敵の台所
魔族の町にも、洗濯物があった。
それが最初に驚いたことだった。
アシェルへ入る道には、白い布や小さな上着が干されていた。鍋を叩く音がし、パンを焼く匂いがした。
もっと恐ろしいものがあると思っていた。
人間の骨。
血の流れる溝。
聞いたこともない獣の鳴き声。
そういうものを想像していた自分を、アルトは初めて、はっきり恥ずかしいと思った。
通行証を見せると、番兵は長く二人を見た。
歓迎はされなかった。
ただ、追い返されもしなかった。
大通りへ入ると、話し声がいくつか止まった。
母親が子供を抱き上げた。
店の戸が閉まった。
銀白の鎧を見る視線が、刃のように感じられた。
小さな角の女の子が、通りの端に立ち尽くしていた。
片手に木の人形を持っている。
アルトが道を空けようとした時、子供が泣いた。
「にんげん」
それだけ言って、泣いた。
アルトは動けなくなった。
母親が駆けてきて、子供を抱き寄せた。
二人を睨み、急いで離れた。
ミリアは何も言わなかった。
アルトは胸の銀札を外套の内側へしまった。
*
指定された治療所では、角の短い女が待っていた。
セラと名乗った。
ザハルから話が来ているという。
「まず鎧を脱いで」
アルトが礼を言おうとすると、遮られた。
「礼は診てから。診たら金は貰う」
「人間でも?」
「人間だけ無料にする理由がない」
ミリアが、そうですね、と妙に強く頷いた。
治療所には、さまざまな負傷者がいた。
脚を失った男。
顔を包帯で覆った女。
熱を出して眠る子供。
戦傷だけではない。
畑で怪我をした者も、階段から落ちた者もいた。
セラはアルトの肩を確かめた。
「腕が動くからって、治ったと思わないこと」
「それ、私も何度も言ってるんです」
ミリアが横から口を挟んだ。
「なるほど。言っても聞かなそうな顔をしてるね」
「顔で判断するなよ」
アルトの抗議をよそに、ミリアとセラは揃って頷いた。
国境を越えても、叱られ方は変わらないらしかった。
*
薬代には、人間の硬貨が使えた。
重さを量り、銀の質を確かめ、値段を言われた。
「使えるんだな」
「銀に貴賤はないからね」
セラは硬貨を箱へ入れた。
ミリアが薬棚を見ていた。
「これ、王国では品薄です」
「こっちでは山に生える」
「こちらの止血布は?」
「南の麻を使ってる。近頃、来なくなった」
アルトは二人の顔を交互に見た。
「売り買いすればいいじゃないか」
セラは手を止めた。
「来られる商人はいる。でも、道が毎日開いているわけじゃない」
昨日まで歩いてきた山と砦が、別の形に見えた。
*
宿では、人間に部屋を貸すかどうかで揉めた。
通行証は通行の許可であって、歓迎の義務ではないと宿主は言った。
アルトには反論できなかった。
結局、セラが裏の物置を貸してくれた。
藁を替えれば眠れる。代金も掛かった。
「患者のいるところへ勝手に入らない。夜は出歩かない。揉め事を持ち込まない」
宿主の条件が三つあった。
二人とも頷いた。
夕方、アルトが井戸から水を運んでいると、昼間の女の子が道の向こうにいた。
母親は大きな鍋を持ち上げようとしていた。
片側の取っ手が外れている。
アルトは近づきかけ、止まった。
母親は何度か鍋を持ち直した。
湯がこぼれ、足元が濡れた。
「運ぶだけなら」
アルトが言うと、女は彼を見た。
長い沈黙のあと、鍋の片側を指した。
二人で運んだ。
台所は狭かった。
煮込んだ根菜の匂いがした。
壁の棚には、欠けた皿が重ねられていた。
人間の村にも、同じような台所があった。
鍋を置くと、子供が母親の後ろから顔を出した。
「たべる?」
皿に、煮えた人参が一本載っていた。
「嫌いなのか」
「きらいじゃない」
「じゃあ食べろよ」
「おれい」
アルトは笑った。
母親も、少しだけ口元を緩めた。
人参は柔らかかった。
味つけは薄く、知らない草の香りがした。
帰り道、ミリアに話すと、彼女は言った。
「敵地で最初に獲得した貢ぎ物ですね」
「人参一本」
「領土拡張は慎重にお願いします」
アルトは笑った。
だが、寝る前に、昼の子供の泣き声を思い出した。
自分があの子に何もしていないことは、あの子が何もされていない証拠にはならなかった。




