第9話 皇子の訪問
部下たちが持ち寄ったご馳走の山をなんとか平らげ、慌ただしい賑やかさが去った夕刻。
エレは静まり返った執務室で、窓から差し込む茜色の残照を眺めながら、茶葉を浮かべたカップを傾けていた。部下たちの温かさに触れ、固く閉ざしていた心がわずかにほぐれたような、心地よい徒労感が体を包んでいる。
トントントン。
先ほどまでの威勢の良い連中とは異なる、控えめで洗練されたノックの音が響いた。
「誰だ? 入ってくれ」
「夜分に失礼するよ、エレ将軍」
「……っ!? サフィール殿下……!?」
エレは弾かれたように立ち上がり、即座に胸に手を当てて敬礼の体勢をとった。
黄金の飾りが施された軍服を身に纏い、眩しいほどの琥珀色の瞳を悪戯っぽく輝かせているのは、ガルディニア帝国第一皇子――サフィールその人だった。
「殿下、このような前線の執務室に、警護もおつけにならずお一人で来られるとは……。何事でしょうか」
「何事、とは冷たいな。ヴァルカ征伐を終え、本国へ発つ前の挨拶だよ。……それと、これを差し入れにと思ってね」
サフィールが差し出したのは、帝都の最高級の茶葉が入った銀の小箱と、焼きたての香ばしい焼菓子だった。
「殿下自らそのような……。私には勿体ない品です」
「かた苦しい礼儀は抜きだ。戦場では背中を預け合った間柄だろう? それに……たまには若き天才将軍の、鎧を脱いだ素顔とお茶でも飲みたいと思ってな」
サフィールは勝手知ったる様子で丸椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
エレは困惑しつつも、執務室の棚から簡素な素焼きのカップを取り出し、手早くお湯を注いで茶を淹れた。
部屋の中に、甘い香りが広がる。
「……軍営の簡素なお茶です。お口に合えば良いのですが」
「十分だよ。君が淹れてくれただけでね」
サフィールはカップを受け取ると、ゆっくりと一口含み、満足そうに目を細めた。
「ふむ、美味い。君の手淹れのお茶が飲めるとは、遠出をした甲斐があったというものだ」
「……お戯れを」
エレは視線を落とし、自らのカップを固く握りしめた。
執務室の柔らかな光の中で見せるサフィールの笑顔はあまりにも眩しく、まっすぐで、毒気というものが存在しなかった。
「冗談だよ。戦の後の君はいつも根を詰めすぎる。……これを一緒にどうかな? 帝都の馴染みの店から取り寄せた、焼き菓子なんだ」
サフィールが蓋を開けると、香ばしいバターと甘い果実の香りが室内に広がった。
エレは戸惑いながらも、勧められるままに焼き菓子を一つ手に取った。一口かじると、口の中でほろりと崩れ、優しい甘さが広がる。
「……美味しい、です」
「そうかい? それはよかった」
サフィールは嬉しそうに目を細めると、エレの向かいに腰掛けた。
先ほどの部下たちとの賑やかな宴とは違う、穏やかで甘やかな沈黙が二人を包み込む。戦場の硝煙も、軍隊の階級も忘れてしまうような、不思議な時間だった。
「エレ。……君は時折、遠くを見るような目をするね」
ふいにサフィールが静かな声で切り出した。琥珀色の瞳が、まっすぐにエレを見つめている。
「戦場での君は恐ろしいほどに強くて冷徹な男だ。だが、ふとした瞬間に……今にも消えてしまいそうな、酷く悲しい顔をする」
「……そのような、ことは」
エレは咄嗟に視線を外した。
胸の奥がドクンと激しく跳ねる。冷たい「蒼の瞳」の奥にある復讐心を見透かされたのではないかという恐怖と、それ以上に、この男が同性の将校である自分をそこまで深く観察していたことに対する動揺が押し寄せていた。
「隠さなくてもいい。……君が男として、将軍として、どれほど重いものを背負ってここに立っているかは分からないが、私にできることがあれば言ってほしい。私は、君の力になりたいんだ」
サフィールは優しく、だが確かな熱を込めて言った。
その手が一瞬、机の上に置かれたエレの手へ伸びかけたが、彼は理性を保つように途中で手を引っ込んだ。同性の部下に対する距離感を超えかけた己の衝動を抑え込むような、その不器用な動作が、エレの胸を余計に締め付ける。
(やめてくれ……)
エレは心の中で悲痛な叫びを上げた。
「……お気遣い、感謝いたします。ですが、私は帝国の将軍。己の役割を果たすだけでございます」
エレは努めて冷淡に言い放ち、深く頭を下げた。
サフィールは一瞬だけ寂しげな表情を浮かべたが、すぐにいつもの穏やかな笑顔を取り戻した。
「……そうだね。野心的な問いかけをしてすまなかった。……だが、忘れないでくれ。戦場でも、それ以外でも、私にとって君はかけがえのない友であり、同志だ。私はいつだって君の味方だよ」
サフィールは立ち上がり、去り際に振り返ってそう言い残すと、静かに扉を閉めた。
再び執務室に重い静寂が戻る。
エレは残された焼き菓子の箱を見つめた。
(味方、だと……? 戯言を)
エレは立ち上がり、冷めきった茶を一口で飲み干した。
サフィールの清廉さ、部下思いの優しさ、そして一人の青年将軍としての自分に向けられる不器用で確かな好意。それらすべて本物だろう。だからこそ、この男はタチが悪い。甘い言葉で懐に忍び込み、こちらの心を鈍らせようとする無意識の毒だ。
(惑わされるな、ルシフィード。あの男の血管には、父上や母上を殺し、ラディオンを焼き尽くした男の血が流れている。どれほど優しく微笑もうと、奴は皇帝の息子……我が仇だ)
エレは軍服の胸元を強く握りしめ、両眼の奥に燻る呪薬の熱に身を委ねた。
相手が名君であろうと、どれほど自分を高く評価しようと関係ない。利用できるものは利用し、最終的には帝国の喉元を喰いちぎる。
「……甘いのは、この菓子だけで十分だ」
エレは軍帽を深く被り直し、漆黒の夜が広がる窓の外へと鋭い「蒼の視線」を向けた。再び執務室に静寂が戻る。
エレは残された甘い焼き菓子の香りと、手元に残るサフィールの温もりの名残を感じながら、両手で顔を覆った。




