引き継がなかったもの
エドの家で戸を開けた女は、ミリアの徽章を見てから、封筒を見た。
「もう、聞いています」
ミリアは頷いた。
「今日は、手紙を持ってきました。ご本人が持っていたものです」
奥で、幼い子が椅子を引きずっていた。
踏み台にして棚へ届こうとしているらしい。
女が振り返った。
「フィナ、危ないから」
「まだ何もしてない」
子供が答えた。
エドが会いたがっていた娘だった。
女は封筒を受け取り、中の紙を開いた。
長い間、動かなかった。
「私の字です」
ミリアは戸口に立っていた。
「フィナが生まれた時に書いたもの」
フィナが椅子から下り、母親の袖を引いた。
「お父さんの?」
女は屈み、娘の顔を見た。
「お母さんが、お父さんに出した手紙」
「お返事は?」
女は答えなかった。
娘の手を握り、そのまま立ち上がった。
「最期に、何か言っていましたか」
ミリアは、何度も書いた文章を思い出した。
家族を想い。
祖国のために。
最期まで勇敢に。
それらしい言葉なら、いくらでも書けた。
けれど、自分が聞いていない言葉を、エドの最期の言葉にするわけにはいかなかった。
「私は、その時には一緒にいませんでした。砦へ先に向かっていたので」
女の手が止まった。
「傷の手当てをしたセラさんと、最後までそばにいたアルトに確かめました」
ミリアは息を継いだ。
「セラさんには、言葉としては聞き取れなかったそうです。アルトは、『フィ』という声を聞いたと」
フィナが顔を上げた。
ミリアは女を見て、続けた。
「娘さんの名を呼ぼうとしたのかもしれない。でも、そうだったと言い切ることはできないと、本人は言っていました」
女は手紙へ目を落とした。
「私が直接お会いしたのは、その朝です。娘さんにまだ会えていないと話していました。手紙も見せようとしてくれたのですが、私は先に名簿の確認をお願いしました」
あの時は、あとで聞けると思っていた。
エドは怒らなかった。
分かっている、見せたかっただけだと笑った。
その声を、ミリアは覚えていた。
「折り目を確かめて、丁寧にしまっていました」
封筒の角を押さえていた、不揃いな指が思い浮かんだ。
「大切に持っていました」
それだけは、自分の目で見たことだった。
女は頷かなかった。
礼も言わなかった。
ミリアが帰ろうとすると、呼び止められた。
「中へ。道、寒かったでしょう」
断りかけた。
だが、女の手は、まだ手紙から離れていなかった。
ミリアは靴の泥を落とし、部屋へ入った。
薄い茶が出た。
椀の縁が少し欠けていた。
フィナは手紙を見たがった。
母親は破らないようにと言い、娘を膝へ乗せて、二人で紙を持った。
しばらくして、女が夫の話を始めた。
ミリアは、書いてもよいか尋ねた。
「誰かが読むんですか」
「今から聞かせていただく、暮らしのお話を残したいんです。誰かへ見せる時には、先に相談します」
女は考え、やがて頷いた。
「買い物の話からでも、いいですか」
「はい」
「あの人、頼んだものを、いつも一つだけ忘れてきて。買ってきたものは自慢するんです。安かったぞ、って」
声が一度止まった。
「忘れたものを言うと、また買いに行くんですけどね」
ミリアは新しい紙を開いた。
作戦の記録には載らない、エドの話だった。
*
北の部隊配置が落ち着くと、アルトはレオンとともに魔王城へ戻った。
雪が降り始めた頃には、自分の名前を書く練習をしていた。
右腕は少しずつ上がるようになった。
だが、長く筆を持つと肩の奥が痛んだ。
左手で書いた字は、学び舎にいた頃よりひどかった。
ザハルが紙を見た。
「読めなければ、命令は届かん」
「聞き返してくれ」
「前線の兵が返事を待っている間に、敵が来たらどうする」
アルトは新しい紙を出した。
「もう一枚、書く」
あの救出で得た代理権限は、すでに終わっていた。
今のアルトは魔王ではない。
レオンのそばで軍務を学び、後継者になれるかどうかを、諸族の代表たちに見られているところだった。
分からない地名がいくつもあった。
地図と現地の道が違う場所もあった。
誰の土地か。
誰が守っているか。
誰が兵の食料を出しているか。
どの問いにも、同じ人物の名前が返ってくるわけではなかった。
*
会議で、ラグンが一枚の報告を差し出した。
「俺の部下だ。東の渡しで脚を斬られた」
アルトは紙を受け取った。
「治療所へ運ぶ人手が足りず、長く現場で待たされた。あの日、担架と運び手の一部は、あんたたちの移送に回っていた」
アルトは顔を上げた。
ラグンは目を逸らさなかった。
「二十九人を帰したかったのは分かる。だが、そのために何を減らしたかも、見てくれ」
アルトは報告へ戻った。
部下の名前。
負傷した場所。
治療所へ着いた時刻。
「移送に必要な人数は確かめた。でも、出してもらったあと、元の隊に何人残るかまでは見ていなかった」
アルトは紙の端に書き足した。
「どこから話を聞けばいい」
ラグンは地図を引き寄せた。
負傷者を運ぶ道。
使えなくなっていた橋。
隣の隊へ頼めたはずの荷車。
説明が終わる頃には、夕方になっていた。
アルトは翌日、治療所へ行った。
そこで聞いた話は、ラグンの説明とすべて同じではなかった。
人手だけではなく、橋が使えなくなったことも、搬送が遅れた理由に挙げられた。
隣の隊も、別の負傷者を運んでいたという。
アルトは、確かめられたことと、証言が食い違うことを分けて書いた。
その紙を持って、もう一度ラグンを訪ねた。
「俺の言ったことが違ったか」
ラグンが聞いた。
「合っているところもある。まだ分からないところもある」
アルトは地図を広げた。
「次に同じことが起きた時、どこの隊へ頼めるのかを決めたい。橋が使えない時の道も」
ラグンはしばらく紙を見ていた。
やがて、残った片手で地図の端を押さえた。
「その道は、荷車が通れん。担架なら通れる」
アルトは書き直した。
その日、ラグンから礼は言われなかった。
けれど、説明は最後まで続いた。
*
古い市場の記録も、読み直した。
争いが完全になくなった場所ではなかった。
品物の代金でもめている。
荷車が壊れ、誰が払うかでもめている。
税を取りすぎたと、双方の商人が怒っている。
それでも、次の年の記録があった。
交易を続けたい者たちが、そのつど折り合いをつけていた。
アルトは、セラが言っていた薬と布を思い出した。
北では手に入る薬草。
南から来なくなった麻の布。
負傷者を降ろしたあと、空で戻る荷車に、それらを積めないかと提案した。
ザハルは、その場で許可しなかった。
何を、どこからどこへ運ぶのか。
誰が代金を払い、途中で失われたら誰が負担するのか。
アルトは軍務官に相談し、ハンナへも見積もりを頼んだ。
返事には、運賃が書いてあった。
空で帰るよりは安くできる。
だが、積み下ろしと荷物の責任まで無料にはしない。
アルトは紙を見て笑った。
その金額を払えるかどうか、今度は自分でも計算した。
北側ではレオンと関係する諸族の代表が条件を確かめた。
王国側にはガレスを通じて照会した。
認められたのは、品物と量、通る日を決めた、小さな取引だった。
まず一度、薬草と布を運んでみる。
戦争を終わらせるような出来事ではなかった。
それでもセラから、これで今月の包帯を減らさずに済む、という返事が来た。
アルトはその手紙を、次の会議へ持っていった。
*
正式な継承には、冬の中頃までかかった。
レオンが推しただけでは決まらなかった。
人間を盟主に置くこと自体を見直せという意見が出た。
王国へ情報を渡しすぎたという批判もあった。
アルトに従うための兵は出せないと、告げた一族もいた。
アルトは、全部を任せてほしいとは言わなかった。
軍の運用はザハルの補佐を受ける。
各族の土地へ兵を入れる時には、その代表と相談する。
自分に反対した者を、反対したことだけで遠ざけない。
最初の任期は一年。
任期が終わった時、続けるかどうかは評議会が判断する。
退任しても、自分が出した命令について答える責任は残る。
引き継ぐ相手へ、記録を渡す義務も残る。
大きな攻勢には評議会の同意を得る。
民間の備蓄を一存で取り上げない。
重要な命令は、届いたかどうかまで確かめる。
権限を越えた命令が出た場合には、ザハルが実行を止め、評議会へ判断を求められることも確認した。
前からあった決まりも多かった。
守られていなかった決まりもあった。
アルトは、自分なら必ず守れるとは言わなかった。
「守っていなければ、指摘してくれ。その時に俺が言い訳をしたら、今日の書類を見せてくれ」
バルサはその言葉を聞き、保管用の写しを一部増やさせた。
*
誓約の日、黒い甲冑の内張りがもう一度直された。
右肩へ当たらないよう、装具係が革紐を調整する。
アルトが手伝おうとすると、止められた。
「着る人が動くと、合わせられません」
両手を下ろした。
ミリアなら、もっと面白く叱っただろうと思った。
玉座の間には、諸族の代表と軍務官が集まっていた。
レオンは黒い甲冑を着ていなかった。
証人の席に立っていた。
アルトは代表たちへ向き直った。
「私は人間を守る。私は諸族を守る。そのどちらかを滅ぼすことで、もう一方を守ったとは言わない」
バルサが杖で床を叩いた。
「言えたね」
「言っただけだ」
「では、これから確かめさせてもらう」
署名の時、右手が震えた。
ゆっくり書いた。
自分の名は、最後まで書いた。
レオンが隣へ証人として署名した。
その日、アルトは正式に諸族連合軍の盟主となった。
人間が、魔王と呼ぶ役目だった。
*
就任は、王国の交渉窓口にも通知された。
レオンが退任し、アルトが後を継いだ。
ザハルが軍務を補佐する。
これまでの交渉と、負傷者の送還は継続する。
通知には、評議会の承認を示す印と、アルトの署名があった。
王とガレス、指定された担当者は、その書面を読んだ。
*
その後、前線を副官に任せて王都へ来たガレスは、王の執務室へ呼ばれた。
机には、二通の書類が置かれていた。
北から届いた、アルトの就任通知。
二十七年前、勇者レオンが魔王城へ向かった時の記録。
レオンの出発当時、ローデリクはまだ王子だった。
勇者を見送り、帰りに酒を奢れと言われた。
アルトへ魔王討伐を命じたのは、王になった自分だった。
王は、新しい通知へ手を置いた。
「新しい勇者の任命は、当面見合わせる」
ガレスは顔を上げた。
「魔王討伐を取りやめるのですか」
「北の脅威が消えたとは言っておらん。前線の守りも、襲われた者を助ける備えも続ける」
王はアルトの署名を指した。
「だが、交渉相手が誰かを知りながら、何も知らぬ若者へ討伐だけを命じて送り出すことはできん」
ガレスは黙っていた。
王は、レオンの証言書を引き寄せた。
「人間同士の大戦を防ぐために、戦争を続けた。そう説明したのだったな」
「はい。過去の命令書にも、王国と帝国の動員を見て攻勢を決めた記録があります」
「その目的で命じたことと、その命令が正しかったことは別だ」
王は紙を机へ戻した。
「侵攻しなければ本当に大戦になったのか。別の交渉で止められなかったのか。レオン自身にも、確かめきれぬ部分があるのだろう」
「本人も、そこは認めています」
窓の外から、訓練を終えた兵たちの声が聞こえた。
王は、声のする方へ一度だけ目を向けた。
「なら、過去を正しかったと決めるために、同じ戦争を続けるわけにはいかん」
ガレスは頷いた。
「北への新たな討伐の準備は止める。捕虜交換と、許可した品物の取引は続けよ。ただし、全面的な和平が成立したと兵に思わせるな」
「承知しました」
「それぞれの隊が命令を受け取ったかも確かめよ。交代する部隊への引き継ぎもだ」
ガレスの手が、膝の上でわずかに動いた。
「今度は、そこまで確認します」
*
「帝国には、どう説明なさいますか」
ガレスが尋ねた。
王は地図を見た。
「捕虜を返し、限られた品物を取引する。その事実と範囲は説明する。軍事同盟を結んだわけではないこともな」
「それだけで信用するとは限りません。北の戦いが減れば、王国が兵を東へ回すと警戒するでしょう」
「だからといって、信用させるために北の戦争を続けるのか」
ガレスは首を振った。
「いいえ。ただ、別の場所で緊張が高まる可能性は、考えておく必要があります」
王は頷いた。
「北の兵が不要になったと決めつけて、すぐ東へ動かすな。まず前線の状況を確かめる。帝国との交渉も続ける」
「魔王の継承については?」
「こちらから、内情を正式に伝えてはいない。向こうが何を聞きつけているかも、まだ分からん」
王は、アルトの通知を閉じた。
「その点も調べよ。知られていないと思い込んで動くな」
ガレスは書き留めた。
魔王の正体が分かっても、国境も、鉱山を巡る争いも消えなかった。
話し合える相手が一人増えた。
その相手と話すことで、別の国が何を疑うかまで考えなければならなかった。
*
王は、新しい命令書へ署名した。
新たな勇者の任命を、当面見合わせること。
前線の防衛を維持すること。
負傷者の送還と、限定的な交易を続けること。
「帰ってきた人数だけを報告するな」
王は言った。
「帰せなかった者のことも、計画を変えた理由も報告せよ」
「承知しました」
ガレスは命令書を受け取った。
退出する前に、もう一つ尋ねた。
「魔王制度の公表は、引き続き見送るということでよろしいですか」
王はすぐには答えなかった。
ミリアから問われた時と同じように、しばらく机の書類を見ていた。
「今は公表しない。だが、照合が進んだあとも、いつまでも同じ理由で隠せるとは思っておらん」
王は書きかけの記録へ目を戻した。
「公表しないと決めた日付と、私の名を残せ。次の報告でも、この判断を見直す」
ガレスは頷いた。
王は自分の署名を見た。
「知らなかったでは、もう済まされん」
*
王が知ったことは、そのまま国民へ公表されたわけではなかった。
魔王が、諸族連合軍の盟主として受け継がれる役目であること。
レオンが二十七年間、その役目を担っていたこと。
人間同士の大戦を防ぐために侵攻を続けた、と本人が説明していること。
それらは一般向けの公示には載らなかった。
王国の中でも、まとまった資料を読める者は限られていた。
ただし、秘密が完全に守られたわけではない。
黒い甲冑を着たアルトを見た兵がいた。
北へ出入りする商人がいた。
捕虜交換に関わった者もいた。
勇者が魔王になったと言う者がいた。
魔王の手先になっただけだと言う者もいた。
一方で、アルトのおかげで家族が帰ってきたという者もいた。
噂を聞いたことと、魔王制度の仕組みを知っていることは、同じではなかった。
*
レオンは北に残った。
勇者として王都へ迎えられることはなかった。
故郷へ帰る旅にも出なかった。
城で過去の命令書の原本を照合し、必要な時には、中間地帯の詰所へ出て証言した。
会談が終わると、また北へ戻る。
調査の窓口へ寄せられた遺族の問いも、作戦や部隊との関係を確かめながら、本人へ送られるようになった。
ある夕方、アルトが記録室へ行くと、レオンは一枚の手紙を前に座っていた。
「まだ書けないのか」
アルトが聞くと、彼は頷いた。
「なぜ、息子を死なせる必要があったのかと聞かれている」
机の端には作戦図があった。
「この道を攻めると決めた理由なら説明できる。だが、その説明を読んだからといって、この人が息子の死を受け入れられるわけではない」
アルトは向かいへ座った。
「許してもらえる答えを探してるのか」
レオンは、手紙から目を離さなかった。
「そうだったのかもしれん」
しばらくして、作戦図を横へよけた。
「今でも、あの時の判断がすべて間違っていたとは言い切れない」
「だろうな」
「だが、それを理由に、この人の息子が死んでよかったとは言えん」
レオンは新しい紙を出した。
何を考えて命じたか。
当時、知らなかったことは何か。
結果として誰が死んだか。
一つずつ書き始めた。
字が右へ傾いていた。
アルトが魔王を継いでも、過去の命令書の署名は変わらなかった。
そこにはレオンの名前が残っていた。
アルトは、その文字を見てから自分の手へ目を落とした。
いま自分が書く命令にも、同じような問いが届くかもしれない。
「レオン」
「何だ」
「俺が間違ってると思ったら、言ってくれ」
レオンは筆を置いた。
「俺に、その資格があると思うか」
「資格の話じゃない。聞くべき話を聞かずに、俺一人で正しいと決めたくない」
レオンは少し考えた。
「分かった」
「俺も、あんたが答えるのをやめそうになったら言う」
レオンは小さく息を吐いた。
「もう何度も言われている」
「なら、覚えておいてくれ」
アルトは立ち上がった。
レオンは、また紙へ向き直った。
*
負傷者の引き渡しは、月に一度を目標に続けられた。
雪で道が閉じた。
通行証の印が違った。
交代した兵に申し合わせが伝わっていなかった。
そのたび止まり、確かめ、予定を変えた。
予定した日に実施できないこともあった。
それでも、一度の延期で、次の計画までなくなることはなかった。
ハンナの荷車が薬を運んだ。
セラの治療所へ、新しい布が届いた。
引き渡しの場所では、人間と諸族の兵が、同じ担架を持つこともあった。
最初は互いの武器ばかり見ていた者たちが、どちらから持ち上げるかを相談するようになった。
戦争が終わったわけではない。
東ではまだ戦闘があった。
王国と帝国の争いも終わっていなかった。
王国から届く交渉の書面にも、北の戦いを減らした結果、別の国境で緊張が高まるのではないかという懸念が書かれていた。
アルトは、昔のレオンが見ていた地図を思い出した。
北の戦いを減らせば、ほかの土地も平和になる。
そんな簡単な話ではなかった。
それでも、帰った名前があった。
帰らなかった名前も残した。
ルッツの名を、自分の報告から省かなかった。
*
ミリアからの手紙には、王都の菓子屋の値上げが書かれていた。
治療所を手伝っていること。
記録院の仕事が、まだ元には戻らないこと。
兄の生きていた頃の話を書き始めたこと。
追伸があった。
先生には、生きていると知らせました。お返事を預かっています。
小さな紙が挟まれていた。
窓枠は作ってもらった。
取り付ける手が足りない。
山羊は、また逃げた。
アルトは声を出して笑った。
笑ってから、机へ額をつけた。
近くの軍務官が、大丈夫ですか、と尋ねた。
「大丈夫」
顔を上げずに答えた。
「少し、相談したいことができた」
*
王国からは、対面での追加聴取を求められていた。
アルトは、そのための入国許可と、聴取後に故郷へ寄る許可を申請した。
北を離れている間の仕事は、ザハルたちへ任せる。
ザハルだけで判断してよいこと。
評議会で決めること。
アルトの返事を待たずに動くべき緊急時。
それぞれ書いて確かめた。
王国から届いた許可には、期限と護衛、武器の扱いが記されていた。
王都で証言する。
そのあと、故郷で七日間過ごす。
聴取と往復の移動に必要な日数は、その七日間とは別に見込まれていた。
王国を出る期限も定められていた。
アルトは旅程を地図の横へ置いた。
魔王を辞めるのではなかった。
仕事を任せる相手と範囲を決め、そのうえで帰るのだった。
ザハルが書類を持ち上げた。
「お前がいない間にも、報告は来る。全部止めて待つわけにはいかん」
「分かってる。必要な判断は頼む。戻ったら、何があったか聞かせてくれ」
「そうしろ」
レオンは隣で聞いていた。
「俺は、その頼み方をしなかった」
アルトが見ると、彼は机へ目を落とした。
「自分で決める仕事を増やしておいて、自分がいなければならないと思っていた」
アルトはザハルを見た。
「頼む」
ザハルは頷き、担当する書類を持っていった。
レオンは、その背中を見送った。
「魔王のまま、帰るのだな」
「ああ」
「俺には、できなかった」
「俺も、一人じゃできない」
アルトは机に残った旅程を指した。
「村にいるのは七日だけだ。そのあと、また北へ戻る」
「待っている」
その返事を聞いてから、アルトは紙を畳んだ。
*
出発前、レオンが小さな包みを差し出した。
「リュゼに寄るなら、頼めるか」
古い宿代と、女主人へ宛てた手紙だった。
アルトは受け取った。
「利子、ついてるかもしれないぞ」
「その分は、あとで聞く」
「俺に請求が来たら、そのまま回すからな」
レオンが小さく笑った。
手紙の包みは荷袋へ入れた。
針の包みは、胸の内袋へしまった。
出発の朝、アルトは鎧ではなく、普段の上着を着た。
その上から、青い外套を羽織る。
黒い甲冑と兜は、部屋の台へ置いたままだった。
廊下へ出る前に、一度振り返った。
あの甲冑を着ていなくても、今の魔王は自分だ。
留守の判断を任せた書面にも、戻ってから確かめる命令にも、自分の名前がある。
王国で歓迎されるとは限らなかった。
それでも、故郷へ帰りたかった。
教師に会いたい。
鍛冶屋の妻へ針を返したい。
壊れた窓を直したい。
そして、ミリアに会いたかった。
アルトは荷袋を持ち直した。
今度は、帰るための旅だった。




