帰せる名前
翌朝、アルトは門まで歩いた。
二本の剣を持ち、荷袋を背負っていた。
グラウは止めなかった。
出るのか、と尋ねただけだった。
アルトは外の道を見た。
戻れる。
捕らえられているわけではなかった。
呪いもない。
魔王の役目を捨てれば死ぬという決まりもない。
レオンも、先代も、自分の足で出ていけたのだ。
それなのに帰らなかった。
胸の内側へ手を入れる。
針の包みがあった。
村の台所。
ヨハンの畑。
開かなくなった窓。
どれも城の書類よりはっきり思い出せた。
帰りたくないわけじゃない。
ただ、このまま帰っていいのか、まだ答えが出ていなかった。
「……まだ、出ない」
グラウは頷いた。
理由は聞かなかった。
*
それから数日、二人は記録室へ通った。
アルトは、戦争が再開されたあとも続いていた市場の記録を読んだ。戦わずに済んだ場所には、何か理由があるはずだった。
ミリアは、捕虜と行方不明者の記録を照合した。まだ生きている人がいないか、確かめるためだった。
どちらの調査も、すぐには成果が出なかった。
古い名簿では生きている。
新しい名簿にはいない。
移送先の書類は、まだ届いていない。
そんな人が何人もいた。
ある朝、ミリアがアルトを呼んだ。
机に、新しく届いたヴァルの名簿があった。
ベルト。
王国北方軍、ベルグ砦所属。
左下腿欠損。
元靴職人。
アルトは同じ行を二度読んだ。
「こいつ」
「所属も、職業も合っています。本人確認は必要ですが」
「生きてる?」
「この報告が書かれた時には」
日付を探した。
五日前だった。
椅子へ座ろうとして、膝がうまく曲がらなかった。
「サーヴェルは」
ミリアは別の紙へ指を置いた。
遺体確認。
捕虜ベルトの証言および所持品により身元を確認。
未発送の家族宛て書簡を保管。
アルトは目を閉じた。
ベルトが生きていた。
その喜びが胸に広がりきる前に、サーヴェルの死が突きつけられた。
「ベルトを帰せるか」
ミリアは名簿の後ろを開いた。
人間十七人。
諸族十二人。
戦線へ戻すことのできない負傷者を、相互に解放する計画だった。
人間の十七人は北のヴァルから南へ。
諸族の十二人はベルグから北へ。
途中の旧水車場で身元を照合し、それぞれの土地へ引き渡す。
だが、紙の隅には延期と書かれていた。
「魔王軍がベルグ砦付近へ兵を集める予定で、捕虜たちを安全に通せる道が確保できないそうです」
アルトは名簿を見た。
ベルグ砦で、ベルトたちを門の外に残した日のことを思い出した。
「また、帰れる人間を置き去りにするのか」
ミリアは答えず、名簿に並ぶ名前を指でなぞった。
ベルトを含む十七人。全員に、帰りを待つ場所がある。
*
北辺の代表が城へ集まったのは、それから数日後だった。
ザハルのほかに、森林諸族や地下都市の使節が来た。
獣人諸部族の老女バルサは、自分の杖を椅子の前へ立てた。
レオンは翌月末の軍の移動を説明した。
ベルグの前へ兵を集める。
王国と帝国の東部動員に、北から脅威を見せる。
効果がなければ、外郭を攻める案も検討する。
「何人死ぬ」
アルトが聞いた。
「分からない」
レオンは答えた。
アルトは名簿を机へ置いた。
「こいつらが帰れなくなることは、分かってる」
バルサが紙を見た。
「帰してやりたいだけなら、皆そう思っている」
「なら、帰せばいい」
「道を空けるためには兵を退く。兵を退けば、その先の村が弱くなる」
杖の先が、地図の端を指した。
「あんたは、ここを白い紙だと思っていないか」
アルトは黙った。
自分の地図には名前のなかった村だった。
レオンが言った。
「俺も最初は、全部止めればよいと思った」
「俺は、お前の昔話を聞きに来たんじゃない」
アルトは名簿を押さえた。
「世界中の戦争を明日から止めろなんて言ってない。ここにいる二十九人を帰すために、たった二日、道を空けられないかと聞いてるんだ」
部屋が静かになった。
アルトは紙を押さえた。
「明日から世界中の戦争を止めろと言ってない。二十九人を帰すための道を、二日、空けられないかと聞いてる」
バルサが彼を見た。
「その二日を、誰が守る」
勇者だから。
自分が行くから。
そう言いたかった。
それだけでは足りないことも、もう分かっていた。
「守れるようにするには、何が要る」
バルサの杖が床から離れた。
初めて、質問が届いた気がした。




