二十九人の朝
交換の日の朝は、霧が出た。
旧水車場は、戦線の間を流れる浅い川のそばにあった。
かつて粉を挽いていた建物は、屋根の半分を失っている。
北へ行けばヴァルに通じる街道。
南へ行けば、荷車で数刻のベルグ。
双方の使者が、白地に黒い輪の旗を立てた。
ミリアは南側の二台とともに到着した。
アルトを見つけると、まず肩へ目を向けた。
「仕事、増やしてないぞ」
先に言うと、彼女は頷いた。
「では、今日もそのままでお願いします」
*
人間十七人が、北から来た三台に乗っていた。
諸族十二人が、南から来た二台に乗っていた。
荷車がすれ違って終わり、という簡単な話ではなかった。
一人ずつ名を呼ぶ。
返事を聞く。
返事ができない者は、同行者と所持品で確かめる。
傷の状態も書いた。
名簿と違えば、その場で双方の確認係へ知らせた。
ナジは、アルトが思っていたより若かった。
短くなった右手を左手で包み、車から降りた。
角の先が欠けている。
「俺は帰れるのか」
彼は、ザハルの兵へ尋ねた。
「名を確かめてからだ。名前を」
「名前はナジ。母はユハ。東の窯場。妹は、たぶんまだ俺の靴を勝手に履いてる」
確認係が少し笑った。
ナジは笑わなかった。
確かめられるものは全部言っておきたい、という顔だった。
*
エドは、ミリアにも娘の手紙を見せたがった。
「身元の確認のあとで」
彼女が言うと、照れたように笑った。
「分かってる。見せたかっただけだ」
紙をしまう指が二本足りなかった。
ベルトは隣の車から、アルトの靴を眺めていた。
「帰ったら、靴底を全部替えてやる」
「そんなに傷んでるか?」
「当たり前だ。ここまで歩いてきたんだろ」
ベルトはアルトの靴を見て、呆れたように笑った。
「だから、ちゃんと帰ってこいよ。直す靴がなきゃ商売にならん」
「分かった。代金は負けてくれよ」
「少しくらいはな」
二人は笑った。
*
照合が終わる頃、東の見張りから伝令が戻った。
区域外の渡しで、諸族の巡回部隊が予定より早く交代したらしい。
「前の部隊は接近停止を受領している。新しい部隊への引き継ぎは」
ザハルが聞くと、伝令は首を振った。
「まだ、確認できていません」
直接の経路を守る部隊からは、すべて返事が来ていた。
だが、少し外へ出れば、戦闘の続く土地がある。
ザハルは確認の使者を出した。
その間にも、空が暗くなっていった。
セラが熱のある患者の額に触れた。
「日が落ちるまでには、屋根の下へ入れたい」
ハンナは雲を見た。
「雨になるよ。あの雲は長い」
ミリアがアルトを見た。
「南への道は、今のところ確認が取れています。北へ向かう十二人は、返事を待たせるべきです」
アルトは地図を見た。
全員で待てば、安全が増すとは限らない。
分けて動けば、こちらの手は減る。
少し迷ってから、言った。
「南へ帰る十七人を先に出す。北の十二人は、ここで待つ。返事が来るまでは進ませない」
ミリアは、その判断と時刻を書いた。
身元を確かめた二十九人は、すでに正式に解放されていた。
その証明を一人ずつ渡す。
人間側の最初の車が動き始めた。
その時だった。
霧の向こうで、低い音がした。
雷ではなかった。
角笛だった。




