の中に放り込まれていることに気づいた。それは鉄ですらなかった。システムの記述エラーによって実体化した、歪なデータの檻。格子の一本一本が、おぞましいエラーコードの文字列で構成されている。触れるだけで指先が物理的に焼ける、鋭い痛みが走った。


「……ボルグ……。セリア……ディノ……」  掠れた、砂を噛むような声で仲間の名を呼ぶ。だが、返ってくるのは不規則な電子音の乱れと、虚無の反響だけだった。


 檻のすぐ外に、彼らはいた。  だが、その姿はもはや「人間」としての輪郭を保ててはいなかった。


 ボルグの巨体は、表面のテクスチャが無残に剥がれ落ち、灰色の剥き出しのポリゴンが醜く露出している。かつて要塞をその質量で粉砕した膝が、今は地面に癒着し、動かすことさえ許されない。セリアは黄金の光を完全に失い、霧散しかけたデータの断片となって虚空を漂っていた。妹アリアの形見である青い小石のペンダントだけが、皮肉にも実体を保ち、彼女の首元に重くぶら下がっている。ディノに至っては、存在そのものが激しい砂嵐スノーノイズへと強制変換され、少年の形を維持することさえ危うい。歪んだ眼鏡のシルエットだけが、辛うじて「彼」であったことを示していた。


 そして、ノアが――倒れていた。彼女の白いワンピースはノイズの粒子に侵食され、所々が幽霊のように透けて見える。自律動作は完全に停止し、サファイアの瞳は開いたまま、そこにあるはずの光を失っていた。  カイは、ノアの顔を見た。  感情を学び始めていた彼女。「それは何という感情ですか?」と問いかけ、少しずつ、けれど確かに人間らしい温度を身につけようとしていた彼女。記録庫で二百三十七年待ち続け、カイを「共犯者」と呼ぶことを選んだ彼女。  今、その瞳には、救いようのない「無」しかなかった。


「無駄だ。彼らはすでに、システムの『ゴミトラッシュ』への転送シーケンスに入っている」  高い場所から、冷徹な死神の声が降ってきた。  管理者ヴァニッシュ。彼は空中に浮遊するコンソールを操り、まるで不要なファイルを整理するかのような冷淡な手際で、カイの仲間たちのデータを「圧縮」していく。一つのコマンドで、セリアの残滓が小さく押し潰される。また一つで、ディノのノイズの密度が薄く削り取られていく。


「ヴァニッシュ……! やめろ……! 俺が……俺が相手だ……!」  カイは叫び、必死に脳内でハックを試みた。 [ IF Logic_Bomb = Execute ] [ SET System_Lag = MAX ]  だが、思考を走らせようとした瞬間に、脳漿を直接沸騰させるような激痛が走る。 [ ERROR: PERMISSION_DENIED ] [ ERROR: CODE_EXECUTION_FORBIDDEN_BY_ADMIN ]


 カイがこれまで積み上げてきたすべての「裏技エクスプロイト」には、完璧で無慈悲なパッチが当てられていた。脆弱性は塞がれ、論理の隙間は厚いコンクリートで埋め立てられた。彼が信じていた「世界の穴」は、管理者の手によって、ただの平坦な壁へと修復されていたのだ。


「お前の過ちは、自分がシステムの外部にいると錯覚したことだ」  ヴァニッシュが、静かに階段を下りてくる。彼の背後では、巨大なシュレッダーのような光の渦が口を開け、ボルグたちの残骸を一人ずつ、無機質に吸い込み始めていた。


「お前が発見したバグ。お前が構築したハック。それらすべては、私がこの世界を最適化するための『デバッグ・レポート』に過ぎなかった。……私はお前を泳がせ、お前が穿った穴を順次、より強固な規約プロトコルで塞いでいったのだよ」 「……何だと……?」 「お前が仲間を救うたび、世界はより完璧な檻へと進化した。お前がハックを閃くたびに、私は次のアップデートを用意した。……カイ、お前はリアナを救うために戦っていたつもりだろうが、実際には私のために世界を『修正』し続けていただけなのだ」


 カイの心臓が、氷の楔を打ち込まれたように止まった。  嘘だ――と思いたかった。しかし、脳内で計算を回した瞬間、反論の余地がないことを悟った。  これまでの旅。ボルグを救い、セリアを立たせ、ディノの視界を塗り替えた、あの輝かしいカタルシス。そのすべてが、管理者の掌の上で行われていた「動作テスト」に過ぎなかったというのか。


 ――第一階層。ボルグの「不退転」を反射壁に書き換えた瞬間。あのエクスプロイトは、翌日には「入力エネルギーの反転防止パッチ」として世界に配布されたのか。  ――第二階層。セリアのHPを10パーセントに固定した、あの精密なループ。それは「HP操作の悪用防止アップデート」の格好の素材になったのか。  ――第三階層。ヴァルザクをオーバーフローで倒した、あの知略。それは「数値型の上限拡張パッチ」へと書き換えられたのか。


 カイが「俺だけが気づいた世界の穴」だと自惚れていたすべての脆弱性は、実は――利用されていた。ヴァニッシュにとって、カイは「バグを見つけ出し、報告してくれる無料のテスター」でしかなかったのだ。  仲間が笑う度に、世界はより冷酷になっていた。  カイが勝利する度に、世界はより強固になっていた。  カイの「自由」は、最初から徹底的に管理された「檻の中の自由」だったのだ。


「お前は、自分が軍師だと思い込んでいたのだろう。だが、真の軍師は盤面の外にいる。……ピースが、自分をプレイヤーだと勘違いした。それがお前の、唯一にして最大の敗因だ」


 その言葉が、カイの脳内で吐き気を催すような反響を起こした。  駒。  カイは自分でも、ずっとその言葉を使っていた。ボルグを「盾の駒」、セリアを「剣の駒」、ディノを「砲台の駒」と。俺は軍師で、あいつらはただの駒だ――と。  ヴァニッシュは今、全く同じ論理で、カイを「駒」と定義している。  その構造の同一性に、カイは胃の腑を抉られるような屈辱を覚えた。


 カイはそもそも、自分を「正義」だと思ったことはない。「リアナを助けるために、最も効率的な手段を選ぶ」――その一点を信奉していた。  だが、それこそがヴァニッシュと同じ論理だった。「世界の最適化のために、最も効率的な手段を選ぶ」――そのために人間を素材として扱うヴァニッシュと、駒として扱うカイの間に、本質的な差などどこにもなかったのだ。  カイは、自分がずっと戦っていたはずの「敵」と、同じ醜い計算式の上に立っていた。


 ヴァニッシュが指を鳴らした。  光の渦が最後の一人を――ディノの残像を無残に吸い込み、世界は完全に沈黙した。  仲間たちが、完全に、消えた。


 カイは檻の格子を掴んだ。指先が焼けても、肉の焦げる匂いがしても、離さなかった。何かに、せめて何かに抗いたかった。しかしコンソールは沈黙し、演算は禁じられている。格子を握りしめる指先の痛みだけが、「まだここにいる」という惨めな事実を物理的に証明していた。  カイの目の前で、彼らの存在を示す全データが、一文字の残像も残さず消去デリートされた。


「……あ、……ああぁ……」  カイは膝をつき、どす黒い血を吐いた。  完璧だったはずの計算。無敵を誇ったハック。すべては、敵から与えられた「飼育箱」での戯れに過ぎなかった。リアナを救うための王手チェックメイトだと思っていた一手は、自分自身を袋小路へ追い込み、仲間を殺すための「自殺手」だったのだ。


 俺は間違えた。  第八階層で気づいたはずだった。リアナの声に飛び込んだのは、計算ではなく感情だった。それが罠を踏ませたのだと。  だが、それだけではない。  カイの脳内で、今更のように、聞くべきだった言葉たちが再生される。ボルグの不安な問い。セリアの皮肉めいた忠告。ノアの警告。イリスの「道が綺麗すぎる」という鋭い予感。  そのすべてを、カイは「計算済みだ」という傲慢な一言で握りつぶしてきた。


 ――なぜ、封じた?  答えは単純で、醜いものだった。あいつらの心配が「正しい」と認めることは、自分が「完璧ではない」と認めることだったからだ。俺は完璧な軍師でなければならなかった。仲間の不安を「低レベルな誤算」として扱うことで、自分の優位性を保っていたのだ。  俺が「駒」と呼んでいたのは、あいつらではなく――自分自身の脆さから目を逸らすための、防衛反応だったのかもしれない。  あいつらは駒ではなかった。俺が無理やり、駒にしようとしていただけなのだ。


「さて、ゴミの片付けを終えようか」  ヴァニッシュが、拘束されていたイリスを一瞥した。  カイはそこで初めて、イリスの存在を「認識」した。誇り高き審問官の鎧はズタズタに裂かれ、虚ろな瞳で地面を見つめている。彼女はカイと共謀した「汚染データ」として、すでにシステムから排斥されていた。  イリスはカイを見なかった。見る余裕もないほど、拘束フィールドが彼女の神経を締め付けていた。  この世界のどこよりも規約に誠実に生きてきた女が、カイ一人のせいで「汚染された記録」を背負い、一生を台無しにした。俺のせいで。  その二文字が、カイの意識の底に、重い石のように沈んでいった。


「イリス審問官。お前は、もっとも優秀な防衛プログラムであった。……ゆえに、このエラーコードと共に『エラー領域』へ堕ちるのが相応しい処分だろう」  ヴァニッシュが最後の下行コマンドを入力した。


[ EXECUTE: DISCARD_CORRUPTED_DATA ] [ DESTINATION: ERROR_SECTOR_NULL ]


 カイとイリスの足元の床が、ノイズと共に消滅した。  底なしの暗闇。データのゴミが降り積もる、世界の排泄孔。  落ちながら、カイは空の消えたその空間を見上げた。ヴァニッシュの法衣の白が、遠ざかっていく。檻の中で消去されていった仲間たちの残滓が、小さな光の点となって散っていくのが見えた気がした。幻なのか、記憶なのか、判断はつかない。


 落ちながら、カイは最後にリアナの声を聞いた。  ――カイくん、無理しすぎちゃだめだよ。  あの声が、今は呪いのように脳を灼く。


 ――ざぁざぁ、と。  激しい雨が降っていた。  だが、その雨は水ではない。処理しきれなかった不要なデータ、システムの余熱によって蒸発した「悲しみ」のログが、灰色の不潔な液体となって降り注いでいるのだ。


 カイは、泥のような液体の中に顔を半分埋めていた。  エラー領域――そこは、中央統制塔の完璧な秩序から排泄された、意味を失ったデータの掃き溜めだ。物理的な形状を保てなくなった瓦礫が、腐敗した生き物の骨のようにあちこちから突き出し、淀んだ泥水からは絶えず電子的な死臭が立ち上っている。  脳内のコンソールは、もはや一行のコードも書き出すことができない。かつて流麗に流れていた数式は、今は壊れたラジオのように無意味なノイズを吐き出すだけだ。


「……計算、……違いだ……」  泥を噛むような、掠れた声がこぼれる。  ボルグを失った。セリアを、ディノを、ノアを失った。  それぞれの顔が思い浮かぶ。ボルグの不安げな目。セリアの少しだけ柔らかくなった表情。ディノの恥ずかしそうな横顔。ノアが「答え」に近づいていた、あの静かな過程。  全部、俺が招いた、俺だけの罪だ。  そして、リアナを助ける術も、もうどこにも存在しない。


 自分は、天才ではなかった。  世界の理不尽をハックする軍師などではなく、ただの、自惚れた欠陥品だったのだ。  スクラップ・バレーにいた時から、俺は何一つ変わっていなかった。あそこで生まれ、あそこで無様に死ぬべき存在が、たまたまリアナへの執念だけで動いていただけのことだ。


 演算回路に、僅かな熱が残っている。それだけが、カイが「まだ生きている」という、残酷な証拠だった。  いっそ熱が、消えればいいのに。  仲間たちは消え、イリスもどこかで同じように、この灰色の雨の中に落ちているのか。  カイは考えようとして、絶望に押し潰されてやめた。


 ただ一つ、灰色の雨の中で、カイにはっきり分かることがあった。  イリスは、正しかったのだ。俺が聞いていれば、あいつだけはこんな場所に来ずに済んだ。そしてあいつは、「分かった」と言いながらも、最後まで俺の手を繋いで来てくれた。あの瞬間、イリスがカイに向けたのは計算でも義務でもない、純粋な「意志」だった。


「……殺してくれ……。……もう、……嫌だ……」  カイの瞳から、熱い涙が零れ落ちる。それはシステムのバグではなく、一人の無力な少年が流す、純粋な絶望。  完璧だったはずの砂の城は、管理者の足音一つで、あまりにも無惨に、あまりにもあっけなく崩れ去った。


 灰色の雨に打たれながら、カイはただ、自分を消し去ってくれる死を、泥の中で静かに待ち続けた。  雨が降る。  灰色の液体が、カイの右目の演算回路を叩く。かつて青白く発光していたその回路は、今は薄暗く点滅しているだけだ。消えそうで、消えない。


 完璧な計算の、完璧な崩壊。  カイ・エル・アルカディアという「バグ」は、今、世界の最底辺で、誰にも見えない場所で、ただ絶望という名の呼吸だけをしていた。



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