帰れと願い、行けと命じる
ローデリク三世は、村の役場の肖像画より、ずっと老いていた。
玉座に座りながら、右手で左手の関節を押している。
アルトはその動きを見て、冬に指が痛むと言っていた父を思い出した。
「トール村のアルト。そなたをローデリク三世の名において、王国の勇者に任ずる」
片膝をついた。
逆です、と直前にミリアから囁かれたことは、考えないようにした。
胸へ、小さな銀札が掛けられた。
自分の名前が刻まれている。
広場の旗と違い、綴りも合っていた。
「北へ向かい、魔王を討て」
王の声が広い部屋に響いた。
その瞬間、アルトは、自分ならできると思った。
春の領内試合で勝った。
推薦されて受けた王軍の試験でも、最後まで立っていた。
日が落ちてから、畑の仕事が終わってから、掌の皮が剝けても剣を振った。
その全部が、ここへつながっていたのだと思いたかった。
「レオンを知っているか」
王が尋ねた。
「絵本でなら」
「何と書いてある」
「魔王を倒して、皆が幸せに暮らしたと」
玉座の脇の軍人が、わずかに目を伏せた。
王は関節を押す手を止めた。
「私がまだ王子だった頃、あの男もそこへ立った。勇ましいことを言ったはずだが、思い出せん」
「勇ましくないことなら?」
「帰りに酒を奢れと」
アルトは顔を上げた。
「そちらは、覚えている」
軍人が前へ出た。
北部方面軍司令官、ガレス・オルブライト。
大きな身体を礼装へ押し込んだ男だった。頬の古傷より、爪の間に残る黒い汚れの方が、アルトには親しみやすく見えた。
「前線までは補給所を使え。それより北の安全は保証できん。銀札を見せたとて、剣を収める相手ではない」
「分かってる」
「これから分かる」
ガレスは地図を開いた。
王都、宿場町リュゼ、ベルグ砦。
その先は山と川の線だけになり、地名が急に減っていた。
隣には別の地図があった。
赤い線が東へ延びている。付箋の印も、北の地図とは違っていた。
「そっちは?」
「帝国との境だ」
「同じ軍じゃないのか」
「王軍のほかに領主の兵がいる。誰が命じ、誰へ報告するかも違う」
「敵が来たら、一緒に戦うんだろ」
「そうさせるのが仕事だ」
ガレスは地図を畳んだ。
簡単な話ではない、ということだけは分かった。
退出しようとした時、王に呼び止められた。
「死んで英雄になるな」
アルトは振り返った。
「生きて帰れ」
その声だけは、玉座からではなく、一人の老人から聞こえた気がした。
*
与えられた鎧は、絵本と同じ銀白色だった。
ただし、着ると脇が擦れた。
首を振るたび、肩当てが顎に当たった。
「魔王より先に、鎧があなたを倒しますね」
「笑ってないで手伝え」
「今、笑うのと手伝うのを同時にしています」
ミリアが紐を解く。
装具係は笑わず、当たる部分へ柔らかい革を縫いつけた。
「動けるようにするから、不都合は全部言え。飾るための鎧じゃない」
新しい剣は、村のものより軽かった。
振り抜いたあと、手元へ戻る重さまで違う。
アルトが構え直していると、ミリアが古い剣を持ち上げた。
「こちらも持っていくんですか」
「捨てたら鍛冶屋の爺さんが夢に出る」
「亡くなった方?」
「生きてても来る」
彼女が声を立てて笑った。
*
宿の食堂で、ミリアは旅費を数えた。
宿代。食費。薬代。
最後に小さく分けた硬貨の山を、アルトは指さした。
「予備費です」
「この予備費は、砂糖の匂いがするな」
「しません。非常時のためのお金です」
「お菓子が切れたら非常事態だろ?」
「非常時の定義を勝手に変えないでください」
帳面で指を叩かれた。
東の地図について聞くと、ミリアは古い鉱山と川の水を引く権利を巡って、揉め事が続いていると教えてくれた。
「魔王と戦ってるのに、人間同士で?」
「魔王と戦っていても、鉱山は必要ですから」
「先に魔王を倒せばいいだろ」
「そのあとなら、仲よく分けられますか」
アルトは答えられなかった。
ミリアは硬貨を静かに袋へ戻した。
食堂の隅で兵士たちが歌い始めた。
一人が歌詞を忘れ、隣の男に頭を叩かれている。
「お前は、俺について何を書くんだ」
「何があったか。誰に会ったか。どこへ行ったか」
「魔王を倒したか、とかか?」
「それもです」
「倒せなかったら?」
ミリアは筆を置いた。
「届かなくなった手紙の、最後を書くことがあります」
意味が分かるまで、少しかかった。
「死んだって知らせるのか」
「名前を確かめ、部隊を確かめ、分かることを書きます」
「分からなかったら?」
「分からないと、書くべきです」
べきです、という言い方が、ほかの言葉から少し離れていた。
アルトは広場の空白を思い出した。
「じゃあ今回は、帰ってきたって書こう」
ミリアは皿へ目を落とした。
何か答えかけて、代わりに、彼の肘の横を指した。
「まずは豆を食器の中へ戻してください。勇者の行く先が豆まみれです」
三粒こぼれていた。
アルトは二粒拾った。
三粒目は、ミリアが取った。




