届かなかった命令
最初に戻ってきたのは、馬だけだった。
鞍に血がついていた。
次に、片腕を押さえた諸族の伝令が来た。
「東の渡しで、交戦」
ザハルが肩を支えた。
「誰と」
「人間の騎兵です。こちらの交代部隊を、攻勢の先兵と」
報告は途切れた。
男の口から血が出た。
セラが駆け寄った。
ザハルは別の兵へ命じた。
退け。交換所へ戦闘を持ち込むな。人間側へ連絡を送れ。
言葉が次々に飛んだ。
それでも、東からの角笛は止まらなかった。
*
南側の連絡兵も駆けてきた。
「北の諸族部隊が、こちらの騎兵を攻撃した」
ほとんど同じ報告だった。
違うのは、最初に攻撃した者だけだった。
ミリアはガレスの署名のある紙を見せた。
「こちらの交換は北部方面軍の承認を受けています。そちらの指揮官へ」
「うちの隊長は倒れた。今は副長が」
「では、その方へ」
兵は紙を受け取った。
だが、すぐには走らなかった。
水車場の前へ集まる角族の護衛を見ていた。
「奴ら、こっちへ来てる」
「負傷者を守るためです」
「それを、どうやって見分ける」
ミリアは答えに詰まった。
旗を決めた。
文書も交わした。
けれど、その兵は旗の意味を知らなかった。
紙の届いていない場所では、昨日の敵は今日も敵だった。
*
北への道が使えなくなった。
退く兵と追う兵が、東の渡しから街道へ流れ込んでいるという。
旧水車場に残れば、双方の間へ挟まれる。
南のベルグなら、退避先として約束がある。
アルトが十二人へ説明すると、ナジが顔を上げた。
「また戻れっていうのか」
怒りより、恐怖のある声だった。
ようやく出られた場所だった。
そこで手ひどく扱われた者もいた。
「捕虜には戻さない。解放した紙も持っていく。外庭へ避難して、道が開くまで保護してもらう」
「本当に守ることができるのか」
アルトは簡単には頷けなかった。
ミリアが、双方の印のある書面を出した。
「私が先に行きます。直接約束した相手に、準備を始めてもらいます」
ナジは紙を見た。
やがて、差し出された自分の解放証明を受け取り、服の内側へ入れた。
ハンナが御者台へ上がった。
「決めるなら今だよ。怪我人を載せた車は、途中で急には曲がれない」
アルトは黒い甲冑の包みを見た。
*
胸甲を着ける間、指がうまく動かなかった。
ミリアが留め具を押さえた。
彼女が調整した紐は、アルトの身体へよく合った。
「これを着たら、向こうは俺を敵だと思う」
「はい」
否定されなかった。
東から戻った諸族の兵が、交換所へ近づいている。
護衛が止めようとしていたが、聞こうとしない。
仲間が死んだ。
人間に騙された。
ラグンの声だった。
ヴァル砦で自分を睨んだ、片腕の指揮官だった。
アルトは兜を持ち上げた。
「今は、こっちの兵を止める方が先だと思う」
ミリアは頷いた。
「そう判断したと、残します」
兜をかぶると、視界が狭くなった。
息が内側へ返ってきた。
自分の呼吸が、他人のもののように響いた。
*
ラグンの隊の前へ出ると、先頭の兵が足を止めた。
「移送を預かる盟主代理だ」
アルトは権限書と印を見せた。
ラグンは甲冑を見てから、紙を見た。
声で誰か分かったらしく、顔が強張った。
「攻撃された」
「聞いた」
「俺の部下が死んだ」
「聞いた」
「それで、あいつらを返すのか」
アルトの後ろには、人間の負傷者がいた。
ベルトがいた。
エドがいた。
「こいつらが攻撃したのか」
ラグンの顔が歪んだ。
「同じ人間だ」
アルトは、その言葉を知っていた。
自分も少し前まで、似たことを考えていた。
「なら、俺もだ」
兵たちの間にざわめきが走った。
ザハルが横へ立った。
「代理権限は有効だ、ラグン。負傷者への手出しは認めん。反対は俺が聞く。まず道を空けろ」
若い指揮官は、しばらく二人を見ていた。
やがて、兵へ脇に寄るよう命じた。
納得した顔ではなかった。
それでも、道は一本、残った。
ザハルはラグンたちをその場に留め、東から来る部隊を止めると告げた。
護衛の残りを、アルトへ付けた。
ミリアは馬へ乗った。
今度は、二人で歩く道ではなかった。




