第二十話「風子と読子の逃避行」
「おまた」
「風子ちゃん!」
読子が体操服やジャージを着ていない風子を見たのは、これが初めての事だった。
インディゴブルーのショートデニムに、白と水色のTシャツを着た風子は、読子の風子に対する素朴なイメージにピッタリと合致しており、今日行く予定の場所を考えての服装である事も読子には好印象だった。
深緑のスカートに白のブラウス、その上に黒のカーディガンを着た読子は学生服の延長のようなコーディネートだったが、高校生時分の二人の対照的なファッションは、場に染まりきってしまわない強烈な個性を感じさせた。
二人は駅前に新しくできたヘルシンキ・カフェテラスという外国風のお洒落なカフェに入っていき、想像もつかないようなコーヒーの名称に当惑しながらも何とか注文を終え、建物に隣接された端っこのテラス席に着いた。
風子は割合い落ち着き払ったように、適当に指差して頼んだカフェラテを一口飲み、その格式の高い味わいを堪能した。
「新浜町にこんなお洒落な公共のカフェができるなんて、都庁もヤケクソだね」
「無駄なもんに使われるよりよっぽどええわ。いっそ都庁の周りもカフェテラスにして人がいっぱい集まるようにしたらええのに」
風子は目を閉じ、両脇にカフェの並んだ都会的なカフェ通りを夢想した。
「私が総理大臣になったら絶対そうするよ!カフェしかない通りを作って人がそこに集まるようにするんだ。そして総理大臣の私もそこでこっそりとお茶を飲んでる」
「ええなぁ。カフェならすこぶる健全かつ経済的や」
二人はパラソルの付いたテラス席で優雅にコーヒーを飲みながら談笑していた。
高校生でも、ちょっと高いコーヒー代を出せばこのような時間と空間を得られるのだから、安い買い物だと二人は実感していた。
読子は甘いカフェモカにご満悦といった表情で大きく息をつくと、ドサッと椅子の背もたれに体を預けた。
「こういう異質な時間と空間って大事やな~ってつくづく思うわ」
「そうだね」
「いつも同じ空間にいて同じ事だけやってたら心ってどんどんしぼんでいくと思うねん。それをこういう、たとえ本物の外国のカフェじゃなくても、何かしらの意図があって表現された空間で過ごすのって、すごく心に影響すると思うねんな」
「心はいつも新鮮が一番!その為には限りないものを探求していかないとね」
「本当にそのとおりだわ」
二人の会話を遠くの茂みから、ドレス姿に双眼鏡という異様な姿で覗いていた女がいた。
その女は風子のセリフに同調するようにポツリとつぶやいた。
「女同士の愛が果たしてどこまでいけるのか……それを知るのが私の限りない探求の使命。その為にはどんな非人道的な手段だって使ってみせるわ。
如月風子と月原読子。二人を最高の百合ップルにしてみせる!」
女の名は綾辺栞。
恋愛心理学研究部の部長であり、詩人ゲーテの崇拝者でもある。
恋愛のエキスパートとしての威厳と研究を両立する為にドレスを着て一人、カフェにやってきたのである。
「思った通り、人目のつきにくい端の席に座ったわね。その強き個性と高校生の女二人であるという後ろめたさから目立たぬ事を望むという読みは当たったわね。
二人が座っているあのパラソルの裏には、あらかじめ私の能力で作り出した惚れ薬『ラブ・インセイン』が仕掛けてある。その惚れ薬の匂いを嗅いだ二人に何らかの心の疎通があると『魂の強制連結』が発動し、二人の愛は加速度的に上昇していくという寸法よ。
それにしてもあの二人……惚れ薬を嗅いだ瞬間に魂の連結が行われるなんて初めての事よ。二人の愛がどこまで行くのか、もはや私でさえも分からないわ」
なおも双眼鏡で二人を覗く栞。そこに、第三者の存在がトコトコとパラソルに近づいていくを見つけた。
「よう、風子」
「野薔薇!」
いつものラフな格好ではない野薔薇を見て、同じ店にいたのだと風子は気づいた。
「友達と来てたら、お前らの姿が見えたからさ」
「それより野薔薇のその格好……いつもと全然違うじゃん!」
風子は野薔薇のシルク製のノースリーブシャツと、短くなった髪に目をやった。
横に流れた長い前髪はそのままに、髪の横側を少し内側に巻いたヘアスタイルは明らかに美を意識したものだった。
「その髪、美容院行ったの?」
野薔薇は『あまり乗り気ではなかった』とでも言いたげに、髪の毛を荒っぽくひとなでして溜息をついた。
「まあな。ギルドの長たるもの、身だしなみは整えておかないと他のギルドにカッコ付かねぇしな。それにこんな店に来るのに、普段着じゃいい笑いもんだからな」
「野薔薇、すごくいい感じだよ」
風子は野薔薇の変貌に感激を示したようだった。
しかし読子はあからさまに目を細めて嫌悪の情を示した。
「そう?私には野薔薇さんの個性が消されて、つまんないテンプレ女子大生への道が開けましたって感じしかせんけど」
「あぁん?なんだよ月原。あからさまに喧嘩売るなんてお前らしくもねぇな」
野薔薇は自分の綺麗な格好も省みずに読子につっかかっていった。
「喧嘩なんて売ってへん。思った事を言っただけや」
「へぇ~、それが喧嘩になるって事も分かんないほどバカになったのかお前?」
野薔薇は読子の胸ぐらを掴み、すぐにでも喧嘩を始めるという態度に出た。
が、惚れ薬は野薔薇にも作用している事を栞は危惧していた。
「まずいわね。第三者が惚れ薬の匂いを嗅ぐと、魂の連結に影響が出る可能性がある。そうでなくとも、惚れ薬を嗅いでいる事自体、恋愛脳になっちゃう事は事実だし……」
栞の危惧した通り、接近した読子と野薔薇に特別な感情が芽生え始めてきた。
「な、殴れるんやったら殴ってみぃ」
読子は顔を赤らめてそっぽを向いた。野薔薇を挑発すると顔を近づけてくるという癖を知っていたからか、わざと悪態ついているようにさえ見えた。
「お前、何を企んでるんだ?」
一方野薔薇も、自分の内から湧き上がってくる言い知れぬ感情に困惑を覚えていた。
野薔薇は喧嘩にかこつけて、読子の顔を思い切り自分の所に引き寄せた。
「お前、前から気に入らなかったんだよ!頭良い振りしやがって、テストの点数悪いの知ってるんだからな!」
「そういう野薔薇さんこそ!一夜漬けで頑張りすぎて良い点取ってしまって、風子ちゃんと低い点数争いしたいのにできんとヤキモキしてるよなぁ」
「何でそんなこと知ってるんだよ!って、ちげーし!」
風子は、相手の気持ちを探りあっている二人に呆れたような顔をした。
「何遊んでるのさ二人。野薔薇も友達が待ってるんなら早く行ってあげなよ」
風子は割合と平静だった。
場の混乱を嫌ったからであろう、風子は意図的に野薔薇を遠ざける事で場を収めた。
「そ、そうだな。この続きは学校でしてやるから覚えてろよ!」
「わ、私こそ悪口いっぱい思いついたのに言えへんのは残念やけど、しゃーないな!」
自分の席に帰ろうとする野薔薇の服の裾を、読子は無意識に引っ張っていた。
「なんだよ月原」
読子は目をうるわせながら野薔薇を見つめた。
その美しくなった野薔薇の容姿を心に留めておきたかったからである。
その恋心を見抜いていたのは、栞だった。
「分かるわ、月原さん。あなたは二人の人に恋をしている。今日の木下さんとっても美しいものね。
でも、ゲーテ先生の『野ばら』の詩にあるように、野ばらに恋をしては必ずこちらが傷つく。そしてその傷は思い出となって心に強く残る。あなたは順番が違えば、野薔薇さんと激しい恋愛をしていたかもしれない。でも風子さんと魂が連結されている今のあなたには所詮叶わぬ恋……」
名残惜しそうに野ばらの後ろ姿を見つめている読子の手を優しく取ったのは風子だった。
「今日は服買う予定だから、そろそろ行こ!」
「……うん!」
読子はもう野薔薇の存在など最初から無かったかのように、屈託のない笑みで風子と共にテーブルを後にした。
「可哀想……いえ、これで幸せだったのかもね。『魂の強制連結』の影響で、あなたは強く風子さんと結びついてしまっている。あなたの野薔薇さんへの純粋な恋心さえ、無意識に風子さんを嫉妬させる為のものだったのかもしれない。でもそうだとして、それが紛れも無く二人が『恋愛』をしている証拠」
腕を組みながら歩いていた二人は、今度は川の上に作られたショッピングモールにやってきた。
1Fにブロックで舗装された川が流れており、それがショッピングモール全体を潤いのあるものに変えていた。
川の上に小さなボートが並んでおり、そのボートが屋台となって色んな食べ物が買えるという仕組みになっていた。
二人はアーチになった小さな橋の上でクレープを食べながら、しばしの間恋人同士のような豊かな時間を過ごした。
「フーちゃん、私のことどれくらい好き?」
「ゲロ吐きそうなくらい好きだよ、ヨッちゃん」
「私もゲロ吐きそうなくらい好き!」
「あっ!クレープ食べてる時にゲロの話してごめんね」
「ええよ!でも何でゲロ吐くのん?」
「ヨッちゃんの美しさに『酔う』からだよ」
「いやん♪」
二人はもうお互いの悪い点を指摘しあうという事さえ頭には浮かばないほどの運命共同体になろうとしていた。
――そして目的地である、服屋で固められたフロアにやってきた。
高校生時分ではいわゆるウィンドウショッピングしかできないが、それでも二人には十分なデートコースだった。
風子と読子は、お互いの似合う服を選んでは合わせて遊んでいた。
「やっぱりフーちゃんは青やな!ピンクの服を着るとフーちゃんの良さが台無しになってしまう。赤はこちらに向かってくるような色であるのに対して、青はどこか遠ざかっていくような儚さが魅力やと思う。海のように深淵でありながら、同時に空のように無限に広がっていく色や」
「ヨッちゃんは黒かなぁ。謎めいた感じが黒っていう色だよね。そういう意味でヨッちゃんは私にとって謎の人物であって欲しいな。ところで絵の具の色ってどうして混ぜると最後は黒になるんだろう」
二人は色の持つイメージと自分の気持ちをまぜこぜにしながらショッピングを楽しんだ。
今度は試着室に服を持ち込んで盛り上がる二人。
「フーちゃんのスカート姿かわええ!全然似合わないけど『似合わない可愛い!』」
「ヨッちゃんの褒め方下手すぎ!でも『下手可愛い!』」
店員の迷惑も省みずにファッションショーを開いて盛り上がる二人は、次第に周囲から浮いた存在にすらなり始めた。
最初は人目を気にして慎ましやかにデートしていたはずの二人の変貌に、栞は恐怖の念すら覚えた。
「私、もしかしてとんでもない事をしてしまったのではないかしら……。おそらく今、二人の恋心は倍々計算のように、とんでもない勢いで増えているはず」
ただ燃える炎に小枝を放り込むような気持ちでやった行為が、実は灯油をぶっかけていたと気づくのは少し遅かったようだ。
買い物を終えた二人は、テンションも下がらぬままカラオケで気持ちの発散を行う事にしたようだ。
栞は風子達の後に一つ隣の部屋を借りて、二人の会話を盗み聞きしようと耳を壁に押し当てた。
聞こえてくるのは風子の、恐らくはマイクを使っていないと思われる大きな声だった。
風のように爽やかな歌声は、まさに疾走感のあるナンバーにピッタリという感じで、今歌っている歌も、往年の名曲をテンポアップしてアレンジした歌のようだった。
「もしも許されるなら~
眠りについた君を~
ポケットに詰め込んで~
そのまま連れ去りたい~♪」
栞はその何気ない選曲に驚愕した。
「か、駆け落ち願望の歌っ……!これは愛が極限にまで達した事の紛れも無い証っ……!すでに二人の心の中では駆け落ちするかしないかという所まで行ってしまっているというの!?」
栞は我慢できずに部屋を出て、ガラスのドアごしに中を覗いてみる事にした。
風子と読子は恋人同士のように寄り添っていた。
読子は風子の歌を満足そうに目を閉じて聴きながら、風子の肩に頭をもたれかけていた。
栞には風子と読子が、二人で音楽の世界観を共有し、浸り、もう戻ってはこない消えかけた存在のように見えた。
*
賑やかだった町も今は声を潜め、夕方から夜にかけて全き静寂が新浜町を支配しようとしていた。
二人は町の公園のベンチから、夕日が地平線に溶けていくのをゆったりと眺めていた。
風子と読子、その二人共があの夕陽の向こうにある世界に思いを馳せていた。
――幸福な時間はおどろくほど一瞬で過ぎ去り、とうとう夜がやってきた。
この夜は二人にとって、何かが終わる事を予感させる、どこか薄気味悪い夜だった。
風子は暗くなって読子の顔が見えにくくなったことで、やっと心の内をさらけ出す事ができるようになった。
「……ヨッちゃん。このまま二人でどこか遠くに行きたいよ」
「私もや。でも駆け落ちなんてその時はロマンチックでも、後になってみたら虚しいだけやと思う」
「でも……私は誰も知らない所で本当に二人だけで暮らしたいんだ!」
「そやな……周りの人間なんて全員邪魔な存在にしか思えへん。でも……」
栞は二人の心も知らず、ただ冷静に、漠然と二人を観察しているだけだった。
「そのとおりよ読子さん。一時の感情に流されるのは決して正しい行為とは言えない。ゲーテ先生もその時の激情にまかせて田舎娘と結婚した事を後悔していたと聞くわ。
それも含めて人生なのかもしれないけれど、ここに来て性格の違いが決定的な意見の違いを生んでしまったようね」
町から町を渡り歩き、二人はとうとう人の少ないローカル線の駅にやってきてしまった。
駅のホームに入ると、風子は線路の向こうを指差しながら、読子の方を見た。
「行こう!誰も知らない場所へ。お金なら少しはある!」
「……やっぱりあかん!私たちは運動部統括と文化部統括になるっていう目標があるやん!」
「目標なんて向こうで見つければいいよ!」
「私の小説家としての生活は?」
「小説はどこでも書けるよ!」
読子は、自分が本心から断っているのではない事を自覚していた。
理性が駆け落ちを拒んでも、感情が内側から押し寄せてきて、もう読子にもそれを抑える事ができなくなっていたのである。
「ね、行こう!二人ならどこに行ったってやっていけるよ!」
「……本当にどこでもええん?」
「いいよ!」
読子は急に低いトーンになったかと思うと、一呼吸おいてから神妙に呟いた。
「……無何有の霊郷……」
「む、むかゆーのれいきょー?」
「……そう、そこでは歴史的な至人や仙人達が今も幸せに暮らしているという……」
「そんなところ……本当にあるの?」
読子は頷いた。
「どうやって、行くの?」
「……」
読子は答えなかった。
その時、急に別の女の声が二人の間に飛び込んできた。
「そんな所に風子を連れて行かせるわけにはいかないな」
二人の間に割って入ったのは道玄坂紅葉だった。
「道玄坂さん……どうしてここに……?」
「風子は日曜の5時はいつも私の所に遊びに来る事になっている」
「あ、ごめん!完全に忘れてた!」
慌てる風子に、紅葉はフッと笑って腰に手を当てた。
「構わんさ。別に約束しているわけじゃないからな。だが今日は何故か、いつものように風子を迎える為の紅茶を入れる気が起きなかった。不思議に思ってその辺を探していたらここにたどり着いたというわけさ。
それよりも月原。風子を殺してどうするつもりだ?」
「こ、殺す!?」
風子は驚きの表情で読子の方を見た。
「霊郷とはつまり死後の世界の事だろう。そんなありもしないものの為に大切な風子の命をくれてやるわけにはいかない」
科学的思考の紅葉と霊的な力を持つ読子は、最初から水と油のような関係だった。
冷徹さをさらけ出した読子は、憎むような目つきで紅葉を睨んだ。
「あなたが無知なだけです。勉強不足を周りのせいにするのはまさしく無知なる者の特徴」
「無知なのはお前だ、月原!」
場も顧みずに熱くなった紅葉は、自らを落ち着かせる為、自家製タバコに火を付けた。
「理想郷や天国なんてただのおとぎ話だ。そもそも座標が変わるだけで幸福になるわけがない。
……天国とは、かつて地獄のような現実に苦悩した人間が死後の救いを求めて『発明』したもの。
……地獄とは、天国のような平和な現実に退屈した人間が争いを求めて『発明』したものだ。
実際には存在しない。死ねば無になるだけ。それ以外には何もない」
「その『無』という概念も人間が『発明』したものですよ、道玄坂さん」
「無は概念なんかじゃない!死ねば脳と体の働きが停止し、自我も心も全てなくなるというだけだ!死後の世界を体験したものはいない。なぜならそれは『体験を超えた所』にあるからだ。よってそれは『無』という他にないのだ」
「……言うても分からんみたいやな」
読子は思念体召喚を使い、死神アニマを呼び出した。三度目のそれは読子の意思どおり簡単に召喚することができた。
アニマは読子の意思を汲み取るかのように、読子の体の中に入っていった。
すると、読子の両腕が死神の手に代わり、手には巨大な鎌が風子と紅葉の目にハッキリと映った。
紅葉は咥えていたタバコをポロリと落とした。
「その姿……」
「死神アニマを憑影した。まあ部分的な口寄せみたいなもんやな」
「ありえない……死神……?そんなものいるはずが……」
紅葉は髪をかきむしり、体中を震わせながら、ギョッとした目でその黒く骨ばった読子の腕を見た。
「ありえないありえないありえないありえない……」
紅葉は放心状態で首を振りながらブツブツと小言を発した。
読子は向上した身体能力を使って紅葉の元に飛び込むと、左腕を伸ばして紅葉の頭をわしづかみにするように黒い手を伸ばした。
紅葉の視界を黒い影が覆ったかと思うと、紅葉の意識はフッと消え、眠るようにその場に倒れこんでしまった。
「見るのはきっと悪夢やろう。でも安心しぃ。悪夢は目覚めた時はホッとしてるもんや」
読子は再び風子を見た。
風子は読子の死神の姿を見ても、それほど驚きはしなかった。
「私の知らないヨッちゃんがいっぱいだ」
「すぐに全てを知る事になる。さぁ目を閉じて」
読子は心やすらかに目を閉じる風子に近づいていった。
そして今度は、風子に向けて大きな鎌を振りかぶった。
……だが、次の瞬間、
「ちょっと待った!」
巨声と共に登場したのは、風子のライバルの三條エリリカだった。
読子はギョロリとエリリカを睨んだあと、鎌を下ろしてフッと笑った。
「ついに正妻の登場か」
「誰が正妻よ!
って、いったい風子に何するつもりよ!?」
「三條さんはこの黒い腕を見ても驚かへんの?」
「何だか分からないけど、風子を傷つけるのを見てほっとけるわけないでしょう!」
エリリカは目の前の現実をどうにかしなければならない、という気持ちで恐怖という感情が起こる余地がなかった。
エリリカは今にも飛びつかんばかりの姿勢で変貌した読子を威嚇した。
その姿に読子は感心の色を示した。
「さすがは普遍能力者。特殊能力者とは違って心も安定しているし、純粋な強さを備えている。ある意味一番怖い相手かもな」
読子は鎌を少し短く持って構えた。
「これ以上、私とフーちゃんの問題に首を突っ込むなら……刈るで」
読子は今まで見せたこともないような表情を見せた。
それはまさに死神が乗り移ったような異形だった。
だがそれさえもエリリカには通用しないかのように、エリリカは冷静そのものだった。
「……私は放任主義だから、風子がどこで何をやろうとしても勝手だと思ってる。
でもこの状況だけは放ってはおけない!月原さん、あなたには悪魔が取り憑いているわ!」
「取り憑いているのはこの腕だけに過ぎひん。私自身は至って冷静、フーちゃんをコロして私もシぬ。そして無カ有の霊郷ヘ……敬ケンな霊達がメ指す、あのヤク束の地、心のフルさと、トオい思い出に似たナツかしい、アの……あノ……」
エリリカは陶酔状態に陥った読子の隙を見逃さなかった。
クラウチングからショルダータックルを放ったかと思うと、わずか0.5秒で読子の懐に飛び込んだ。
読子はとっさに鎌を振り下ろしたが、エリリカはそれを高速で回りこみながら避け、読子を羽交い締めにした。
「風子!」
こうなることを待ちわびていたかのように、風子はゆっくりと目を開けた。
「……読子ちゃん、考えたけどやっぱり駆け落ちしたり心中するのは違う。生きてこそだよ。社会の中で生きてるからこうやって周りのみんなが気にかけてくれるんだよ。これで終わりにしよう」
風子は思い切り風を体に纏った。
「クッ!」
読子が魂体視野を発動して風子を見ると、風子のエーテルが風となって風子に巻きついているのがハッキリと見えた。
「エーテルの風!?エーテルそのものを風に!?」
風を蹴った風子がものすごいスピードで読子に向かって行くと、エーテルの風を纏った腕で読子のお腹に思い切り掌打を叩き込んだ。
竜巻状になったエーテルは、読子から死神だけを追い出し、読子を元の読子に戻してしまった。
「死神が抜け出た……?私は一体……」
「成功したね。多分これしかないと思って」
風子は直感とイメージだけでエーテルそのものを風にして読子から死神を追い出したのだ。
これは世に言う『気』というものであるが、風子はこの時まったく無自覚であった。
正気に返った読子は、ようやく自分と風子が繋がれている鎖を発見した。
「アニマ!この鎖は……?」
「ワレニ聞カレテモ困ル。ダガ、コノエーテルノ持チ主ハココニハイナイ」
「ってことは、誰かの差し金……?アニマ!この鎖を切って!」
アニマは読子がそう言うが早いか、バッサリとその鎖を断ち切ってしまった。
すると、二人の感情が一気に衰退をはじめ、二人はこれまでの二人に戻ってしまった。
が、不幸にもそれだけでは済まなかった。
二人はお互いに、その姿を見るのも嫌なほどの嫌悪感が襲ってきたのである。
「エリリカ、帰ろ」
「え、ええ」
風子は読子と反対の方向に無言で歩いて行った。
エリリカは早足で帰る風子を追いかけるようにして、二人とも夜の闇に消えていってしまった。
しばらくすると、読子も反対の方角に帰っていった。
遠くからその一部始終を見ていた栞は、しばらく事件の余韻に浸っていたかと思うと、突如何かを閃いたような顔を見せた。
「今分かったわ!恋心は振り子のようなものなのね。不自然に好きの方向に振ってしまえば、その反動で嫌いの方向にも振れる。片方だけに振れておいて、もう片方には振れたくない、と言う事はできない。恐らく二人は当分、虫けらを見る時のような嫌悪感でお互いを見る事になるでしょうね……」
栞は虚しさだけを残した夜の駅のホームをしばらくボンヤリと眺めていた。
そして彼女たちの虚しさが伝染したかのように急に憂鬱に襲われたかと思うと、トボトボと帰路についた。
「涙も出ない別れ、か……もう恋愛実験はやめにするわ……」




