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第十章 境界の牢獄と甘い罠

 第八階層「境界の牢獄」。  そこは、これまでの階層が持っていた猥雑な活気や、歪んだ情報の狂気さえも存在しない、不気味なほどに静謐な、死の静寂に満ちた空間だった。壁も床も天井も、すべてが継ぎ目のない滑らかで冷酷な白色の素材で構成され、一定の間隔で配置された淡い光を放つラインだけが、ここが中央統制塔の深部――すなわち神の心臓部であることを示している。


 空気は刺すように冷たく、無菌室のような、生物の存在を拒絶する清潔さが鼻をつく。ここでは足音さえも吸着されるように抑制され、自分たちの浅い呼吸音だけが、耳障りなほど大きく、無様に響いた。


 カイは通路を進みながら、仲間の状態を脳内で参照した。  ボルグの肩の傷はまだ塞がっていない。ニードルの槍が貫いた左肩は、応急処置を施したものの、重い盾を支えるたびに激痛が走り、彼の巨躯を歪ませる。セリアのHPは今もカイの演算によって「10パーセント」で危うく固定されているが、その維持コストは限界まで蓄積し、カイのこめかみには焼けるような微熱が常駐している。ディノはサイケデリック・コアの情報の毒が抜けきっておらず、眼鏡の奥の目は、焦点の定まらない濁った色をしていた。ノアだけが普段通りの涼やかな表情を保っているが、そのサファイアの瞳の奥では、未知の演算負荷が火花を散らしている。


 そして、イリスは――右手が、一度として細剣の柄から離れていない。あの「偽装婚姻データ」の件から、彼女はカイの三歩以内を死守し続けている。本人は自覚していないだろうが、カイの視界にはその「不自然な防衛本能」が克明に記録されていた。


 いや。それよりも。  カイは、自分自身の状態が、人生で最も「破綻」に近いことを知っていた。第九階層での極限ハックの代償が、脳の深部におりのように蓄積している。演算速度は維持しているが、脳漿を煮立たせるような熱が、一向に引かない。冷却が追いついていないのだ。それは、これ以上の負荷を重ねれば、思考回路が物理的に焼き切れるという、神経系からの断末魔の警告だった。


「……静かすぎます。なんだか、大きな生き物の胃袋の中に放り込まれたみたいで……」  ボルグが巨大な盾を抱え直し、怯えるように周囲を警戒する。アイアン・グラウンドでの墜落も、情報の奔流も乗り越えてきた彼ですら、この「何もない」無機質な空間は、どんな圧倒的な敵よりも不気味な死の予感として感じられた。 「気味悪いわね。これならまだ、あの汚いノイズの中にいたほうがマシだわ」  セリアが鉄パイプを、指が白くなるほど強く握りしめる。彼女のHPは今もなお、カイが構築した微細な「死と再生」の永久ループによって、境界線上にはりつけにされている。黄金のオーラだけが、この白い世界における唯一の不純物として輝いていた。


「カイ。……このエリアのセキュリティ・プロトコルは、これまでの階層とは比較になりません。……私のアクセス権限でさえ、情報の読み取りに数秒の致命的な遅延ラグが発生しています」  ノアが静かに、宣告するように告げた。彼女の瞳が、見えないデータの濁流を追って激しく明滅する。記録庫で数百年眠り続けた彼女が「ラグ」を感じるほどの演算負荷。それが、この階層の異常性を何よりも雄弁に物語っていた。 「構わない。……リアナの反応シグナルは、もう目の前だ」  カイの言葉は、短く、そして鋭かった。その瞳には、策士としての冷徹さとは裏腹に、隠しきれない、剥き出しの焦燥が混じっていた。


 カイは迷いのない足取りで、白い通路の最奥へと向かう。  辿り着いたのは、他の独房とは明らかに格の違う、重厚な電子ロックが施された巨大な隔壁の前だった。扉の横のプレートには、ただ一言、[ Cell Omega ] とだけ冷たく刻まれている。  カイは、その文字を穴が開くほど見つめた。  思い出す必要なんてない。一日たりとも忘れたことはなかった。スクラップ・バレーで、彼女を連れ戻すと決めたあの日から。リアナの声。彼女が鼻歌を歌うだけで、周囲に色が灯ったあの日々。それが「有害なノイズ」と定義されたあの日から、カイの時間は、凍りついたまま止まっていたのだ。


「……ここだ。……ここに、リアナがいる」  カイの手が、震えながらも、祈るように操作パネルへと伸びる。  その時、イリスが彼の腕を、強く掴んだ。 「……待ちなさい、カイ。……何かが、致命的におかしいわ」 「何が――」 「あんた、普段どれだけ病的なほど慎重なのよ。……私を偽装結婚に引きずり込み、壁を抜け、ヴァルザクさえハメた男が……今、確認を一つもしていない」  イリスの声は低く、真剣だった。  規約ルールに忠実であり続けた彼女の審問官としての直感が、この空間の「美しすぎる嘘」を嗅ぎ取っていた。 「リアナさんは確かにここにいるかもしれない。……でも、ここに至るまでの道が、あまりにも綺麗すぎるわ。罠じゃないの?」 「……罠だろうと関係ない。……ここに彼女がいる。……それだけで、俺がここを開ける理由は、すべてに優先する」


 カイはイリスの手を、冷たく、そして無情に振り払った。今の彼には、世界の理不尽を鼻で笑う軍師の仮面はなく、ただ一人の少女を渇望する少年の剥き出しの顔しかなかった。演算は回っている。だが、「開ける」という結論は、計算機が解を出すよりずっと前に、彼の心臓が決定していた。


「ノア。……プロトコル、強制解除」 「……了解。……ですが、カイ。……独房内部の環境データが、外部と完全に遮断されています。……展開後のリスクは……」 「開けろと言っている!」  カイの咆哮に、ノアは一瞬だけ悲しげに目を伏せ、コマンドを実行した。


[ UNLOCK Protocol_Cell_Omega ] [ OVERRIDE Interlock: Authority = Forced_Access ]


 プシュ、という静かな排気音とともに、巨大な隔壁がゆっくりと左右にスライドした。中から漏れ出してきたのは、記憶の中にある懐かしい花の香りと、柔らかな光。  そして、その中心に――白い椅子に座り、窓もないはずの壁を見つめていた少女が、驚いたように顔を上げた。 「……カイくん? ……カイくんなの?」  聞き慣れた、夢にまで見て、幾度も脳内で再生した、あの声。  カイの足が、一瞬だけ、凍りついたように止まった。


 止まってはいけなかった。確認を怠っている自覚は、確かにあった。それでも、その声を聞いた瞬間に、カイの脳内でリアナのデータが「一致」という残酷な検索結果を返してしまったのだ。  声紋。声の張り。呼ぶ時の「くん」の、独特なつけ方。すべてが、目の前の声と、完璧に合致していた。


 リアナが椅子から立ち上がり、涙を浮かべてカイを見つめる。どれほどの絶望を、この白い部屋で一人過ごしたのか。栗色だったはずの髪が、白銀に近い色に褪せていた。そこにあるのは、システムに感情を吸われ続けた無残な証拠だ。 「リアナ……! ああ、俺だ。助けに来た!」  カイが独房の中へと駆け込んだ。背後の仲間たちも、張り詰めた糸が切れたような安堵の表情を浮かべてそれに続く。  リアナが涙を浮かべ、カイの胸に飛び込もうと両手を広げた。カイもまた、その華奢な肩を抱き寄せようと腕を伸ばした――。


 ――だが。  その指先が、彼女の服に触れる、その直前。 「……解析完了。……脆弱性を確認エクスプロイト・キャプチャ」  聞き覚えのない、氷のように無機質な声が、独房の中に響き渡った。  その瞬間、カイの腕の中にいたはずのリアナの姿が、激しいノイズと共にぐにゃりと歪み、崩壊した。  彼女の愛しい笑顔が、記号と文字列の羅列へと、冷たく溶けていく。 「……な、……何だ……!?」


 カイが目を見開いたとき、抱きしめるはずだった空間には、一筋の黒い雷光が走っていた。 [ Honey_Pot: Trigger_Executed ]  視界の端に、地獄の宣告のようなシステムメッセージが浮かび上がる。  リアナだったはずの「虚像」は、そのまま巨大な拘束フィールドへとその貌を変え、カイたち全員を逃れられない光の檻の中に閉じ込めた。


「……お前の思考パターン、およびハックの傾向は、すべてこの『セル・オメガ』でシミュレート済みだ。……お前がここへ来ること。リアナという変数を前にすれば、お前がその病的な慎重さを捨てること。……すべては、俺の描いたパッチノート通りの展開だよ」  独房の奥から、ゆっくりと一人の男が歩み出てきた。  機能美に溢れる法衣を纏った男。その瞳は、感情を完全に削ぎ落とした、システムそのものの光を宿していた。  中央統制塔、最高執行官――ヴァニッシュ。


 その「穏やかさ」が、カイのこれまでの敵の中で最も恐ろしかった。怒りさえ介在しない、ただ「ゴミを処理する」ような平穏。 「ヴァニッシュ……! 貴様、リアナをどこへやった!」  カイが檻を叩き、喉が裂けるほどに叫ぶ。 「リアナ? ああ、あのアセット(素材)なら、すでに最上階の『世界初期化リセット』のための演算コアとして移送したよ。……お前がここへ辿り着くための、最高の『ハニーポット』として機能してくれたことに感謝する」  ヴァニッシュは冷徹に言い放ち、指先で空中のコンソールを操作した。 「さて。……これまでに蓄積されたエラーデータの処理デバッグを始めようか。……まずはお前のその稚拙な『裏技』、すべて没収だ」


[ GLOBAL_PATCH: Apply_Now ] [ FIX: ALL_KNOWN_EXPLOITS ] [ UPDATE: USER_KAI_AUTHORITY = DENIED ]


 その瞬間、カイたちの肉体に、劇的な絶望が起きた。 「……う、……あ、あぁぁぁぁ!!」  最初に悲鳴を上げたのは、ボルグだった。彼の巨体を守っていた反射壁リフレクトが、まるで安物のガラス細工のように粉々に砕け散った。ニードルの槍さえ跳ね返した「動けないゆえの無敵」が、システムの修正によって「ただの防御力ゼロの肉塊」へと強制的に書き換えられたのだ。


「……力が……抜けて、いく……」  セリアが膝をついた。彼女のHPを死の境界線で維持していた、あの奇跡のようなループが、強制的に停止させられた。HPが急速に自然回復し、10パーセントを超えていく。規約ルールにより、ステータス1万倍の力は消失し、赤子よりも脆い「90パーセント弱体化」の状態へと叩き落とされた。


「……あ、……真っ赤だ……。画面が、何も……見えない……」  ディノが目を押さえて蹲る。サイケデリック・コアでカイが構築した、あの救いの「UIオーバーレイ」に、強力なジャミング・パッチが当てられた。彼の視界は、管理者が意図的に流し込んだおぞましい「警告色」のノイズで埋め尽くされ、脳の処理能力を完全にオーバーフローさせられた。


「カイ……。……私の接続リンクも……遮断……されています……。……演算領域が……奪われて……」  ノアの瞳からサファイアの光が消え、彼女の体は糸の切れた人形のように、床に崩れ落ちた。


 カイは、信じられない思いで、自分の手を見つめていた。  指先を動かそうとしても、コンソールは一ミリも展開されない。ハックを試みようとしても、システムは「権限不足」を冷たく、機械的に告げるだけだ。


 拘束フィールドの向こうで、イリスの声が聞こえた。 「……っ、何よこれ……! 私の権限データが、読み取れない……!」  彼女は正規の審問官権限を持っていた。しかし今、ヴァニッシュのパッチはその権限ごと抹消していた。カイとの「共犯記録」を持つ汚染データとして、彼女の存在そのものが凍結されていた。


「……そんな、……バカな……。俺の計算は、……完璧だったはずだ……」 「完璧? ……片腹痛いな。お前のやっていたことは、システムの綻びを突いた小細工に過ぎない。……管理者がその気になれば、世界そのものを書き換えて、お前の『穴』を埋めることなど造作もないのだよ」  ヴァニッシュが、檻の中に横たわるカイを、道端のゴミを見るような目で見下ろした。 「……お前は、自分が世界のバグを突く特別な存在だと思い込んでいたのだろう。……だが、お前自身が、最大のバグだったのだ。……そして、バグは今、完全に修正された」


 ヴァニッシュは、興味を失ったかのように踵を返した。 「……あとの処理は、センチネルに任せる。……エラーコードの破棄を開始せよ」  独房の四方から、無数の黒い機械――殺戮専用のセンチネルたちが、無機質な動作で這い出してきた。


 カイは、動けない。仲間たちは、意識を失い、あるいは苦痛に悶えている。守りたかったリアナは、もうここにはいない。  完璧だったはずの軍師。世界の理不尽を鼻で笑っていた少年。  そのプライドも、知略も、希望も、すべては管理者の掌の上で踊らされていただけの、惨めな喜劇だった。


 ボルグを集めたのは、カイ自身だ。セリアを死の淵から引き剥がしたのも。ディノを連れ出したのも。ノアに「共犯者」と言ったのも。イリスを巻き込んだのも――すべてカイが、自分の計算のために動かした手駒だった。  あいつらを、駒だと言い続けてきた。


 だが今、その「駒」たちは、カイの失策のせいで苦痛に悶えている。ボルグが低く呻く。セリアが歯を食いしばる。ディノが視界を潰されたまま、声も出せずに震えている。ノアが動かぬまま床に倒れている。  カイの計算が、あいつらを――この地獄へ連れてきたのだ。  カイの手から、すべての力が抜けた。


「……あ、……ぁ……」  カイの口から、掠れた絶望の声が漏れる。  視界の端でセンチネルが近づいてくる。拘束フィールドが彼の手首を締め付け、立ち上がる自由さえ奪っていた。  カイはそのとき、初めてイリスの顔を見た。  彼女は動けないまま、カイを見ていた。泣いていなかった。ただ、何かを言おうとして、言葉が来ない、そういう絶望的な顔をしていた。


 彼女を巻き込んだ。審問官の職を奪い、汚点をデータに刻み込み、ここまで無理やり引っ張り込んで――そして、こんな無残な末路に連れてきた。 「……俺の計算の、……せいだ……」


 カイは目を閉じた。  閉じた瞼の裏に、なぜかリアナの声が蘇った。  ――カイくん、無理しすぎちゃだめだよ。  あの声が、今は呪いのように脳を灼く。無理をするつもりなんて、一度もなかった。俺は計算していた。最善手を選び続けていた。それなのに――。


 カイの脳の、まだ死んでいない僅かな部分が、一つの冷徹な事実を浮かべた。  イリスが言ったことは、正しかった。罠だと言った。カイはそれを、感情で上書きし、切り捨てた。リアナがいるという甘い情報が、カイの演算回路を――初めて、致命的に狂わせたのだ。


 俺は、負けたのではない。  俺は、根源的に間違えたのだ。


 リアナを救うためのチェックメイト。  その王手をかけたのは、カイではなく、世界そのものだった。  ――チェックメイト。


 意識が落ちる瞬間、カイの脳内に最後に浮かんだのは、数式でも戦略でもなかった。  ボルグの呻き。セリアの苦悶。ディノの震え。ノアの沈黙。  そして、イリスの、あの何も言えなかった瞳。


 カイの意識は、底なしの暗闇へと、音もなく墜ちていった。



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