敵の水
夜になっても、手の感触が消えなかった。
二人は丘の裏で、火を小さくした。
暗くなる前にもう少し進むべきだったが、アルトの身体が言うことを聞かなかった。
近くの流れで剣を洗った。
血はすぐ落ちた。
落ちないものがある気がして、もう一度洗った。
指が痺れた頃、ミリアに止められた。
「錆びます」
「そうだな」
「手も冷えています」
乾いた布を渡された。
「俺がやらなかったら、お前が射られた」
「はい」
「だから、間違ってないはずだ」
「あなたを責めていません」
責められないことが、かえって苦しかった。
正しい順番で身体が動いた。
稽古で褒められた通りに剣を入れた。
その結果、さっきまで剣を握っていた相手が、 動かなくなった。
それをどこへ置けばいいのか、教わっていなかった。
*
逃げた兵士のことを、忘れられなかった。
斜面の下へ落ちる時、何か折れるような音がした。
走り去る足音は聞かなかった。
「見てくる」
アルトが言うと、ミリアは火を消した。
「一人では、行かせません」
男は岩の下にいた。
片脚が倒木に挟まれ、身動きが取れなくなっていた。片方の角が折れている。二人を見ると、腰の短剣を抜こうとした。
「動くな」
アルトが剣へ手を掛けると、男は指を止めた。
唇が乾いて割れていた。
「……水」
人間の言葉だった。
アルトはミリアを見た。
彼女の顔が硬くなっていた。
「助けるのか」
「どうするつもりです」
問われた方が、問い返した。
男は、もう一度、水、と言った。
「生かしたら、俺らのことを知らせるかもしれない」
「はい」
「殺せば、それはない」
「はい」
ミリアは答えを急がず、アルトを見ていた。
アルトは膝をつき、男へ水袋を近づけた。
男は顔を背けた。
毒だと思ったのかもしれない。
アルトは自分で一口飲んだ。
「全部飲むなよ。俺らも使う」
男は水を飲んだ。
途中でむせ、胸を上下させた。
ミリアが背後から来た。
「短剣をこちらへ」
男が警戒した。
彼女は手を引かなかった。
「傷を診ます。私を刺せるものを持ったままでは、近づけません」
長い沈黙のあと、短剣が草の上へ置かれた。
二人で木を持ち上げ、脚を引き出す。
男の顔が汗で濡れた。
骨が折れていた。
ミリアは木の枝を使って脚を支え、布で固定した。傷へ光を当てたが、骨を元通りにすることはできなかった。
手つきは確かだった。
それなのに、最後の結び目だけ何度も締め直した。
「もういい」
男が言った。
「痛いですか」
「……お前の手が、震えている」
ミリアの指が止まった。
*
朝、男はウルと名乗った。
近くに、自軍の巡回が通る場所があるという。
そこまで運べば、アルトたちは先へ進める。
「嘘だったら?」
「死ぬ」
ウルは自分の脚を見た。
「お前たちも、俺も」
枝と外套で簡単な担架を作った。
二人で何度も休みながら運んだ。
巡回路の見える岩陰まで来ると、ウルが、ここでいい、と言った。
アルトは水袋を横へ置いた。
「いつか返せよ」
「敵同士なのに、また会う気か」
「水袋、安くないんだ」
ウルは笑わなかった。
しばらくして尋ねた。
「ガドは」
聞き覚えのない名前だった。
「一緒にいた、剣を持った奴のことか」
「ああ」
アルトは答えられなかった。
昨日、自分が斬った相手だった。
ウルが目を閉じた。
「そうか」
礼は言われなかった。
アルトも、言われなくてよかったと思った。
*
巡回路を離れてから、ミリアが吐いた。
アルトは背をさすろうとした。
彼女が手を上げたので、少し離れて待った。
「兄が」
しばらくして、ミリアが言った。
「私の兄は、魔族に殺されました」
川の音が遠くから聞こえていた。
「六年前です。補給隊にいて。届いた通知には、立派に戦ったと書いてありました」
アルトは何も言わなかった。
「だから、あの男を助けなくてもいい理由は、いくらでも出てきたんです」
ミリアは口元を拭いた。
「出てきすぎて、どれが今の私の考えなのか、分からなくなりました」
アルトは彼女の水袋を差し出した。
「嫌なら、次は言え」
「言ったら、置いていきましたか」
彼は答えに詰まった。
ミリアは疲れた顔で、少し笑った。
「そういうところだと思いました」
しばらく休んでから、二人は歩き出した。
その日は、木が綺麗だという話をしなかった。
アルトは聞かずに歩幅を落とした。




