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第九章 UIオーバーレイの視界

 第七階層「サイケデリック・コア」に足を踏み入れた瞬間、カイは脳内のコンソールを全力で展開した。

 だが、それは意味をなさなかった。


壁が虹色に明滅し、視神経を無慈悲に灼く。距離の概念が狂い、遠くの通路がぐにゃりと歪曲し、自分たちが歩いているのか、それとも通路そのものが這いずっているのか、もはや判断がつかない。

 空気中には、過去に破棄されたはずの無数の声や色のログが「不協和音の霧」として漂い、肌を通り抜けて脳の深部を直接侵食してくる。


これまでの階層には、明確な「敵」がいた。反射壁でエネルギーを返せる相手、数値をオーバーフローさせられる標的、コリジョン判定を消去すれば突破できる壁。カイの脳内には常に、冷徹な「解法」が記述されていた。


しかし、ここには「敵」が存在しない。あるのはただ「情報」という名の暴力だ。

 制御不能な、目的も形もない情報の奔流。それがこの階層を覆い、侵入者の精神を細胞単位で溶かしていく。カイがどれほど高速で演算を回しても、「演算する」という行為そのものが情報である以上、ここでの思考は自分自身をも毒する燃料リソースになってしまう。


「……くっ、何なのこの場所。立っているだけで平衡感覚が根底から狂いそうだわ」


イリスが眉間に深い皺を寄せ、ふらつく足取りで壁に手をついた。

 彼女の管理デバイスは「規約適合エラー」の警告を絶え間なく吐き出し続けている。規約への適応能力が、すなわち正義への純度が高い彼女ほど、ここの「無秩序」は劇薬として染み込みやすい。彼女の長い銀白色の髪が静電気を帯び、ノイズの色に染まって不規則に逆立っていた。


「……気持ち、悪い……。世界が、ドロドロに溶けてるみたいだ……」


ボルグが重い盾を引きずりながら、肺の奥から呻く。

 アイアン・グラウンドでのあの一撃の代償、脚部の筋繊維はまだ完全に回復していない。それでも彼は奥歯を噛みしめ、カイの背後という「聖域」を守り続けていた。


セリアも黄金の光を微かに灯し、周囲のノイズを物理的に焼き払おうとしているが、実体のない情報の霧は刃でも鉄パイプでも断ち切れない。


「……さすがに、吐き気がするほど気色悪いわね。私の斬撃がノイズに吸い込まれて消える感覚がする」


彼女は首元に下げた青い小石のペンダントに、無意識に指先を触れさせた。アリアの形見。その冷たい感触だけが、今の彼女を「現実」につなぎ止める唯一の錨だった。


だが、誰よりも深刻なダメージを受けていたのは、ディノだった。

 生まれながらにして情報の海に溺れることしかできなかった少年は、この暴力的なまでのノイズに対し、防波堤をすべて失った砂の城のようだった。


カイのUIオーバーレイが生きている間は、現実をドット絵に変換することで辛うじて正気を保てていた。しかし、この階層が放つ異常な情報密度は、そのフィルタさえも内側から汚染し、溶かしていく。


ディノの呼吸が浅くなり、口数が消えたことに、カイは三分前から気づいていた。


「……ディノ。ステータスを報告しろ」

「……だ、大丈夫だよ。……ちょっと、画面にノイズが多いだけで……」


声が微かに、しかし決定的に震えている。カイは脳内コンソールでディノの魔力波形を強制参照した。安定していたはずの正弦波が、不規則に乱れ、周期が崩壊し始めている。これは、精神が臨界点に達する前兆だ。


「……歩調を落とせ。ノア、このエリアの干渉強度を再測定しろ」

「……測定中。……前方三十メートル付近で、情報密度が現在の倍以上に跳ね上がっています。この道を進めば、ディノへの負荷は計測不能な領域に……」


カイが次の指示を出そうとした、その瞬間。


「ひ……っ、あ、あ、あああああぁぁ!!」


ディノが突然、自らの頭を両手で引き裂かんばかりに抱えて叫び声を上げた。

 通路の空気が爆ぜる。ディノの周囲で魔力が一気に臨界を超え、無差別な衝撃波が放射状に広がった。壁が砕け、天井の一部が轟音とともに崩落する。


魔力の嵐が通路全体を満たし、接近を拒絶する。それは、情報の暴力に晒された少年の、悲痛な自己防衛の悲鳴だった。


「誰かの声が、僕の中で叫んでる! 色が、音が、全部混ざって……僕を壊しに来る! 助けて、カイさん……怖いよ、何も見えない……っ!」

「ディノ、落ち着け! ……ダメね、私の声すら届いてないわ!」


セリアが駆け寄ろうとするが、ディノの放つ狂乱の魔力弾が彼女の黄金のオーラと激突し、凄まじい火花を散らす。それ以上、一歩も前に進めない。


「……ノア。このエリアのノイズ波形を逆相関解析しろ。ディノの脳波と干渉している特定周波数を特定し、一時的な遮断パッチを構築しろ」

「解析完了。……ですが、カイ。ディノの脳内プロトコルは現在、完全なパニック状態で剥き出しになっています。外部から無理に干渉すれば、彼の精神そのものが初期化され、消失する危険があります」

「構わない。……俺が直接、あいつのハードウェアを叩いて書き換える」


カイは、すでに死地へと歩み始めていた。


「カイ! 無茶よ、あの魔力の中に飛び込んだら――」

「ボルグ。反射壁を最大出力で前方に固定しろ。俺の進路だけを開け。十秒持てれば十分だ」

「……! は、はい! うおおおおぉぉ!!」


ボルグが咆哮し、盾を正面へと突き出した。反射壁が最大展開され、ディノの暴走した魔力弾が盾に命中するたびに、その衝撃が元の経路へ折り返され、死の嵐の中にわずかな「空白」が生まれた。


カイはその隙間を、迷いなく走り抜けた。衝撃波が脇腹をかすめて服を焼き、左耳の近くを極光が掠め、熱線が頬に痛々しい細い痕を残す。だが、眉一つ動さない。

 ディノの元へ辿り着いたカイは、震える少年の頭を両手で力強く挟み込み、至近距離からその焦点を失った瞳を覗き込む。


ディノの瞳は虚空を彷徨い、歪んだ眼鏡の奥で涙が溢れていた。唇が小刻みに震え、声にならない叫びを繰り返している。


「ディノ。……画面を見るな。俺の声だけを、唯一の入力値インプットとして認識しろ」

「か、……カイ……さん……? 暗いよ、真っ暗で……世界がぐちゃぐちゃなんだ……」

「現実が汚染されているなら、現実を見る必要はない。……ディノ、お前の視界を俺が再定義してやる」


カイは脳内コンソールを極限まで加速させ、ディノの網膜投影規約へと土足で侵入した。

 かつてのドット絵ハックを再起動するのではない。あれは単なる「盾」だった。今カイが構築しているのは、ディノの知覚そのものの再構成。情報を遮断するのではなく、情報の「見え方」を根本から捻じ曲げる――完全なるUIオーバーレイ。


指先が空中で、残像を残す速度でコードを叩く。脳が、かつてない熱を帯びて焼けていく。


[ OVERRIDE Display_Source: Filter = Anti_Noise_Pixel_Art ]

[ SET Render_Priority = TOP_MOST ]

[ DEFINE Enemy_Entity AS Red_Marker ]

[ SET Reality_Transparency = 0% ]


「……実行エンター


その瞬間、ディノの脳内を埋め尽くしていた極彩色のノイズが、漆黒の闇に一気に呑み込まれた。

 そしてその闇の中に、ぽつり、ぽつりと、懐かしい光が灯り始めた。


ディノの全身から力が抜け、叫びが途切れる。

 だが――彼は動かなかった。


一秒、二秒。ディノは両手で頭を抱えたまま、絶望の中に蹲っていた。


「……ディノ?」


セリアが息を呑む。

 カイも声をかけるのをやめ、沈黙の中で待った。

 ディノの眼前には、カイが書き換えたシューティングゲームのプレイ画面が広がっている。しかし、フィルタが適用される直前に焼き付いた「現実の恐怖」が、少年の身体を縛り付けていた。出口を失った恐怖という名のデータが、彼を動けなくさせていた。


その沈黙を破ったのは、意外な声だった。


「……ディノ」


ノアの声が、静かに、および確かな重みを持って通路に流れた。


「……みんなの声が聞こえますか。……ノアの声は、聞こえますか」


ディノの指が、微かに動いた。

 震える息を一つ吐いて、彼はゆっくりと顔を上げた。その瞳に、冷徹な「ゲーマー」の光が、小さな点となって宿り始める。


「……聞こえる。……ノアの声、……本物に、聞こえる」

「はい。……本物です。……ノアは、ここにいます」

「……ここに、いる……」


ディノは杖を、折れんばかりに握り直した。

 恐怖が消えたわけではない。それでも彼は、ノアの声を唯一の道標に、自分の意志で視線を上げた。


「……ターゲット、捕捉。……これなら、もう外さない……!」


魔力の暴走が一点に収束し、純粋な破壊のエネルギーへと変わる。

 ピコーン、という電子的なロックオン音が静寂を突き刺し、放たれた極光の弾丸が、幻覚の霧の奥に潜んでいたボスの核を、正確に撃ち抜いた。


「すごい……! あんなに見えなかった敵を、次から次へと……!」


ボルグが感嘆の声を上げる。ディノは応えず、淡々と次のターゲットにロックオンし、トリガーを引き続けた。

 しかし、そのハックの負荷は、カイの脳を着実に、無慈悲に蝕んでいた。


リアルタイムで情報の海を書き換え続ける作業は、脳を直接焼く行為に等しい。

 熱が深い。いつもは表層で消える熱が、今は脳漿を煮立たせるように芯まで届いている。

 カイの鼻から、一筋の鮮血が零れ落ちた。


「……くっ……」


膝が、微かに揺れる。視界が白く滲み、演算コードを叩く指が止まる。


「カイ!」


イリスが咄嗟に、崩れ落ちそうになったカイの背中を、強く支えた。

 触れたカイの体は、驚くほど熱を持っていた。衣服越しでも伝わる、演算処理による異常な過熱。こんなに「熱い」人間に触れたことは、彼女の人生で一度もなかった。


「……馬鹿な男。……駒だなんて言いながら、結局あんたが一番、泥を被ってるじゃない……」


イリスは、カイを狙う残りのノイズ体を剣で斬り伏せながら、不器用なほど必死に彼を支え続けた。


「……終わったよ、カイさん。……全ターゲット、消去完了。……オールクリアだ」


ディノの晴れやかな声とともに、幻覚の霧が晴れ、元の冷たい鋼鉄の通路が戻ってくる。

 カイはディノの頭から手を離し、乱れた呼吸を整えた。鼻血を腕の甲で拭い、自力で立ち上がる。

 イリスは一歩後ろに引いた。支えていたことを、なかったことにするように。


「……ちゃんと立てる?」

「……問題ない」

「そう。……ならいいわ」


イリスは前を向いたまま、剣を鞘に納めた。それが彼女なりの、精一杯の気遣いだった。


「……効率的な戦いだった、ディノ。……次は自分の意志で、そのフィルタを維持しろ。俺がずっと支えてやれると思うな」


ディノは少しの間、沈黙していた。パーカーの袖で目元を拭い、それから少しだけ誇らしげに言った。


「……はい。……節も、カイさん。……現実がドット絵でも、……みんなの声だけは、本物に聞こえました」

「……それは何という感情ですか?」


ノアが、いつもの問いを投げた。だがその声には、確かな温度があった。


「……安心、かな。……ノアの声がしたから、怖くなくなったんだ」

「……安心。……記録しました」


カイはその二人のやり取りを一言も挟まず、次のゲートを見据えた。

 ノアの一声で、ディノは動いた。カイの命令ではなく、ただの確認だけで。それは、カイが設計したどの数式にも書いていなかった奇跡のような動作だ。


カイは小さく、内心だけで認めた。

(……あれは俺には、できなかった)


「……カイさん」


後ろから、ボルグの声がかかった。


「さっきの反射壁展開、少し手が震えてましたよね。……無理してませんか?」

「計算の範囲内だ」

「……カイさんって、必ずそう言いますよね」


ボルグの声は穏やかだった。咎めるのではなく、ただ事実として受け入れている声。


「……僕、今日みなさんを守れたと思います。カイさんが進む道を、ちゃんと開けられた。……それが、うれしかったです」


カイは答えなかった。答える必要がなかった。あの着地の後から、ボルグは「守らなければならない」から「守りたい」へと、自らの定義を書き換えていた。


「……行くぞ」


カイの一歩は、重負荷の疲れを感じさせないほど鋭かった。

 リアナを救うためのチェックメイトまで、あと四手。

 仲間たちが手に入れた「自分自身の力」が、今、神が描いた完璧なシナリオを、致命的なバグへと変えようとしていた。



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