夜に書かないこと
ミリアの書く字には、二種類あった。
旅帳の字は小さく、行がよく揃っている。
私用の紙に書く字は、それより少し大きく、ときどき途中で止まっていた。
アルトが知ったのは、彼女が眠ってしまった夜だった。
灯りを消そうとすると、机代わりの箱に紙が一枚、広げられていた。
肩の痛みを軽く言う。
歩く速さは落ちている。
人参一本をもらって、あんなに嬉しそうな顔をする。
その下に、一行あった。
この人が帰らなかったら。
続きは書かれていなかった。
アルトは紙を裏返し、灯りを消した。
*
翌朝、それを見たと正直に話すと、ミリアは両手で顔を覆った。
「見たんですか」
「途中まで」
「途中までが一番よくないんです」
「最後まで書いてなかった」
「そういう指摘を求めているのではなく」
彼女は顔を上げた。
耳まで赤かった。
アルトは荷物の紐を結び直した。
「帰るよ」
「その一言で済まないから、書けなかったんです」
声がいつもの調子から少し外れた。
しばらくして、ミリアは内袋から古い紙を取り出した。
「兄の通知です」
折り目が擦り切れかけていた。
トマ。
六年前、セイル街道。
補給隊への襲撃により戦死。
そのあとに、故郷を想い、最期まで勇敢に、という文章が続いていた。
「最初は、何度も読みました。怖くなかったんだと思いたくて。私たちのことを思い出してくれたんだと思いたくて」
彼女は紙を丁寧に伸ばした。
「記録院へ入ってから、同じ文章を見つけたんです」
「同じ?」
「別の人の通知でした。名前だけ違って、全部同じでした」
アルトは紙を見た。
兄の最期を知っているように書かれた文章だった。
「だから記録官に?」
「それより前に、なろうと思っていました。兄は、私の字を褒めてくれたので」
ミリアは少し笑った。
「字が綺麗なら、嘘まで綺麗に書けるんですね」
アルトは何も言えなかった。
「私も書きました。分からないまま。家族のことを想い、立派に戦った、と。その方が遺族が救われると教わって、私もそう思おうとしました」
彼女は古い紙を畳んだ。
「兄の死んだ道が、この先の記録につながっているかもしれません。だから志願しました。あなたのためだけに来たわけじゃありません」
「分かってる」
「本当に?」
「俺だって、お前のために勇者になったわけじゃない」
ミリアが顔を上げた。
アルトは自分の言い方が悪かったと気づいた。
「いや、最初は、って話だ」
「最初は?」
聞き返されると、先が出てこなかった。
ミリアは長く彼を見ていた。
やがて、先に目を逸らした。
「そこは、書かないでおきます」
*
町を出る前、二人は焼菓子の店へ寄った。
王都のものより色が濃く、表面に細かな種がついていた。
ミリアは半分食べてから、残りを眺めた。
「王都の南門に、もっと柔らかいのを売る店があります」
「自慢?」
「情報提供です」
「帰ったら連れていけよ」
「お金は」
「俺が出す」
ミリアが振り向いた。
「それ、旅費じゃなく?」
「自分の金で」
「予備費じゃなく?」
「菓子代で」
彼女は笑った。
それから残りを食べ、飲み込んでから言った。
「では、帰ってから、もう一度誘ってください」
「今じゃ駄目なのか」
「今の約束を、最後の約束にしたくないので」
アルトは頷いた。
紙包みの底には、細かな粉が残っていた。
ミリアはそれを指で集めて食べた。
アルトは、そんな何でもない仕草まで、覚えていたいと思った。
*
北へ向かう道には、敵の姿がなかった。
補修された橋。
通れる峠。
道端へ寄せられた落石。
歩きやすくなるほど、アルトの胸は重くなった。
助けられている。
しかも、その相手は、自分が殺しに行く相手だった。
「ここまでの全部が、試験だったと思いますか」
ある夕方、ミリアが尋ねた。
「分からない。でもベルトも、サーヴェルも、あの橋も、俺のための試験で片づけたくない」
アルトが答えると、彼女は頷いた。
「確かめましょう」
山の向こうには、まだ城は見えなかった。
ただ、その日の道は、夕暮れまで静かだった。




