ただいま
春、アルトは王都の門で剣を預けた。
村から持ってきた古い剣だった。
王国の剣は、ルッツの死について調べるための記録とともに、すでに王都で保管されている。
今日は、その件について改めて話すために来た。
兵士は剣を確かめ、文書へ記した。
名を聞かれ、アルトと答えると、隣の兵もこちらを見た。
普段の上着に、青い外套。
傷の残る肩。
旅の荷袋。
黒い甲冑は着ていなかった。
だが、入国の許可を出した者たちは知っていた。
アルトは、現在の魔王だった。
任を辞めたから帰ってきたのではない。
留守をザハルたちへ任せ、王国の許可を得て、一時的に戻ってきたのだ。
勇者の凱旋を告げる鐘は鳴らなかった。
出迎えの列も、アルトのための青い旗もない。
通行を確かめる兵と、同行を命じられた騎士が待っていた。
*
門の近くで、何人かが足を止めた。
顔を背ける者がいた。
小さく罵る声も聞こえた。
魔族へ寝返った。
黒い甲冑を着ていたらしい。
あれが魔王になったという男か。
捕虜を帰した人だろう。
聞こえてくる話は、揃っていなかった。
どれか一つを聞いたことと、アルトが北で何を引き受けたかを知っていることは、同じではなかった。
アルトは、聞こえないふりをしなかった。
ここを通れることと、歓迎されることは違った。
「もう、いいですか」
門の脇から声がした。
ミリアだった。
髪が少し短くなっていた。
灰色の外套の留め具は、前と同じだった。
靴の踵には、新しい革が当てられていた。
アルトが手を上げると、彼女はまず、その上がり方を見た。
「まだ痛みますね」
「挨拶より先?」
「痛くないふりをされる前に、確かめておこうと思って」
アルトは笑った。
隠す前から、見つかっていた。
「元気だったか」
「ええ。あなたほど仕事を増やしていません」
「俺だって、増やしたくて増やしたんじゃない」
「では、しばらく増やさないでください」
ミリアは荷袋へ手を伸ばした。
アルトが渡すと、少しだけ眉を上げた。
「前より軽いですね」
「置いてこられるものは、置いてきた」
彼女は頷いた。
*
騎士が、まず宿へ案内すると言った。
アルトはミリアを見た。
「約束の店、まだやってるか」
「値上げしたと、手紙に書いたでしょう。潰れてはいません」
「じゃあ、連れていってくれ。俺の金で」
ミリアが少し笑った。
「今度は、菓子代ですね」
「ああ」
騎士が二人を見た。
ミリアは真面目な顔で言った。
「菓子屋は、禁止されていないと思うんですけど」
騎士は困った顔で許可書を見直した。
そして、道の途中なら寄ってよいと答えた。
*
聴取は長かった。
ルッツの剣は、どちらから来たか。
なぜ退けなかったか。
黒い甲冑を着ると決めたのは誰か。
途中で脱ぐことを考えたか。
同じ問いを何度も聞かれた。
アルトは怒らないようにした。
前の答えと違っていると言われれば、どちらが記憶に近いか考え直した。
はっきり覚えていないところは、そう答えた。
現在の役目についても尋ねられた。
どこまで一人で命じられるのか。
誰が命令を止められるのか。
人間の国と、何を話し合うつもりなのか。
すべてに立派な答えがあったわけではない。
分からないことは、北へ戻って確かめると答えた。
返事をする必要のある項目を、自分でも書き留めた。
その日の聴取が終わる頃には、肩がひどく痛んだ。
*
廊下へ出ると、ミリアが待っていた。
上手く話せましたか、とも。
これで大丈夫です、とも言わなかった。
「冷めないうちに食べるはずだったのに」
包みを持ち上げた。
朝、二人で店へ寄って買った菓子だった。
すぐに食べる時間が取れず、アルトの分はミリアに預けてあった。
「まだ残ってたんだ」
「あなたの分は」
「お前の分は」
「食べました」
アルトは包みを受け取り、一つ差し出した。
「それ、あなたのですよ」
「知ってる。半分なら?」
ミリアは菓子を割った。
大きい方を彼へ返した。
「また目分量?」
「記録官の目分量です」
菓子はすっかり冷めていた。
それでも中の蜜は甘く、噛むと生地が柔らかく潰れた。
アルトは食べ終わるまで黙っていた。
「おいしくないですか」
「うまい」
「それなら、もう少し嬉しそうにしてください」
ミリアの指に砂糖がついていた。
最初に会った日も、彼女は菓子を持っていた。
荷車を避けるように、帳面で背中を押された。
旅の間、何度も助けられた。
傷を治してもらっただけではない。
分からないことを分かったつもりで話すと、彼女は止めた。
できないことを一人でしようとすると、手を出した。
その人が、いま隣にいる。
アルトは包みを畳んだ。
「好きだ」
ミリアの指が止まった。
「出発前じゃないぞ」
彼女は目を伏せた。
しばらくして、小さく笑った。
「知っています」
「返事は」
「私、先に言いました」
「もう一度」
ミリアは彼を見た。
「好きです。帰ってきてくれて、嬉しいです」
アルトは頷いた。
一度では足りなくて、もう一度頷いた。
廊下の向こうで、騎士が庭を眺めていた。
「手、つないでいい?」
ミリアが少し首を傾げた。
「今まで、何度も掴んでいるでしょう」
「落ちそうじゃない時には、あんまり」
彼女は自分から左手を取った。
「では、歩きましょう。ここにいると、あの方がずっと庭を見ていないといけません」
*
聴取は、その後も続いた。
すべてが解決したわけではなかった。
ただ、今回予定されていた対面での確認を終え、アルトは許可通り、故郷へ向かうことになった。
ミリアも休みを取り、村まで同行することになった。
彼女の勤めは王都にある。
帰郷のあと、アルトが北へ戻る途中で王都を通る時に、そこで別れる予定だった。
次に離れる日も決まっていた。
それでも、今から一緒に村へ行けることを、アルトは嬉しいと思った。
*
出立の前に、ベルトの店へ寄った。
西門の近くにある、小さな店だった。
入口には段差があった。
声を掛けると、奥の仕事椅子からベルトが手を振った。
「やっと来たか。靴を脱げ」
「挨拶より先?」
「履いたままじゃ、底を外せん」
ミリアが横で笑った。
アルトは借りたつっかけへ履き替えた。
ベルトは靴底を見て、長い溜息をついた。
「よく穴が開かなかったな」
「丈夫に作った奴がいたんだろ」
「直す方の苦労も考えてくれ。縫い糸まで擦り切れかけてる」
縫い目を確かめ、替える革を選ぶ。
「明日の夕方まで預かる。村へ帰るのは、そのあとにしろ」
「分かった」
奥で、ベルトの父親が、革を使いすぎるなと怒鳴った。
ベルトは聞こえないふりをした。
ミリアが入口を見た。
「その段差、直した方がよさそうですね」
「分かってる」
「俺がやろうか」
アルトが言うと、ベルトは手を止めた。
「お前、肩が治ってからにしろ」
「皆、同じこと言うな」
「同じ怪我を見てるからだ」
アルトは黙って座り直した。
帰ってきたあとにも、頼まれる仕事があった。
まだやらなくてよいと、止めてくれる相手もいた。
*
靴を受け取った翌朝、村の剣も返された。
アルトは荷袋を背負い、ミリアとともに王都を出る前に、広場へ寄った。
銘板には文字が増えていた。
討伐任務終了。
勇者の任を解く。
生存を確認。
石工が、そのそばで道具を片づけていた。
「今度は運ばなくていい?」
「動かすな。ようやく据えたんだ」
アルトは笑った。
「これで終わりか」
「記録院から届いた、お前の勇者としての記録はここまでだ」
最後の行には、解任された日付があった。
今回、王都へ戻ったことは、入国と滞在の記録として別に残されている。
それは、魔王を討ち果たした勇者の凱旋ではなかった。
隣にはレオンの碑があった。
魔王城へ入城。
以後、帰還せず。
レオンは今も北にいる。
会談のために城を出ることはあっても、王都にも故郷にも帰っていない。
アルトはその文字を見た。
胸の内袋には、自分が返す針がある。
荷袋には、レオンの代わりに届ける宿代が入っていた。
アルトは碑から目を離し、歩き出した。
*
村へ向かう道は、途中まで北の街道と重なっていた。
リュゼで一泊し、そこから街道を外れてトール村へ向かう。
宿に着くと、同行する騎士が先に自分の部屋を頼んだ。
女主人はアルトを見てから、ミリアを見た。
それから、二人の手を見た。
「そちらのお二人は」
「二部屋で」
ミリアが先に言った。
女主人は少し笑い、鍵を出した。
アルトはレオンから預かった包みを渡した。
「昔、ここで宿代を借りた人から」
女主人は手紙を読み、古い帳簿を出した。
日付と金額を確かめる。
長い間、何も言わなかった。
「本人は?」
「来てない。俺が預かってきただけだ」
「そう」
女主人は手紙を畳んだ。
誰の名も、大きな声では呼ばなかった。
その男が今どこで何をしているのかも、ここでは尋ねなかった。
「宿代は確かに受け取った。そう伝えておくれ」
「利子は?」
「その話は、本人にするよ」
壁には、パンを持った男の絵が掛かっていた。
アルトは見上げた。
初めて見た時は、会ってみたいと思った。
今は、北へ戻ったら何を話すかを考えていた。
*
トール村へ入る前から、山羊が鳴いていた。
「聞いていた通りですね」
「もっと上品な声だったはずだ」
ミリアが笑った。
同行した騎士は、村長へ許可書を届けるため、先に道を曲がった。
滞在中は村長の家へ泊まり、帰りにも同行することになっていた。
坂の上にヨハンが立っていた。
鍬を肩へ載せ、額の汗を拭いている。
名を呼ぶと、鍬を下ろした。
「帰ったか」
「うん」
近づいてきたので、殴られるのかと思った。
違った。
頬を両側から掴まれた。
「痩せたな」
「痛い」
「そうか」
手が離れた。
ヨハンはミリアへ、手紙をありがとうと言った。
それから、アルトへ向き直った。
「ニコは東にいる。先月、字の汚い手紙が来た。兄貴は、まだだ」
アルトは頷いた。
「帰せなくて、悪い」
「お前に謝られても困る」
声が荒くなった。
ヨハンは地面を見て、息を吐いた。
「……いや。何も言わないのも腹が立つな。どうすりゃいいのか分からん」
「俺も」
「お前は考えろよ。向こうにいるんだから」
アルトは顔を上げた。
「考える。調べたことも話す」
ヨハンは頷いた。
すぐに、元の顔には戻らなかった。
それでも鍬を持ち直して言った。
「畑、草がひどいぞ」
「手、抜いた?」
「うちを先にやると言ったろ」
「知ってる。でも文句は言う」
「文句を聞く約束まではしてない」
アルトが笑うと、ヨハンも少し笑った。
畑へ歩き出してから、振り返らずに言った。
「夕飯、来い。二人とも」
ミリアが、はい、と答えた。
*
鍛冶屋の妻は、差し出された針の包みを開いた。
日に透かす。
指先で曲がりを確かめる。
「遅い」
「悪かった」
「なくしたかと思ったよ」
「何度か、なくしそうになった」
「そういうことは、黙って返せばいいのに」
針が箱へ戻された。
小さな音がした。
アルトは空になった手を見ていた。
返すところを、旅の間に何度も想像した。
本当に返せた時は、こんな小さな音がするだけだった。
それなのに、しばらく、その場を離れられなかった。
「また出るんだって?」
妻が聞いた。
「村には七日だけ。北で留守を頼んでる」
「忙しいね」
「うん」
魔王の仕事を辞めたのではない。
北へ戻れば、また報告を読み、命令を出す。
自分の決定で困った人がいれば、その話も聞かなければならない。
けれど、その仕事を続けることと、二度と村へ帰らないことは、同じではなかった。
妻は新しい針と糸を持ってきた。
「今度は買っていきな」
「借り物じゃなくなるな」
「そうだね」
「帰る理由が、一つ減る」
妻は呆れた顔をした。
「針を返す用がなきゃ、顔も見せないつもりかい」
アルトは顔を上げた。
「そんなことは」
「なら、また帰っておいで」
それから、代金を言われた。
硬貨を出すまでに少し掛かったが、何も急かされなかった。
*
翌日、学び舎へ行った。
新しい窓枠は、裏手で布を掛けられていた。
重い枠を運ぶ時には、ヨハンに手伝ってもらった。
「窓まで俺にやらせる気か」
「持ち上げるところだけ頼む」
右肩を示すと、ヨハンは鼻を鳴らした。
「最初からそう言え」
古い木を外すと、冬の間に溜まった埃が落ちた。
アルトが咳き込む。
窓の内側で子供が笑った。
「勇者でも、むせるんだ」
「もう勇者じゃない」
「じゃあ、もっとむせる?」
「たぶん、同じだな」
枠を据えたあと、ミリアが板を支えた。
アルトは左手で槌を握った。
一本目は、途中で曲がった。
「前より下手になってない?」
赤毛の子に言われた。
「使う手が違うんだよ」
ミリアが槌を受け取り、曲がった釘を抜いた。
新しい釘を打つ。
真っ直ぐ入った。
「俺より上手いじゃん」
「字も、縫い物も、釘も」
「剣は俺だな」
「今日は釘の仕事です」
アルトは板を支える方へ回った。
教師が内側から、枠の位置を見てくれた。
前に直そうとした時と同じ手が、木へ添えられていた。
「先生」
「うん」
「遅くなりました」
教師は頷いた。
「ミリアさんの手紙は読んだよ」
「まだ、話せていないことがあります」
「今日でなくてもいい。話せる時に聞かせておくれ」
アルトは頷いた。
*
机の上には古い絵本があった。
銀白のレオンが剣を掲げている。
赤毛の子が、アルトを見上げた。
「兄ちゃんは、魔王を倒したの?」
「倒してない」
「じゃあ、何しに帰ったの」
答えはいくつもあった。
証言するため。
話を聞くため。
約束を返すため。
だが、今ここで言いたいのは、そのどれでもなかった。
「会いたかったから」
子供は首を傾げた。
「じゃあ、魔王は今、何してるの?」
アルトはミリアを見た。
彼女は答えを代わりに言わなかった。
「今日は、休み」
ミリアが少し笑った。
子供は、魔王も休むのかと、不思議そうな顔をした。
目の前のアルトが、その役目を引き受けたことは知らない。
魔王が何をする立場なのかも、絵本に描かれた以上には知らなかった。
アルトは窓枠へ目を戻した。
勇者として出発し、魔王になって帰ってきた。
七日間の帰郷が終われば、また北へ向かう。
戦争は終わっていない。
ヨハンの兄も、まだ見つかっていない。
自分が斬った相手も、助けられなかった人も、生き返らない。
それでも、何もかも終わるまで帰ってはいけないと決めてしまえば、きっと、いつまでも帰れなかった。
アルトは板を押さえ直した。
「ここでいいか」
ミリアが位置を確かめ、頷いた。
*
最後の釘を、ミリアが打った。
アルトは窓を開けた。
引っかからなかった。
閉じて、もう一度開ける。
風が入った。
机の上の絵本がめくれた。
めでたし、めでたし。
最後の言葉のあとにある、何も書かれていない紙が光った。
「直った」
アルトが言った。
教師も窓を閉じ、また開けた。
二度確かめてから頷いた。
「ありがとう。では、今度は中へおいで」
子供たちが場所を空けた。
アルトは道具を片づけ、ミリアと入口へ回った。
戸を開けたところで、どこへ座るべきか少し迷った。
昔、自分が座っていた場所には、もう小さな子がいた。
教師が空いている椅子を二つ指した。
アルトが手を伸ばすと、ミリアが隣の一つを持った。
「こっちは、私が」
アルトは頷いた。
自分の椅子を置く。
隣に、ミリアの椅子が置かれる。
「おかえり、アルト」
教師が言った。
勇者でも、魔王でもなく、名前を呼ばれた。
「ただいま」
答えて、座った。
了
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
魔王を倒せば、戦争は終わる。
勇者が勝てば、みんな幸せになれる。
そんな物語を信じて旅に出た青年が、敵にも台所があり、帰りたい家があり、自分の知らない名前があると知っていく話でした。
レオンの考えが正しかったのか。
アルトなら、本当に別の道を選び続けられるのか。
ミリアは、知ったことをどこまで正しく残せるのか。
作中で起きたことだけでは、答えの出ない問いも残っています。
ただ、誰かの犠牲を「必要だった」の一言で閉じないこと。
助けた人の名前と同じように、助けられなかった人の名前も残すこと。
そして、自分がいなければ駄目だと思い込む前に、誰かへ留守を頼んでみること。
この物語では、その小さな変化を、魔王を倒すことよりも大切な決着にしたいと思いました。
ミリアがレオンを許さないことも、アルトを好きになることも、どちらかのために諦める必要のない気持ちだったのだと思います。
英雄になれなかった人にも、帰る場所があっていい。
最後の「ただいま」が、皆さまの中に少しでも残りましたら嬉しいです。




