勇者様は、まだ生きている
見送りはいらないと言ってあったので、村の入口には全員いた。
「聞いてた?」
「聞いてたよ」
「じゃあ、なんでいる」
「道の掃除だ」
村長が答えた。
その手には酒瓶があった。
荷物はさらに増えた。誰かが袋を閉じると、別の誰かが開けた。干し肉を押し込まれたあとで蜂蜜の壺を渡され、アルトは、もう魔王を背負って帰るしかないと思った。
人垣の外にヨハンがいた。
二つ年上の、隣の畑の持ち主だった。アルトの父が亡くなった晩、何も聞かずに家へ来て、焦げた鍋を洗ってくれた男だ。
ヨハンの長兄は北の戦場にいる。
手紙は三か月、届いていない。
先日は末の弟ニコにも徴兵状が来た。
「畑、頼む」
「うちの方が先だ」
「分かってる」
「草だらけでも文句言うなよ」
「それは言う」
ヨハンは口元だけで笑い、荷袋の肩紐を引いて確かめた。
「また、言いに帰って来い」
アルトは頷いた。
皆に手を振って歩き出すと、背中からまだ名前を呼ばれた。何度も振り返ったせいで、村が見えなくなるまで随分かかった。
*
王都エルディアは、思っていたより臭かった。
焼いた肉と馬糞、汗と濡れた石の匂いが、門の向こうから一度に押し寄せてくる。
アルトが建物の高さに感心していると、後ろから怒鳴られた。
「荷車!」
積まれた樽に肩をつつかれた。
慌てて避けたら、誰かの足を踏んだ。
「叱られる方は、順番にお願いします」
若い女の声だった。
栗色の髪を肩で切り揃え、灰色の外套を着ている。胸には羽根と歯車を組み合わせた徽章。片腕に革表紙の帳面、もう片方の手に砂糖のついた焼菓子を持っていた。
目が合うと、彼女は菓子を背中へ隠した。
少し遅かった。
「トール村のアルトさんですね」
「そうだけど。なんで分かった?」
「召集状を持って荷馬車の列に並んでいる方は、ほかにいません」
「こっちだって言われた」
「手の向きを逆に読まれたのでしょう」
女は小さく頭を下げた。
「王立記録院のミリアです。遠征に同行します」
「ずっと?」
「義務は前線のベルグ砦までです。その先は私の判断になります」
「剣、使える?」
「あなたほどには」
「じゃあ、何を」
「まずは今踏まれた足を治します」
アルトは飛び退いた。
ミリアが笑った。
隠していた菓子も、もう一度出てきた。
「治癒術師の資格があります。傷を負った時には呼んでください」
「今の治療費は」
「旅費から引きます」
「悪かった」
「冗談です。何でも本気にすると、王都では財布が足りませんよ」
門を抜けた広場には青い旗が並んでいた。
旗に描かれた青年は、金髪で、鼻が高く、顎が細かった。
その下に、アルト、と書いてある。
「誰だ、これ」
「あなたです」
「俺、黒髪だぞ」
「出発に間に合う絵を用意したのでしょう」
「間に合ってないだろ。俺が来たのに」
旗売りの男が口を挟んだ。
「顔はずっと同じだよ。名前だけ変えてる」
「俺に許可は?」
「勇者様、おひとついかがです」
「いらん」
ミリアは肩を震わせていた。
その先で、石工が新しい銘板を磨いていた。
アルトは足を止めた。
自分の名前が彫ってあった。
「まだ死んでないんだけど」
石工は顔を上げ、ああ本人か、と言った。
「任命の記念だ。右の欄は、帰ってきてから埋める」
「死んだら?」
「確認できたことを刻む」
「確認できなかったら?」
「空けておく」
広場の端には、同じ形の碑が並んでいた。
途中帰還。
負傷により任務中止。
消息不明。
古いものには、レオンの名があった。
帰還せず。
相打ちとも、死亡とも書かれていない。
絵本の方が、石より多くを知っていた。
「戻った人もいるんだな」
「途中からなら」とミリアが言った。「レオン以降、城へ到達したことが確かめられた勇者はいません」
「お前は、そこへ続きを書きに行くのか」
ミリアは返事をする前に、帳面の背を撫でた。
「はい」
石工が銘板を持ち上げようとし、腰を押さえた。
アルトは反射的に片側を持った。
「どこへ?」
「後ろの台だ。そう。割るなよ、お前さんのだから」
「自分の碑を運ぶ勇者って、ほかにいる?」
「初めて見たよ」
ミリアが帳面を開いた。
「こんなことは書かなくていい」
「さすが勇者様。すごい力持ちですね」
「もっと重いものを背負って帰る予定なんでな」
台へ載せ、手についた石の粉を払った時だった。
広場の向こうで、小さな女の子が母親の袖を引いた。
「あの人が勝ったら、お父ちゃん帰るの?」
母親は答えなかった。
娘の襟を直し、何かを言おうとして、やめた。
アルトの手が止まった。
王都へ来てから、知らないものばかりだった。
なのに、その子の声だけは、ヨハンの家と同じ場所から聞こえた。
ミリアは帳面を閉じた。
「食事にしましょう」
「王様に会うんじゃないのか」
「空腹で会うと、余計なことまで言いそうなので」
「俺が?」
「ほかに誰が」
アルトは彼女について歩いた。
一度だけ振り返ると、石工が、空白の帰還欄についた粉を払っていた。




