安い勇者
朝、外門の前に血の跡が残っていた。
サーヴェルの身体は見つからなかった。
ベルトの行方も分からなかった。
敵が引いたあとを偵察したが、二人が倒れた付近には、何かを運び去った跡しかなかったという。
死んだと決められないことは、安心できることではなかった。
朝食の粥は塩辛かった。
昨日までならミリアに何か言っていた。
今朝は黙って食べた。
「私は、ここから先も行きます」
ミリアが言った。
「義務はここまでだろ」
「はい」
「帰れないかもしれないだろ」
「はい」
彼女はアルトの返事を待った。
「怖くないのか」
「怖いですよ」
「なら――」
「怖くない人だけが行くところでは、ないでしょう」
彼女の手が、薬箱の留め金に触れていた。
閉める。
開ける。
また閉める。
アルトはその動きを見てから頷いた。
「じゃあ、危ないから俺の後ろを歩け」
「道は分かるんですか?」
「分からん」
「では、地図を見てから格好つけてください」
少しだけ、いつもの声が戻った。
*
出発前、アルトはガレスを訪ねた。
「なんで俺なんだ」
司令官は書類から顔を上げた。
「勇者にした理由か」
「もっと強い奴がいるだろ。騎士も、兵隊も」
ガレスは椅子へ背を預けた。
「剣の腕は、候補の中で最上位だった」
「候補に入れた理由は」
「推薦だ。領内試合で勝った。その前に、負傷した相手を運ぶため、自分の試合を遅らせた」
「それが何だ」
「前へ出られる。勝つ以外の判断ができる。調べた範囲では、金で任務を売る男でもない」
アルトは黙っていた。
ガレスは続きを言わなかった。
だから、こちらから聞いた。
「それだけか」
司令官の視線が変わった。
「名門の跡継ぎを失えば、軍の指揮系統にも領地の継承にも影響が出る。優れた部隊長を一人抜けば、その部隊の兵が死ぬこともある」
「俺なら、いなくなっても困らない?」
「国の仕組みは、そう見積もる」
アルトは、思っていたほど驚かなかった。
選ぶ側は、誰かを選ばなければならない。
その時、重い名前と軽い名前がある。
彼は肩の袋を引き上げた。
「これ、何が入ってると思う」
ガレスは答えなかった。
「村でもらったものだ。食い物とか、靴下とか。俺が帰らないと返せない針も入ってる」
子供じみたことを言っている気がした。
だが、やめられなかった。
「決して安くないぞ」
ガレスは袋を見た。
それから、ゆっくり頷いた。
「そうだな」
否定されるより、腹が立った。
「分かってるなら」
「分かっていることと、やらずに済むことは違う」
「それ、便利だな」
アルトが言うと、ガレスは目を逸らさなかった。
「便利だ。『仕方がなかった』と言えば、命令する側はそれで済ませられる」
ガレスはアルトを見た。
「だから、お前たちには怒る権利がある。俺たちに、仕方がなかったで終わらせないためにな」
アルトは何も返さず、部屋を出た。
*
砦の北へ出る時、外門の横に小さな木札が置かれていた。
帰っていない兵の名前だった。
ベルト。
サーヴェル。
そのほかにも何人もいた。
アルトは木札へ触れなかった。
触れれば、できるか分からない約束までしてしまいそうだった。
*
北の地図は、白いところほど道が悪かった。
歩き始めて二日で、そのことを覚えた。
人間の補給所はない。
旗のある道は敵の巡回路なので避ける。
川沿いは歩きやすいが、足跡が残る。
ミリアが地図を見て、アルトが先に進む。
いつの間にか、そういう役割になった。
夕方、丘を越えたところで、敵の偵察兵と出会った。
角のある兵士が二人。
一人は弓を持ち、もう一人は剣へ手を掛けた。
アルトが声を出すより早く、矢が飛んだ。
ミリアの肩越しで木が鳴った。
アルトは前へ出た。
剣を抜き、間合いを詰めた。
稽古で何千回も繰り返した足運び。
相手の剣が戻る前に、空いた脇へ入れる一撃。
刃が肉に入った時だけ、稽古と違った。
相手の身体が重くなった。
男はアルトの腕を掴んだ。
驚いたような顔をしていた。
アルトも、同じ顔をしていたと思う。
男は崩れ落ちた。
もう一人が弓を捨てて逃げた。
斜面を駆け下りる途中で足を滑らせ、岩の向こうへ消えた。
追おうとしたアルトの袖を、ミリアが掴んだ。
「待って」
彼は剣を握ったまま振り返った。
ミリアが見ていたのは、倒れた男だった。
男はもう、動いていなかった。
アルトは剣を拭こうとしたが、どの布を使えばいいのか分からなかった。
荷袋には、村でもらった布しか入っていなかった。




