三年間の平和
「先代も、人間だった」
レオンは最初にそう言った。
机の端には飲みかけの茶があり、表面に薄い膜が張っていた。
魔王の飲み残した茶。
そんなものを、アルトは一度も考えたことがなかった。
「魔王って、何なんだ」
「諸族連合軍の総司令だ。彼らの王ではない」
一枚の協定書が広げられた。
角を持つ者。
獣の耳を持つ者。
森林の民。
地下都市。
いくつもの文字と印が並んでいた。
「一族の王へ全軍を預ければ、ほかの族は従属を恐れる。外から来た者なら公平になるわけではない。だが、彼らの家同士の争いには属していない」
「それで、魔王を人間に預けているというのか?」
「人間を知る者が要る。何を恐れ、何のために兵を集めるかを」
「うまく殺すために?」
レオンは目を逸らさなかった。
「それは含まれる」
アルトは机へ手をついた。
拳にすると殴ってしまいそうだった。
「最も古い目的は、人間同士の大戦を起こさせないことだ。昔、人間の大戦が起きるたび、諸族の森も鉱山も、兵と物資を集める場所として荒らされた。そう記録にある」
「戦争を止めるために、戦争をしてるのか」
「共通の敵であり続ける。王国も帝国も、互いへ全軍を向けられないようにする」
アルトは短く息を吐いた。
「それをはじめて聞いたとき、お前は信じたのか」
「信じなかった」
レオンが一枚の命令書を置いた。
二十七年前の日付だった。
全戦線における攻勢の停止。
越境の禁止。
現有防衛線の保持。
最後に、レオンの署名があった。
「俺が最初に出した命令だ」
*
紙の束には、戦争が止まった三年間が残っていた。
帰還兵の人数。
廃された戦時税。
開かれた国境市場。
麦の価格。
レオンの書いたものだけではなかった。
王国の布告。
帝国の商人の手紙。
小国の市場札。
停戦が続くのを確かめたあと、別の日付の命令で、係争地の軍を少しずつ引いていた。
「本当に、平和だったんだな」
「前の年よりは、間違いなく」
市場の再開を知らせる刷り物の端に、絵本の広告があった。
白い勇者。
黒い城。
「この本」
「俺も持っている」
「読んだのか」
「読んだ。最後に、兵士が家へ帰っていた」
レオンの声が少し柔らかくなった。
「そこは、本当だった」
二年目の記録は厚かった。
鉱山の所有権。
川の水を引く権利。
戦争中だけ棚上げされていた領地の境。
王国は昔の条約を持ち出した。
帝国はさらに古い地図を持ち出した。
商人が襲われた。
役人が殺された。
どちらの犯人も、相手の国の手先だと言われた。
「仲介は?」
「中立の小国や商人たちが間に入った。実際に、話がまとまった土地もあった」
「じゃあ、ほかの土地でも同じようにすれば」
「俺もそう考えた。交易路を開き、話し合いの機会を増やそうとした」
「それでも駄目だったのか」
「一つの争いが収まる間に、別の場所で兵が集まった」
レオンは地図へ目を落とした。
三年目の終わりには、別の地図があった。
備蓄倉の建設。
予備兵の招集。
兵站路の整備。
北へ向いていた線が、人間の国同士の境で、曲がっている。
「明日にも戦争始まると思った。もう一日待とうとも思った。何度もな」
次に置かれたのは、侵攻命令だった。
人間の砦を攻め、街道を押さえ、王国と帝国の双方の背後へ脅威を置く。
停止すべき線まで細かく記されていた。
死者の数字は、別の紙にあった。
「王国と帝国は兵の一部を北へ戻した。交渉が再開された」
アルトは死者の欄を見ていた。
「人間同士の戦争は、まだ始まってなかったんだろ」
「そうだ」
「始まらなかったかもしれない」
「ああ」
「こっちは、かもしれないじゃない」
数字を指で叩いた。
紙は柔らかく、音もしなかった。
レオンは頷いた。
「そうだ」
「それで、二十四年?」
返事がなくても、次の棚を見れば分かった。
命令書が並んでいた。
何年分も。
何人分も。
*
「人間の王たちは、このことを知ってるのか」
「俺の正体も、役目の中身も知らない。これは口裏を合わせた芝居ではない」
「兵士は本当に殺し合ってる」
「お前も見ただろう」
「なら、何を管理してる」
「軍を置く場所。攻める時機。退く線。諸族の町が潰されるほど負けず、人間の国が崩れるほど勝たないようにする」
「その間で、兵士が大勢死んだとしてもか」
「そうだ」
「こっちにも、勝手に戦う奴はいるだろ」
「いる。俺の命令だけで、すべては止まらん」
アルトは紙を見た。
「それで、よく抑えてるなんて言えるな」
レオンはしばらく黙った。
「そう言えば、自分のしていることを正しいと思いやすかったのかもしれん」
正しいと言えば否定できた。
仕方ないと言えば、そう言われる側の話ができた。
認められると、怒りの持っていき先まで自分で探さなければならなかった。
*
地下の記録室には、対になった肖像画があった。
若い女と、黒い甲冑。
髭のある男と、兜を脇へ抱えた同じ男。
若いレオンと、黒い甲冑。
甲冑は代替わりのたびに補修され、内側を直されていた。
体格は違う。
それでも、外から見える輪郭は揃えられていた。
「誰も、この秘密を漏らさないのか」
「漏れる。魔王は称号だとか、人間だとか。昔から噂はある。だが、実際に確かめられる者はほとんどいない」
「命令書に名前があるだろ」
「城に残す原本にはな。前線の写しは命令番号と職印だけだ。同じ番号を引けば、誰が決めたか分かる」
レオンは棚へ手を置いた。
「隠してきた。だが、記録からまで自分を消すつもりはない」
アルトは、その言い分が正しいとは思わなかった。
責任の記録を、責任を問えない場所へ閉じ込めていることに変わりはなかった。
「次を探してるのか」
レオンは頷いた。
「二十七年で、ここまで来た王国の勇者は、お前ただ一人だけだ」
「剣で負けた勇者を?」
「俺も先代に剣で負けた。剣だけなら、ほかに候補はいる」
「俺は向いてない。一人を見捨てるのが嫌なんだ」
レオンは自分の手を見た。
「俺は、向いてきたことを恐れている」
指には剣の古い傷があった。
爪の脇に、インクがついていた。
「死者十人、生存百人。前より損害が少ない。そう読めば仕事は速い。次の紙が来るからな」
アルトは何も言えなかった。
「最近は、それで済むようになってきた」
剣では勝てなかった男が、別の何かには長い間、負け続けていた。
だからといって、許せるわけではなかった。
アルトは棚の端を指した。
「成功した市場の記録は」
レオンが顔を上げた。
「あるんだろ」
「ある」
「なら、それも見せろよ。失敗した紙ばっかりで、俺に決めさせるな」
レオンの手が止まった。
やがて棚の奥から、薄い帳面を引き抜いた。




