パンの代金
王都を出て三日目には、アルトはミリアの歩き方を覚えていた。
元気な時は少し前を歩く。
考え事をすると右へ寄る。
空腹になると返事が短くなる。
足が痛い時だけ、景色を褒めた。
「今日は、木が綺麗ですね」
「昨日も木だった」
「種類が違います」
「足、見せろ」
道端へ座らせると、踵の皮が剝けていた。
ミリアは、治癒術師と旅慣れた人間は別の職業だと、聞かれてもいない説明をした。
アルトは村でもらった柔らかい布を細く切り、靴の内側へ当てた。
「大事な布じゃないんですか」
「お前が歩けなくなったら困るだろ」
「……心配してくれているんですか?」
「そりゃそうだ。道案内がいなくなるからな」
「今の感謝、少し返してください」
休んでいる間、軍の車列が通った。
矢束の荷車は乾いた音を立て、鉄材の車は轍を越えるたび鳴った。麦を積んだ車は静かだった。
アルトの村から徴発された麦も、この道を通ったのだろう。
幌の陰で、若い兵士が口を開けて眠っていた。
その時、前方で木の折れる音がした。
酒樽を積んだ荷車が、軍の車列へ道を譲ろうとして斜面に傾いていた。車軸が折れたのだ。転げた樽の下から、老人の脚が見えている。
アルトは荷物を捨てて走った。
肩を入れる。
樽はわずかに浮いたが、老人が悲鳴を上げたので、思わず力を緩めそうになった。
「そのまま!」
ミリアの声だった。
「あなたは、そちらから引いて。裾が挟まっています。おじいさん、切りますよ。まだ動かなくていいです」
中年の女が老人の脇を抱えた。
軍用車列からも兵士が二人駆けてきた。
三人で持ち上げ、二人が引き出す。
樽から手を離しても、アルトの肩には重さが残った。
彼は外套を丸め、老人の頭の下へ差し入れた。
老人の唇が動いた。
「……酒」
アルトは老人の顔を覗き込んだ。
「酒? 飲みたいのか?」
「飲ませないでください」
ミリアが即座に制した。
「ちが……栓が……」
老人が震える指で示した先では、樽から赤い酒が流れ出していた。
女が泣きそうな顔で怒鳴った。
「脚より酒が大事なら、今夜から酒樽を親父って呼ぶよ!」
ミリアが一度だけ下を向いた。
そのあと、掌に淡い光が灯った。
老人の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
「治ったのか」
アルトが聞くと、ミリアは首を振った。
「まだです。傷を塞ぐ助けはできますが、失った血は戻りません。動かさず、町へ運びます」
女はハンナと名乗った。
リュゼを拠点に運送をしている商人で、負傷したのは父親だという。
銀札に気づいた途端、勇者を足止めしたと謝り始めた。
「悪いね。北へ急いでるんだろう」
「その前に、あんたの親父を町まで運ぶ」
「じゃあ、何で返せばいい?」
「帰りに酒を安くしてくれ」
「それなら、帰ってこなきゃね」
その時は、本当にそれだけの約束だった。
*
リュゼの宿の食堂には、パンを持った男の絵が掛かっていた。
銀白の鎧。青い外套。
けれど、絵本より鼻が少し曲がっていて、口元の片方が上がっている。
「あれ、レオンか?」
女主人が頷いた。
「城へ行くより、ずっと前の絵だけどね。凶作の年に、王様からもらった褒美を置いていったんだよ」
「記録にあります」とミリアが言った。「食料購入資金の供出」
「硬いねえ。本人は、俺に金を食わせる気か、って怒っていたよ」
アルトが吹き出した。
「帰りの宿代までなくなって、うちの亭主が貸したのさ」
「返ってきた?」
「まだだね」
「ひどい英雄だな」
女主人は皿を置いた。
「亭主は死ぬまで自慢していたよ。利子の代わりにはなったんだろうね」
厨房へ戻る背中を見送り、ミリアが鞄から写本を出した。
レオンの報告書を自分で抜き書きしたものだった。
古い紙に、新しい綴じ糸が使われている。
「好きなんだな」
「はい」
意外なほど素直な返事だった。
「この人、失敗を書くんです。地形を見落とした。報告を待たなかった。自分が命令を急いだから、兵を死なせた」
「失敗くらい誰でもするだろ」
「自分の名前で残す人は、あまりいません」
アルトは頁を覗いた。
死者の人数のあとに、命令した者の名前があった。
レオン。
ミリアは、その文字を隠さないように紙を押さえていた。
「この人の報告には、最後まで本人がいるんです」
宿代を借りる。
パンを配る。
自分の失敗を書く。
アルトは絵本で剣を掲げている時より、レオンに会ってみたくなった。
*
その夜、アルトの外套は乾かなかった。
乾燥室の前で裾を摘まんでいると、ミリアが靴を持ってきた。
「明日、酔っ払っても叱るなよ」
「勇者、衣服で泥酔。そう書いておきます」
「人を助けたことも書けよ」
「書きました」
アルトが手を伸ばすと、彼女は帳面を胸へ引き寄せた。
「読んでいい?」
「本日分は閉館しました」
仕方なく、彼女の靴を棚へ載せた。
踵の布がずれていたので、内側へ押し込んでおく。
翌朝、ミリアは何も言わなかった。
ただ、アルトが歩幅を落とすと、足はもう痛くありません、と言った。
「じゃあ、先に行っていいぞ」
「嫌です」
「なんで」
「目を離したら、また荷車に轢かれそうなので」
「一回ぶつかりかけただけだろ」
「一回目で反省してください」
二人は並んで町を出た。
風向きが変わるたび、酒の匂いがした。
そのたびに、ミリアが少しだけ笑った。




