灰角のザハル
谷を塞ぐ砦が見えた時、アルトは、人間の地図が白かった理由を実感した。
そこには何もないのではなかった。
知らないものが、いくつもあった。
黒い城壁に、別々の旗が並んでいる。
角を組み合わせた紋章。
白い鳥。
輪にした枝。
門前には、背丈も顔つきも異なる兵がいた。
頭に角のある者だけではない。獣の耳を持つ者も、肌に鱗のある者もいた。
人間はそれらを、まとめて魔族と呼んでいる。
まとめた呼び名だけでは、見分けられない相手だった。
「ここまで来て、遠回りは」
「無理だと思います」
ミリアが崖を見上げた。
「鳥なら、あの上を越えられるんでしょうけど」
「ここにきて飛ぶところから始めるのか、俺たちは」
「勇者様なら、できるかと」
「勇者への期待が高すぎるだろ」
門の前へ出た。
矢が向けられた。
アルトは銀札を見せ、名乗った。
しばらくして、大きな角の男が出てきた。
片方の角は根元近くで折れていた。
残った角は灰色で、傷が何本も走っている。
「アルトか」
人間の言葉だった。
「どこで聞いた」
「報せが来た。北辺軍を率い、このヴァル砦を預かるザハルだ」
ミリアが息を止めた。
灰角のザハル。
王国の戦史に、何度も出てくる名だった。
「私たちを殺すんですか」
ミリアが聞いた。
ザハルは彼女を一度見て、アルトへ向き直った。
「魔王城へ向かう者の剣を確かめろ、と命じられている」
背後で、片腕の若い兵が口を開いた。
「人間を、わざわざ試す必要が?」
「ラグン。下がれ」
若い兵はアルトを睨んだ。
その目を見て、アルトは、ここへ来る前の自分もこんな顔をしていたのかと思った。
*
中庭の石は、雨で滑った。
ザハルの得物は大斧だった。
だが、腕力任せには振らなかった。
一撃ごとにアルトの立てる場所が減った。
肩の傷を見抜かれ、右へ追われる。
アルトは受けながら、呼吸を数えた。
試合なら、下がって立て直す。
しかし、下がった先には壁があった。
斧が来た。
アルトは大きく肩を庇った。
わざとだった。
ザハルの刃が、庇った側へ向かう。
その一瞬だけ、内側が空いた。
アルトは半歩、逆へ踏み込んだ。
鍔を相手の握りへ押し当て、短く刃を返した。
切っ先が喉へ触れた。
同時に、ザハルの肘が胸へ当たった。
息が詰まる。
互いに止まった。
「斬れるぞ」
ザハルが言った。
「そうだな」
「なぜ斬らない」
アルトは歯を食いしばった。
「斬ったら、お前の兵がミリアを殺す」
兵たちの槍は、たしかに彼女へ向いていた。
「それに、まだお前が何をしたいのか聞いてない」
ザハルの肘が離れた。
アルトも剣を下げた。
膝が震えていることを、下げてから知った。
*
通された部屋で、ミリアに叱られた。
「無理をしないでと言いました」
「無理をしなかったら死んでた」
「では、もう少し上手に無理をしてください」
「注文が難しいな」
彼女の手が打撲へ触れた。
アルトは息を止めた。
ザハルは治療が終わるまで待っていた。
「ここから先は、通行を認める」
印のある紙が置かれた。
「誰の命令だ」
ザハルは北の山を見た。
「お前が会いに行く相手だ」
ミリアの掌の光が止まった。
「魔王が?」
「そうだ」
「なんで」
「本人に聞きに行け」
からかわれてはいなかった。
そのことが、かえって気味悪かった。
*
出発前、兵舎の前でウルを見つけた。
脚には添え木がつき、杖を使っていた。
アルトに気づくと、水袋を差し出した。
借りたものだった。
「中身は」
「水だ」
「毒じゃなく?」
「確かめるか」
アルトが飲むと、ウルは初めて、ほんの少し笑った。
そのあと、笑うのをやめた。
「ガドの名を、覚えているか」
「覚えてる」
「忘れるな」
アルトは頷いた。
礼も、許すという言葉もなかった。
別れ際、ウルが杖を少し持ち上げた。
「その肩で北の坂を急ぐな。雨で石が崩れやすくなっている。転んだら、今度は俺が担ぐことになる」
アルトも水袋を持ち上げた。
「分かった」
彼らは仲間にはならなかった。
それでも、相手が転びそうなら、黙って見送る必要はなかった。




