橋で捨てたもの
川に架かる吊り橋は、地図より古かった。
「地図が新しすぎるのかもしれません」
「橋が古いのを遠回しに言うな」
板の何枚かが抜け、縄には苔がついていた。
それでも、上流へ迂回するよりは早い。
夜明けから雨が続いていた。
山の水を集めた川は茶色く濁り、岩へぶつかるたび白い泡を上げていた。
アルトは足場を確かめながら進んだ。
ミリアは少し離れてついてくる。
「揺らさないでください」
「揺らしてない」
「揺れています」
「俺に言うより、橋と相談してくれ」
笑わせようとして言った。
ミリアは笑わなかった。
対岸へもう少しというところで、木々の間から兵士が現れた。
こちらを見て笛を吹く。
それから、橋を支える片側の綱へ鉈を振り下ろした。
「走れ!」
アルトは振り返った。
ミリアの足が、腐った板を踏み抜いていた。
彼が戻りかけた時、綱が切れた。
橋が傾いた。
アルトは残った綱へ左腕を絡め、右手でミリアの手首を掴んだ。
彼女の身体が宙に浮いた。
荷袋が川へ引かれる。
肩の奥で、熱いものが裂けた。
「足を掛けろ!」
ミリアは残った板を探した。
濡れた靴が滑った。
荷袋の外側へ括りつけていた辞書と薬包の束が、壊れた欄干に引っかかっていた。
彼女は反射的に、辞書へ手を伸ばしかけた。
「お前が先だ!」
アルトの声で、動きが止まった。
ミリアは小刀を抜き、引っかかった外付けの束を留める紐を切った。
辞書が川へ落ちた。
薬包が続いた。
身体が上がった。
アルトは彼女の肘を岸の縁へ押しつけ、自分も転がるように這い上がった。
対岸の兵士が鉈を捨て、槍を構えて近づいてきた。
アルトは抜剣する暇もなく、ミリアを背に庇った。
穂先が肩をかすめる。
柄を掴み、引いた。
相手が足を崩した瞬間、ミリアが垂れた縄を足元へ投げた。兵士が転び、アルトは槍を奪った。
笛に応える音が、森の奥から聞こえた。
「行くぞ!」
戦うのではなく、逃げた。
追う足音が消えるまで、二人は振り返らなかった。
*
岩陰を見つけた頃、アルトの右腕は上がらなくなっていた。
ミリアは外套を脱がせ、肩を確かめた。
「しばらく無理をしないでください」
「無理しない勇者なんて、格好つかないだろ」
「生きて帰ってくる方が、ずっと格好いいですよ」
反論できなかった。
薬を使い、傷へ光を当てる。
それでも、腕の重さは消えなかった。
荷物を広げ、残っているものを一つずつ確かめた。
旅帳と兄の通知は、ミリアの胸の内袋にあった。
荷袋の本体も無事だった。
失ったのは辞書一冊と、外へ括っていた薬と衣類。
アルトの干し肉も、その束に入っていた。
「干し肉が一番痛い」
「私の辞書より?」
「食えないだろ、辞書」
「食べられるものの名前は載っています」
「余計に腹が減る」
ミリアが笑った。
笑ってから、急に黙った。
「すみません」
「何が」
「辞書を掴もうとしました」
「大事なんだろ」
「あなたの手を、離すところでした」
雨水が岩を伝って落ちていた。
アルトは左手で干し梨を取り出し、半分に折ろうとした。
うまく折れなかった。
ミリアが受け取り、二つに分けた。
大きい方をアルトへ渡す。
「そっち、小さくない?」
「記録官の目分量です」
ミリアは梨を噛んだ。
「次は、あなたを先にします」
アルトも梨を噛んだ。
甘かった。
村を出てから食べたものの中で、一番甘い気がした。
*
その夜、ミリアはアルトの外套を縫った。
針は、村で借りたものだった。
「返すんですか」
「帰ったら」
「では、川に落とせませんし、帰らねばなりませんね」
針が布をくぐった。
灯りの中で、細い糸が引かれていく。
アルトは横になり、その手を見ていた。
*
報せが山奥の城へ届いたのは、数日後だった。
人間二名、境界を突破。
一名は王国の勇者を名乗る。
巡回兵ウルの証言によれば、負傷の処置と飲料水の提供を受けたとのこと。
黒い甲冑の男は、取り寄せた王国の公示を読んだ。
アルト。
トール村出身。
男はその名を初めて知った。
「ザハルへ回せ」
伝令が顔を上げた。
「砦まで来たら、勇者の剣を確かめさせろ。そこへ着くまでは道を開けるな」
男は別の保存記録へ目を移した。
撤退した兵の数。
残された負傷者の数。
その下を指で叩いた。
「誰が決めたかがない。軍務局へ戻せ。決めた者の名を、空欄にするな」
伝令が出ていくと、部屋は紙をめくる音だけになった。




